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自己紹介番外編2.~「死」を考えずに「キャリア」を語るのは不自然だ。

「番外編2」ともなると、もはや「番外編」と言ってはいけないのではないか、という気にすらなってくるのであります。
と言いますか、良く考えればこの話は私の歩みにとって重要な位置を占める話なので、本当は「番外」という言葉を使ってはいけなかったかもしれません。……が、今更なのでこのままで進めてまいります。どうぞお許しを。


1.「死ぬ」ことだって、キャリアでしょう?

私のビジネスパーソン人生は、ずっと「人材領域」で過ごしています。これまでに、転職・就職情報誌、人材派遣、学生の就活、就職斡旋……といった、わかりやすい「狭義のキャリア」分野、リカレント教育、研修や社員向けコーチングなどの「人材開発」分野、その他、人材開発全般の(主にアカデミック)情報誌での仕事なども経験しています。

常に常に、「人が学び、働き、成長発達していく」ということを探求し、現場に関わってきたのです。
(この道のりは、番外編じゃない(笑)自己紹介記事の中にある動画でもお話しておりますので、良かったらご覧ください)

そして数年前。
キャリアコンサルタントとして研修登壇したり、多くの方々と個人セッションをする中で、ある日素朴な疑問がわいてきたのです。

「なぜ、『死ぬ』ということがキャリアの領域で語られないのだろう」と。


「ライフイベント」という言葉があります。
たとえば、転職、就職、異動、昇進昇格、降格、結婚、引っ越し、異動……人生におとずれるさまざまなイベントのことで、キャリア研修などでは、それらを内省材料にしてワークをしたりします。ただし、よく考えれば、それは体験する人、しない人、さまざまに分かれますよね。
でも、どんな人も等しく体験するライフイベントがあるんです。それは、たったふたつ。

「誕生と死」です。

誕生については、人それぞれにもうすでに何十年も遠い昔、だったとしても、死はこれから向かう、誰もが迎える重要なビッグイベント。けれども不思議なもので、誰もが経験するライフイベントのわりには、ロールモデルから話を聞くことができません。必ずそれを体験するのに、そのことについて学ぶ機会があるわけではなく、そもそも話題にすることすら忌み嫌われたり、怖い、とか不謹慎だという感じで、堂々と語られることはない。これは、とても不思議なことではないでしょうか?

キャリアを語る現場では、まるでいつまでも元気で生き続けるかのように、そしてずっと成長し続け、ずっと拡大することが善であるかのように、さまざまな取り組みがなされます。間違いなく、老いや衰えもあるはずなのに…。そしてもちろん、私もその取り組みの一端を担っていました。


「『死ぬ』ことだって、キャリアのひとつだ」

と、私は強烈に気づいたのです。
死のことを扱わずにキャリアを語るのは不自然だ、と。


2.「死」を学ぶ日々がはじまる

「キャリアコンサルタントとして、すべての人が体験するライフイベントである『死』について、自分なりの考えを持っていたい」という思いから、数年前からそのことについて学びはじめました。もちろん私自身も、「自分の死」は怖いから(今は変わってきました)、自分のためにも学びたかったのです。

たとえば、高野山にある高野山大学で終末期医療について、死に直面する心理学についてなどの学びに触れたり、昏睡状態の方に関わる心理的技法であるコーマワークを学んだり、お坊さんが開く「死のワークショップ」に参加したり。実践としては、ご縁をいただいて高野山真言宗で得度をして僧侶の入り口に立ったり。前回の記事通り、擬死再生の儀式でもある山伏修行を何度も繰り返しました。山伏修行は、生きること・死ぬことが、肉体の死を伴わなくても深く感じられる体験でもあります。
また、癌や原因不明の病、3.11などで臨死体験をした、死にかけた、という方々のお話を聞いたりもしました。(私自身も、これまでに3回死にかける「ような」体験をしています。生きてるので、死んでない。笑)

ちなみに、キャリア理論の中にも「小さな死」「象徴的な死」と言われる考え方がありまして、人生の移行期という意味を持つ「トランジション」という理論です。

トランジション

これは、山伏修行を紹介する記事でも掲載した、「通過儀礼」のスライドともすごく繋がっています。(というか、現代の心理学系理論には、先住民族の知恵が形を変えたものを結構みかけます。やはり、人の成長・発達は古来から綿々と続くテーマなのでしょうね)

通過儀礼


トランジション理論しかり、通過儀礼のステップしかり。
それまでのアイデンティティを失い、あらたなアイデンティティを持って生まれ変わる、というイメージですが、まさに「死」というものは、肉体の死でなくても、私たちの人生には組み込まれているのです。
ビジネスシーンであれば、たとえば過去の成功体験にしがみついてしまうとか、役職定年が受け入れられないとか、厳しい言い方ですが「往生際が悪い」状態というのは、「死に切れていない」ってことだと思うんですね。「死」というものを身近に、怖いものではない何かとしてとらえ直した時に、私たちのキャリアはもっと開かれるのではないか、というのが取り組みを通しての私の気づきです。


3.「死」にふれると、生命が躍動する

誰もが、間違いなく、死にます。これは断言できる事実です。
その、目を背けられない事実と向き合い、対話をしたときに、人が本来持っている混じりっ気のない生命エネルギーが立ち上がってくるのでは、つまり生命の躍動が出現するのでは、と考えています。

実際、事故や災害などで死にかけた体験をシェアしていくと、「ここで死ねない!」という、言葉にならない内側からマグマのようにわいてくるエネルギーを体感した方が少なくありません(私もあります)。
あれはちょっと表現しづらい、顕在意識ではとらえづらい、生命力の叫びのように思います。
(一方で、こういう激しい躍動ではなく、静かな平穏の地平線のような体験もまた、死に直面した方によくお聞きする状態のひとつです。これもまた、生命のエネルギーだと私はとらえています)


企業の人事担当の方とお話すると、こんな声が聞こえます。

「ちょっと言葉は悪いんですが、うちの社員、死んでますよ……」

肉体は生きているのに、死んでいる。これ、言われてみればよく見かける、もしくは思い当たるようなところ、ありませんでしょうか。まさに、生命の躍動が感じられない、という状態です。

ある企業の経営陣にこのお話をしたら、「わかります、わかります」とおっしゃるので、「やはり、社員さんを見ていてそう思われますか?」とお聞きしたら、「いえ、私が」とお答えになりました。
これは、笑い話でもなんでもなくて(しかも、ご自分がそうだと開示できる素敵な役員さんだと私は思う)。生命の躍動をしていなくても、肉体的には生きていられるし、活動もできてしまうわけです。社会的な役割も果たせてしまうわけです。果たしてそれで、いいのでしょうか、というのが私の問いです。

こんなことを、企業のキャリア開発領域に取り入れたいと、今月法人を立ち上げました。(死のことだけではなく、「あたま・こころ・からだ」の全体性アプローチ、とご説明しています)
法人のサイトで、この話を書いておりますので、読んでいただけたらとても嬉しいです。

株式会社ホリスティック・キャリア法人サイト内「About~ホリスティック・キャリアとは」


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Kiyono Watanabe
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