【ショートショート】ビターな香り
「バレンタイン、一緒に過ごせないのなら、ホワイトデーは私にちょうだい」
あなたは仕事だからと言っていたけれど、他の女性と約束をしていることなんて、わかってた。
あなたは嘘をつく時、三秒見つめるのよ。
「いいよ。ホワイトデーは一緒にいよう」
「約束?」
「ああ。約束」
クロワッサンを食べる手を止めて、三秒の間の後、あなたは言った。
わたしは、これで最後なのかもしれないと悟った。けれど、どうしても諦めようがなくて、ホワイトデーまでにあなたからの連絡がなければ諦めよう、それまで、待ってみようと決めた。
待つのは女の仕事。そうでしょう?
あなたは、いつも自分から連絡を取ろうとしないずるい人。どの女が一番自分に気持ちがあるのか、計っているのね。
わたしは、そんなあなたを軽蔑するし、かわいそうに思うし、愛しく感じる。
けれど、女のプライドというものがあるわ。わたしは今日限りで連絡をしない。あなたの承認欲求を、満たしてあげない。
デートの帰り、六本木の蔦屋に入っていくのは、私たちの中では定番になっていた。あなたが、写真集やアートの作品は、ここのセンスが一番良いのだと、目を輝かせながら言っていたのを覚えている。
ふと、アンディー・ウォーホルとバスキアが、ボクサーのモノマネをしている写真が表紙になっている本を見つけた。
「そういえば、去年、バスキア展やってたね。好きなの?」
あなたはこういった現代アートは好きじゃない。あなたというトロフィをかけて戦っている女の一人であるからには、ここはわたしも好きじゃないと答えるべきなのだろうけれど、あなたのためだけに、彼らの生涯を否定したくなかった。
「そうね。基本は西洋美術が好きなのだけれど、彼らの、人間の弱さと苦悩を、命に代えて残した作品も、好きよ」
「どの作品が好きなの」
興味もないくせに聞いてくる。
「バレンタイン」
「え?」
「バレンタインという作品がね、とても素敵なのよ」
とびきり愛らしく見える笑顔を作って、微笑みかけた。
あなたは少し戸惑って、笑顔を作る。そっか、と言葉を絞り出して、トーマス・ルフの作品集を手に取った。
そうね、あなたはこっちの方が好きよね。
コーヒーの香りに我慢ができなくなって、わたしは飾り気のないドリップコーヒーを頼みにいくことにした。
注文の列に並んでいる間、あなたを見つめていたけれど、あなたはまだ、トーマス・ルフに夢中だった。なんだかおかしくなってきたせいで、間違えてトールサイズで、といってしまった。
大きすぎるコーヒーを片手に、店内を一周していると、あなたは次の約束があるから、と言い出した。
なんて無礼なのかしら。あとに用事があるなら、会う前にいっておくのがマナーだと、誰も教えてくれなかったのね。
駅の改札を通ろうとしたら、Suikaの残高がなくて少し恥ずかしかった。けれど、あなたと居るための時間が少し伸びたように思えて、少し嬉しかった。
「また、ね」
あなたは、わたしの指先をそっと握って、愛しそうにわたしに微笑みかける。
まって。やめて。今、そんな目で見ないで。好きって言いたくなる。
「次はホワイトデーかしら」
すがるように、けれど、負けじとあなたの目を見た。
お願い、と心で祈りながら。
「そうだね」
「連絡、してね」
「わかった。連絡するよ」
「必ずよ」
「ああ。必ず」
わたしは大きな賭けをして、改札口を通った。