見出し画像

南からの贈り物2 幻のたこぶね 


指宿 知林ヶ島を望む田良岬を行く

岬まで行ってみるけれども一緒に行くかと、夫が聞いて来た。
亡くなった母の物など片付いていないので、出かけるのもあまり気が進まないが、家に閉じこもってばかりいるのも良くないだろう。それで薦められるまま、出かけてみることにした。と言っても、家から車で五分である。

夫は見たい植物があるのだと言う。私は浜辺を歩くことにした。

風も無く、海は穏やかだった。浜は潮がだんだん引いて来る時刻だったようで、打ち上げられた貝殻や海藻などが続いているのが列をなしている。波が静かに打ち寄せる波打ち際が気持ちが良い。裸足になって、波打ち際をたまに海水に足を浸けながら、岬の先端へ向けてゆっくりと歩いて行った。

浜で見つけた海の生き物

だいぶ歩いた頃、濡れた砂の上に、面白い物を見つけた。それは蛸のようだが、貝殻を背負っている。もう生きてはいないようだったし、大事に持ち帰ることにした。だいぶ離れてしまった夫の居る場所まで向かった。夫は、ハマゴウやテリハノイバラやハマヒルガオのある浜の奥で、お目当てのハマボウフウの写真を撮っているのだった。私は、その蛸を差し出してみせた。

「たこぶねかな、かいだこかな。面白い物を拾ったね。」と、ビニール袋を出してくれた。夫のカメラバックには、いつもビニール袋が用意されている。それは、植物の果実や種を入れる為であったり、貝殻を入れる為であったりした。

家に戻って、図鑑などで調べる前に、リンドバーグ夫人の『海からの贈物』を広げてみた。それにたこぶねは載っていた。

浜辺で見られる世界の住人の中に、稀にしか出会わない、珍しいのがいて、たこぶねはその貝と少しも結び付いていない。貝は実際は、子供のための揺籃であって、母のたこぶねはこれを抱えて海の表面に浮び上がり、そこで卵が孵って、子供たちは泳ぎ去り、母のたこぶねは貝を捨て新しい生活を始める。(『海からの贈物』「たこぶね」リンドバーグ夫人、吉田健一訳)

が、後日、図鑑などよく調べてみて、それはたこぶねではなく、似た種類のアオイガイ、別名かいだこのほうであることがわかった。背負っている貝殻が少し違っていて、しかし、生態は似たようなものであるらしい。

幻のたこぶねではあったが、それらの母性を思う時、亡くなった母のことにも考えが及ぶ。
実家に長らく居座っていた私が、ようやく遅くに結婚し、母は肩の荷を降ろしたようであった。

しばらくして、東京を離れ田舎暮らしを始めた夫と私であったが、両親は同じ九州でも、二人の生まれ故郷の福岡に東京より戻って暮らすことを選んだ。父が亡き後、母は福岡の都会でのマンションの気ままな一人暮らしを好んだ。

母は、周りの人にいつも、ピンピンコロリで逝くのよと言っていたそうである。また、私に迷惑をかけてはいけないとも言っていたようである。それで、少しばかりの老いはあったものの、本当に誰にも迷惑をかけることなく、亡くなる前日まで元気でいてくれた。

久し振りに会った年末年始、母の足の爪が伸びているのに気が付いて切ってあげた。膝が曲げにくくなっていたので、自分で切りずらかったようだ。娘に足の爪を切ってもらうようになるとは思ってもみなかったと、母は言った。それが、母との最後の思い出の一齣となった。

蛸と貝殻

さて、持ち帰ったかいだこだが、写真を撮ったあと、蛸のほうは、顔見知りの猫に見つかって、それはそれは美味しそうに食べられてしまった。それは、海の物を土に返すよりも、よっぽど良かったに違いない。

貝殻を写す

残された貝殻は美しい。光に透かせて、その繊細な襞の織りなす影に見惚れる。が、もっと稀なるたこぶねも、いつか出会える時があるだろうか。それは、生涯に一度あったとしたらとても幸運だ。浜辺歩きに、幻も求めてみようか。

(『南からの贈り物2 幻のたこぶね』
 2015年8月5日発行、
 季刊俳句同人誌「晶」13号に掲載)

後記)
現在、書店で見かける『海からの贈物』の著者名はアン・モロウ・リンドバーグとなっている。が、私がぼろぼろになるまで愛読している昭和42年発行昭和60年29刷の本の記載のまま、著者名をリンドバーグ夫人とした。
また、他の翻訳者での出版もあるようだが、なんと言っても『金沢』などの名著もある吉田健一訳が私のお薦めである。
今ではぼろぼろになった愛読書、買った時には、翻訳者の吉田健一については知識が無かったかと記憶している。
子供の頃は本が好きだったし、学生時代、また都内までの会社員時代には、電車の中でも文庫本などよく読んだものだったが、いつの間にか、読書の習慣が薄れていた。
が、ここに来て、子供の頃に返ったように、好きな絵を描いたり、本を読む習慣も蘇った。吉田健一の著書とも出会い、『金沢・酒宴』の文庫本を手にしたのはここ何年かのことだ。
もちろん、アン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』も時代を越えての一女性の思索があり、若い方にもお薦めしたい一冊。