母に「心からのありがとう」を言った日
12月2日の
朝、8時半頃、
同居している母から、
唐突に「ちょっと来てくれ」と
連絡が入りました。
母は2世帯住宅の
1階に住んでいます。
急いで階段を降りると、
母が「息が、しにくい」と
訴えます。
母は90歳で
さすがに足腰は弱りましたが、
普段、身の回りの事は、
すべて自分でこなす、
スーパー90歳でした。
自宅1階では毎日、
民謡教室が開かれていて、
母は50年以上、
津軽三味線を、沢山の
人に教える師範の仕事を
この年齢まで、現役で
こなしていました。
数日前も、近くの施設で
元気に舞台を務めています。
痰が絡んだようになり、
ぜーぜ―と息をしている
母を見て、とりあえず、
僕は、お水を飲ませました
その後も自分でトイレにも
行ったので、
自家用車で病院に
向かう身支度をしました。
しかし、どうにも
苦しそうなので、
救急車を呼ぶ事を
決意して、
到着を待ちました
10分ほどして救急車が
到着して
救急隊員が自宅に入りました。
すでにその時は、
母の意識は薄れていて、
隊員は緊急性があると、
判断しました。
車内では救命措置が
始まり、どうやら母は
心肺停止に至ったようです。
僕は、助手席に飛び乗り、
走行中も、処置は続きます。
15分ほどして
救急車は病院に到着して
彼女はストレッチャーで
勢いよく救命室に
運ばれていきます。
30分ほど待合室で
待機していると、
医師が現れ、
「心肺蘇生を試みているが
このまま続けても
現状、戻る見込みが無い」
と説明します。
胸の圧迫でのあばらの骨折や
心臓への電気ショックなど、
かなり、荒っぽい治療が
行われている事と、
察しがついたので、
年齢も考え、
母がかわいそうになった僕は、
「常識的な所で、
蘇生処置を中止して下さい。
手を尽くして頂き
ありがとうございます」
と医師に話しました。
結局、こちら側に戻る
事なく、
僕の立ち合いの元
母は、朝10時8分に
死亡が確認されました。
医師と看護婦は
気を使って3mほど離れた
場所に下がったので、
僕は、両手の平で母の
まだ暖かい頬に触れ、
「お疲れ様でした」
「苦しかったね」
そして、彼女の動かなくなった
両肩をつかんで
「66年前、僕を生んでくれて
本当にありがとうございました」
と、声を出して伝えました。
今、まさに
体を脱ごうとしている
母は、それを聞いている
確信が、僕にはありました。
治療室を出る時、僕は
天井の中空を見上げて
母は、どの辺から僕を
見ていたのかと
少し微笑みながら
肩越しに振り返りました。
生と死の間に、
違いは何もありません。
亡くなっても、
着ている肉体の体を脱ぐだけで、
意識はそのままでいられます。
意識のエネルギーは3~7日間、
思い出のある場所を
訪れたり、会いたかった
人に会った後、
「すべてはひとつ」の場所に
帰っていきます。
運転手が、車から降りるように
あくまで、この体は
体験するための乗り物であり、
仮の姿。本体は魂という名の
エネルギー体です。
「すべてはひとつ」の
エネルギー体に戻って
合流すると、すべての魂の
経験や意識、感情が
一瞬で共有されます。
ですから、
死は忌み嫌うものでもなく
一時的な分かれという、
時間の差という寂しさも
ありますが、
僕の今の気持ちのすべては
「ありがとうです」
とにかく彼女は
凄い人でした。
弱音の言葉は一度たりとも
聞いた事が無く、
僕と妹2人を
育てながら
100人以上の
民謡会派を立ち上げ
50年以上、中心となって、
90歳になっても現役で、
ボランティア演奏に
出掛けて、人を元気にする、
輝いている女性でした。
葬儀まで
少し日があります。
彼女が、あちらに行く前に、
ゆっくり思い出をたどって
貴重な体験を言語化して、
感謝の言葉を、尊敬する母に
何度でも伝えたいと
考えています。
「僕は、今回の人生を
あなたの息子として、
生まれて幸せだったと、
今、心から思っています。
お母さん、
ありがとうございました。
感謝します」
読者の皆さんに、
生きている間、良い事が
雪崩のように
起きますように。