生きるのがめんどくさい。
先日、20年くらいのつきあいになる友人と、いつものようにダラダラ話をしていた。ふと、こんな話がしたくなった。
「なんかさあ、『生きるのがめんどくさい』って思うことない?」
「あるよぉ!」と彼女。あるんだ。
「あるよねえ、あるんだよ、そういう時が。年に2-3回くらい」
「え?私なんて、月に4回くらいはあるよ」
「結構あるね」
「あるよ。私なんて一人暮らしだからつい考えちゃうんだろうね。でも誰もツッコんでくれないから、すぐ平静に戻る(笑)」
「へえ~。なんかさ、『こんなことしてて何になるの』っていうような、うんざりするっていうか、その…………」
「虚無感?」
「そうそう、虚無感。これはいつまで続くんだろう、って思っちゃう」
「わかるわ」
意見が一致した喜びで、場の熱量がグッとあがる。
「この前、夫に『たまーに、生きるのがめんどくさいって思っちゃうんだよね』と言ったら、『そんなこと言わないで』と言われた」
「旦那さん、真面目だなあ」
あはは。そうなの。ウチの夫は真面目で優しい人です。
「なんにせよ、生きるのがめんどうだって思う時があるのよね。別に死にたいわけじゃないし、毎日充実して幸せだし、まったくもって不満はないんだけどさ」
「そうそう。逃げないんだけど、これはいつまで続くんだろう、っていう虚無感があるよね」
「そうなのよ!!!『いつまで続くんだろう』ってさ、うんざりする時があるの。もうね、何がめんどくさいってさ、呼吸するのがめんどくさいのよ」
「は?」
意表をつかれた友人。
「呼吸するのがさ、もう疲れちゃうの。息するの、めんどうじゃない?」
「………………めんどう」
あ、賛同した(笑)。
「この肉体の生命活動を行うことが、めんどうになっちゃうのよね。呼吸って1日2万回してるんだよ。まあ、呼吸は別に私が努力しているわけじゃないけど。それを思うと心臓さんは本当にすごいよ。私が生きるのがめんどうだーと思っている時も、ずっとその営みを続けてくれているんだもん。本当にありがたい」
「つかれた時に思うの?」
「うーん、まあ、それもあるかもしれないけれど、たまーに、この先もずっと、この肉体で生命活動を続けるんだって思うと、なんかつかれちゃって、めんどうだなって思ってしまう」
「じゃあさ、めんどうじゃないことは?」
「うーん。だらっと横になっていることかな」
私は体力がないので、つかれると本当に糸くずのようにただただ落ちているだけのような状態になるのです。
「えー。だらっと寝ころんだりするの?普段」
「まあ、疲れ果てた時はね。しないの?」
「しないよ。私、夜眠る時だけ横になって、それ以外の時間、家では座ってるか、立ってるから」
「そうなんだ……すごいな」
「私はさ、『自分がめんどうくさい』んだよね」
「は?」
「この自分ってさ、本当にめんどうくさい存在だな、と思って」
「そうなんだ」
「思わない?」
「思わない」
意見が一致したはずが、お互いどうも方向性がちがったらしい。
ということを確認しあって、なるほどなあとしみじみしながら、海老焼売をモグモグしたのであった。
帰り道、365日のうちほとんどがそんなことを思っていないのに、ほんの数日、そういう思いが出てくるのは何かな~と考えていた。
おおむね、疲労がたまった時にそう感じるんだろう。からだとこころはつながっている。疲労することで変なことを考えるのは、自然の摂理だ。
でも、ふたつ気づいたことがある。
ひとつ目は。
生きるのがめんどうになるのはきっと、「先が観えた気になった」時だろう。
中身はそんなに大それたことじゃない。
たとえば、「この先一生、お昼ごはんのメニューは決まっていますよ」と言われたような気分だ。
ランチのメニューが今日の時点で一生分、全部わかっているなんて、かなりうんざりする。しんどいし、虚無感でいっぱいだ。
なんとなく、この肉体の、この生命活動をずっとずっと続けるのだと思うと、「生きるのがめんどくさい」と思ってしまうのだ。
この先ずっと、食事して、排泄して、呼吸をして、眠り、起きる。そしてまた、食事して、排泄して、呼吸して、眠り、起きる。
ずっとずっと、肉体が死ぬまで続くのだ。はあ、うんざりする。
生きるのがめんどうにならないためにも、今ココを生きるのは重要だ。
そしてふたつ目は、「全部自分でやらなきゃならない」と思っている時だ。
食事は別として、排泄も呼吸も眠ることも目覚めることも、私の自力だけでやっているわけではない。心臓の拍動のように、身体がやってくれていることを忘れてしまい、「呼吸をしなきゃ」と思ってしまう。かなり「おかげさま」で生きてるはずなのに、それを忘れて一生自力のつもりでいるらしい。
いかん。疲れているに違いない。
しまった。
こんな風に書いていたら、なんかつかれてきたのでめんどうくさくなりそうだ。
今夜は早く寝よう。