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総延長およそ150キロ!「ベルリンの壁」跡地を自転車で辿ってみた。(21)/忘れないために残すこと

「西側」の風景も変えた「ベルリンの壁」

 運河沿いの道を進んでゆくと、周りに見える風景が変わっていきます。見渡すと「西側」に建物群が目に飛び込んできました。これは「オイローパシティー(Europacity)」と呼ばれる大規模再開発によって建てられた建物。この場所は、東西ドイツ時代に壁による分断のため中心地から離れた倉庫街と空き地となっていました。しかし開発されることがなかった僻地は、ドイツ再統一によって街の中心地へと変わります。今では広大な敷地は個別に再開発されることなく、大規模な計画によって統一された街並みを形成しています。壁の崩壊は「東側」だけでなく「西側」の風景も変えているのです。

「西側」でも進む再開発。
大規模な再開発のため、統一された街並みになっています。

残された監視塔

 再開発の進む景色を眺めていると、「東側」にも特別なものが見えました。住宅街の中に顔を出すコンクリート製の無骨な建物。それは「ベルリンの壁」の警備を行っていた監視塔です。東西ドイツ時代には、およそ300基の監視塔が壁周辺に建てられていました。今では残されているのは僅か5基です。実際にベルリンを訪れると分かるのですが、壁に関連するものは公園や博物館の敷地に一部が保存されているだけです。そのほとんどは既に撤去されているのです。現在ある監視塔の数からも、どの程度残されているかわかるでしょう。

住宅街に残る監視塔。
監視塔には多くの人が訪れています。

壁の最初の犠牲者

 監視塔を眺めてみると、外壁には人物名が書かれています。それは「ベルリンの壁」を乗り越えようとした命を落としたギュンター・リトフィン(Günter Litfin)の名前です。彼が亡くなったのは壁が築かれて間もない1961年8月24日、彼は壁を乗り越えようとして殺された最初の犠牲者だったのです。監視塔では、この近くで命を落とした彼の資料を展示しており、また慰霊のプレートが取り付けられているのです。そこに書かれているのは、「Wenn wir die Geschichte vergessen, holt sie uns ein」という一文。意訳になりますが、「歴史を忘れれば、それは繰り返される」という意味になります。監視塔は壁が起こした悲劇を伝え続けているのです。

監視塔に掲げられた碑文。
下から監視塔を見上げると、大きさを実感できます。

検問所の跡

 「ベルリンの壁」を追いかけて道を進んでいくと、道は運河から離れて住宅地へと入って行きます。しばらく進むと見えてくるのは交通量の多い大通り。このような大通りにあったのは検問所で、「西側」の市民だけが「東側」への通行を認められていました。今では真っ直ぐと伸びる道路に、人々の往来を妨げるものはありません。多くの人は壁があったことなど気にすることなくこの場所を通り抜けてゆくのです。ここでは様々な出来事が起きた「ベルリンの壁」の存在を思い出すのは簡単でないでしょう。

検問所の跡に伸びる幹線道路。
道路には壁の跡が印されています。

忘れないために残すこと

 「ベルリンの壁」を追いかけてゆくと、それに関連したものが残されていないことに気付きます。壁崩壊から30年の月日は街の風景を変えたのです。そんなベルリンの街に残る壁や監視塔は、街並みに溶け込むことのない異質なものでしょう。ひょっとしたら、それらは好ましいものではないかもしれません。ですが、歴史を伝え続けるために、伝えるものが必要なのです。ここでは、歴史を伝えるものを残すことの重要性を実感させられました。

1988年の監視塔周辺の風景。
2020年の監視塔周辺の風景。

こちらのnoteマガジンで「ベルリンの壁」を走破したことをレポート記事でまとめています。ぜひこちらもご覧ください。


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K. H.
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