想像していなかった未来
本日誕生日を迎え、とうとう参議院議員選挙や都道府県知事選挙に立候補できる年齢になった。
今のところ、立候補するつもりはないけど。
年齢はただの数字に過ぎないが、それでもキリのいい数字ではあるので、この10年ほどを軽く振り返ってみようと思う。
(軽く書いたつもりだが、実際に書き終えれば5,000字弱の長文になってしまった。)
ちょうどnoteで「#想像していなかった未来」というお題が募集されているが、10年前に大学生だった自分は、こんな20代を歩むことになろうとは想像もしていなかった。
まさかインドに住んでいるなんてね。
20歳くらいまでは、ごくごく普通の人生を歩んできた。
地元の公立小中学校を卒業して、入試に失敗して併願受験した私立高校に進学し、ちょっと遠いけれど実家から通える範囲の地方国立大学に入学した。
大学在学中も特に目立つようなことはなかった。
あえて言うとすれば、ほんの思い付きでスキー部に入部したことくらい。
私自身は北国の出身じゃないし、大学は降雪とは縁のない地域だった。
父親が北海道の出身で、小学生の頃はよく群馬や長野にスキーに連れて行ってもらっていたが、特に熱中してスキーに取り組んでいたということもなかった。
入学して間もなくあった健康診断の列に並んでいた時に、後ろの人がスキー部の勧誘を受けているのを聞いて面白そうだと思ったというだけの理由だった。
比較的緩い雰囲気ではあったが、一応は体育会系の部活だったので、それなりの頻度で練習に参加していた。
スキーはお金がかかるのでオフシーズンはアルバイトに勤しみ、冬から春にかけては長野のスキーリゾートホテルに住み込みで働きながら、スキーの練習に励むというような学生生活だった。
私はそこまで真面目な部員ではなかったので、素人にちょっと毛が生えた程度にしかスキーの腕前は上達しなかった。
そこまで真面目な部員ではなかったのに、なぜか3年生の時には主将を務めた。普通に面倒くさかった。
大学では教員養成系の教育学部に在籍していて、学部卒業後は公立小学校の教員になるつもりだった。
いや、最初の方は修士号や博士号を取得し、研究者になるという考えもあった。
だけど、いつの間にかそういった考えもなくなり、3年生の頃には普通に教員採用試験を受けようと思っていた。
しかし、きっかけや理由は全く覚えていないのだが、何かのタイミングで「日本人学校」というものの存在を知った。
海外に住む日本人の子どもたちが日本と全く同じ教育を受けるために、在住邦人が多い各都市に設置された学校のことである。
日本人学校の教員に興味を持ち始めたのは、間違いなく私の人生の転機なのだが、日本人学校の存在をどうやって認知したのかは全く記憶にない。
少なくとも大学生の途中までは、その存在自体を知らなかったはずだ。
もしかしたら大学構内の掲示板か何かに、張り紙が貼ってあったのかもしれない。
実のところ、当時の私は海外に全く興味がなかった。
そもそも国内旅行すらろくにしたことがなかった。
そんな私が、日本人学校の教員になるということ、すなわち海外に住むということを考え始めた理由は、他人からすればとてもくだらない理由だった。
それは、冬が苦手だったからだ。
私は生まれつきぜんそくやアトピー、鼻炎をもつアレルギー体質で、寒くて乾燥する日本の冬は体調を崩しやすかった。
じゃあ、冬がない国に移住すればいいじゃん、という傍から見れば至極単純な、でも自分からすればとても切実な理由だったのだ。
常夏に住みたいので、赴任先の候補地は真っ先に東南アジアに絞り込んだ。
はっきり言って、どの都市に住むかはどうでもよい。
というか、そもそも当時の私は海外のことを知らなかったので、どの都市が住みやすいかなどさっぱり分からなかった。
こだわりがないので、過去の学校ごとの教員の募集倍率を見比べて、できるだけ倍率の低い都市を選ぶことにした。
それが、インドネシアのジャカルタだった。
倍率が低いということは日本人からの人気が低いということでもあるが、元来が楽観的な性格なので、住んでみれば何とかなるだろうと思っていた。
大学4年生の夏にジャカルタ日本人学校の採用試験を受けて、無事に受かった。
かくして、私の人生の一大転機となる海外生活が始まるのだった。
ところで、私の家族は誰一人として海外に興味がある人がいない。
私のジャカルタ赴任が決まった時、両親は会う人ごとに「息子がジャマイカに住む」と触れ回っていた。
ちょうどウサイン・ボルトが一世を風靡している時期だった。
ジャカルタには3年住んだ。
バンコクやシンガポールなどと比べると、一般的な日本人にとっては住みづらい都市らしいが、私はそんなことは全く気にならなかった。
むしろ、日本では想像できないようなことが起こる毎日は、刺激に満ち溢れてとても楽しいものだった。
特にインドネシアが、日本人にとってなじみの薄いイスラム教徒の多い国だというのが良かった。
陳腐な言い方になるが、世界にはいろいろな考えの人がいるんだなと実感した。
