Queer
「お前みたいな変態がいるから僕ら普通のゲイが差別されるんだ」
ナイモンで突然、投げ掛けられた言葉。
それまで楽しくやり取りをしていたのに、
セックスの話になった途端、相手から非難、罵倒、人格攻撃が始まった。
「異常」
「普通じゃない」
「恥ずかしい」
「感覚がおかしい」
「家族が悲しむ」
「親に愛されずに育ったんだろう」
「ゲイなんて変態ばかり」
「一緒にされたくない」
「ゲイの世界は汚らわしい」
「ゲイなんて差別されて当然だ」
「ゲイバーもプライドパレードも大嫌い」
たしかに私は変態だけど………なぜ初対面の人間にここまで言われなければならない?
と一瞬ショックを受けたが、彼の心の叫びは止まらなかった。どういうわけか仕舞いには僕と直接関係もないゲイカルチャーを否定し出した。
僕が返答を考えるよりも早く、彼は気持ちを猛烈な勢いでぶつけてくる。明らかに彼はすごく怒っていて、すごく苦しんでいて。でも、話をただじっと聞いていると、だんだん、昔の自分を見ているような気分になってきた。
「自分はお前と同じゲイなんかじゃない」
「ただ普通に生きたいだけなんだ」
彼はずっとそう言っているようだった。
僕も昔、同じ気持ちを抱いていた時があった。
子どもの頃、テレビに出てくるいわゆる「オネエタレント」が嫌いだった。世間で笑われるような人たちと自分は違う。自分はまともだ。自分はみんなと同じだ。普通なんだ。そう思いたくて、ステレオタイプな「ホモ」のイメージを嫌悪し、そんな人々を見下し、こいつらさえ居なければ、自分は普通に生きられるのに、とすら思っていた。
しかしそれは八つ当たりに過ぎない、それこそがホモフォビア、同性愛嫌悪を内面化した感情の働きなのだ。
レインボーフラッグも大嫌いだった。プライドパレードも、その歴史的な意味や人々の想い、その重みも分からずに、勉強することもなく、ただ人と違ったことをしている人々を嫌悪し、自分は一般人だと、括られたくないと、自分はゲイなんかじゃなくて普通なんだと、必死に、無意識に自己暗示をかけていたのである。
この感情はいったいどこからくるのか?
物心ついた時から、男が好きだという気持ちは恥ずかしく情けない欲求で、絶対に隠さなければならないと思っていた。なぜなら、男同士の性行為は変態的な行為だと知っていたから。これは恋愛なんかではなく、間違った性行為に過ぎないと感じていた。初めは小さなかわいい恋心であっても、結局はセックスの話になってしまうことが分かっていたから。それが暴露されてしまえば、時に罪とされ、嘲笑され、変態と罵られることになると、いつも恐れていたから。
ある尊敬するアーティストが言っていた。私たちは愛の話をしたいのに、いつもセックスの話にされてしまう。彼は、90年代のエイズ危機を生きた1人の人間だった。
誰と一緒にいたいか、セクシャリティーを抜きにして、ただそれだけを話すことなど不可能なのだ。
以前、パートナーと暮らしていることをオープンにしている、知人の噂話を聞いた。あの人ってタチだろうか?ウケだろうか?と、皆さんだいぶ盛り上がっていた。そんなに気になるなら、直接聞いてみればいい。男女のヘテロカップルにそんな無礼で下世話なことを聞くんだろうか?お前らがそれを嬉しそうに聞いて、そいつがどんな顔をするか見てみたい。
私たちはいつも変態にされてきた。
そして変態であることを恥じなさい、隠しなさい、と自分自身に暗示をかけ続けてきた。
しかし私は生きていく中で、思い返せば、その暗示とうまく付き合う方法を徐々に見つけてきたのかもしれない。
それは、普通になることも、変態になってしまうことも、そのどちらも受け入れて、気ままに生きる、ということだ。
ヘテロセクシャルの男女だって、所謂変態的なセックスはする。ちょっと探せばそういったアダルトコンテンツに溢れている。その全てが生物学的に見て正しいのか?そんなこと真面目に考えるのがバカバカしい。
男とセックスする既婚男性だっている。彼らは変態か?だったら彼らの家族も変態で、哀れなのか?黒か白か、人はそんな単純に出来てはいない。
皆、まともに生きているし、暮らしているわけだ。その中で時には変態になることもある。普通のフリをしたり、変態のフリをしたり、そんな風に、人は常に流動的に生きられるわけだ。それはごく当たり前のことであり、何も不思議なことではない。何も恥じる事ではないし、何層にも重なった見えないレイヤー、それこそが絵画と同じで豊かな人間を形作る。僕はそんな人間こそを愛しいと思う。これは、僕なりにリアルでもオンラインでも様々な人に出会って直接学んできたことだ。
私たちはLGBTとひとくくりにされるが実際そう簡単に仕分けできるほど単純じゃない。
リベラルもいれば右翼もいる。金持ちもいれば貧困層もいる。想像され得る日本に住む人間の様々なカテゴリー分布図をそのまま持ってくればいい。ただ性的にマイノリティーだからと言って、同じ思想や価値観を持ち得る訳がないことが理解できるはずだ。
内なる差別心、同性愛嫌悪を自分自身に内面化した者も多くいる。僕自身も、まだそいつとの付き合い方を学んでいる途中なのだ。
ところで、LGBTとは異なる、「Queer」という言葉がある。
意味は変態、そんな感じだと思う。
変態と罵られ馬鹿にされてきた者たちが自らをそう呼んで自分自身と向き合い、その意味さえも変革しようとしてきた。
Queer、クィア、僕はこの言葉を最近よく使っている。
ただ、これは、性的にマジョリティな人々と、マイノリティーを分けて分断する言葉ではない。
クィアの意味は常に変動している。
なぜなら、人は誰しも時には変態になってしまう、変態にされてしまう生き物だから。ヘテロセクシャルやシスジェンダー、いわゆる普通の人々であっても、普通ではなくなる、異常になる時はある。そんな時、異常者は非難され嘲笑され排斥されてしまうだろう。その意味では、僕は全ての人間がクィアであると思っている。もちろん、性的マイノリティーの立場は弱く、構造的な差別が至る所にある。しかし、だからこそ、クィアとしての人の性質に身をもって気がつく事が出来る。あえて言えば、それは特権的なことなのである。
Queer fire
Queer power