海外に住んだことで、今まで意識していなかった自分の性格にも気付くことができた。
知らない世界に触れたときに拒絶反応がほとんどなく、普通に受け入れられると思えるということ。
多くの日本人が不快に感じることでもあまり気にならないということ。
どんなに些細なことでも面白いと思えるということ。
食事の内容にあまり頓着しないということ。
いずれも異文化で生きていくのに適した性格である。
そもそも、常夏に住むというのが最大の移住目的だったから、冬がないというだけで十分に幸せなのだった。
当時は1~2週間程度の休暇が年に数回あったので、旅行によく出かけた。
国外だと、タイ・ベトナム・ラオス・マレーシア・シンガポール・ブルネイ・UAE。
国内だと、バリ・ジョグジャカルタ・フローレス・テルナテ・ブキティンギなど。
有名観光地から外国人には知名度が低いところまで、いろいろなところを訪問した。
そこで旅行の面白さを知った。
本帰国後について、私はとある計画を立てていた。
それは世界一周だ。
現地採用だったので、3年間の任期を終えた後は無職になる。
また、3年間でそれなりの貯金もできた。
時間もお金もある状態で、1~2年ほど世界を回ってみてやろうと考えていたのだ。
しかし、ここでも数か月前には予期しえない出来事が起こる。
私が本帰国したのは2020年3月。
そう、COVID-19の世界的な流行だ。
あの時の誰もが、あそこまで事態が長引くとは想像していなかっただろう。
私も、パンデミックは数か月で沈静化して、ちょっと我慢すればまた日本を飛び出せると思っていた。
倉庫で仕分けのバイトをしながら情勢を注視していたが、2か月ほどすれば、どうやらこの騒動はなかなか収拾しそうにないということが分かってきた。
人生設計を見直す必要がある。
世界一周のことはすっぱり諦めて、普通に就職してしまおうか悩んだが、30歳まで、つまりあと5年は好きに生きようと考えた。
アルバイトよりは安定して、かつ、いつでも仕事を辞められるように契約社員として働くことを決意した。
やはり温暖な地域に住みたいということで、沖縄県で教育関連の求人を探したところ、離島の公営塾がヒットした。
島暮らしには興味があったし、公営塾というものの存在も知っていた。
私は迷わずその求人に応募し、数週間後には沖縄の離島へと飛び立つことになった。
公営塾とは名前の通り、公的資金によって運営される学習塾のことで、子どもたちは無料で通うことができる。
営利目的の学習塾が展開できないような離島や僻地において、子どもたちに学習の機会を十分に与えるために設置される公共サービスの一種である。
私が送られたのは、那覇から1日1往復しているフェリーで2時間かかる離島だった。
観光客もめったに来ないようなのどかな離島で、いわゆる沖縄の原風景がそのまま残っているような場所だった。
島内には同じ校舎の小中学校が一つあるだけで、学校の前には島唯一の信号があった。
子どもたちに信号の使い方を学ばせるために設置されたもので、この信号の色が変わることはほとんどなかった。
島民は700人弱だが高齢者が多く、子どもの数は各学年5人くらいずつしかいなかった。
これは想像していなかったことだが、公営塾の講師は私しかいなかった。
一人で小中学生に勉強を教え、教材発注や日報作成などの事務仕事をこなし、学校や教育委員会との連携を行った。
とはいえ、東南アジアよりもゆったりとした時間の流れる離島のこととて、特に大変だと感じたことは一度もなかった。
時間や約束にルーズな子どもたちへの対応は、最初は骨が折れたが、私の方でも次第に良い塩梅が身についていった。
数軒の万屋と食堂、製塩工場と製糖工場、あとは一面のサトウキビ畑しかない島での暮らしは退屈だったが、悪くはなかった。
1周12㎞の孤島を取り囲む遠浅の海は無二の美しさだった。
私が今まで訪れた東南アジアのどのビーチリゾートよりも碧く、澄んでいた。
潮が引いている時は30秒も泳げば、サンゴ礁とそこに集う熱帯魚を見ることができた。
塾の仕事は午前中は暇なので、よく海を眺めに出かけていた。
1年ほど島でのスローライフを満喫していたが、私の中でまた「海外欲」が大きくなり始めた。
その頃は世界一周への熱は鎮まりかけていて、再び海外に住みたいと思い始めていた。
自分が勝手に設定したタイムリミットの30歳まであと4年。
ちょうど良いタイミングだと思った。
ジャカルタに行った時と同じサイトで求人を探し、南インドでの募集を見つけた。
ジャカルタでの日々が刺激に満ちていて楽しかったので、それを超える異文化の中で暮らしたいと思っていた。
日本人にとって馴染みやすいタイやベトナムなどでは満足できないと思っていたから、インドというのはまさに理想的な場所だった。
しかもデリーではなく、南インドというのが良かった。
短いとはいえ冬があるデリーとは異なり、インド南部は常夏の気候である。
こうして、2021年の年末に私は島暮らしを切り上げ、インドへと飛び立つことになった。
私がフェリーで島から去るとき、子どもたちが堤防の端まで走って、見えなくなるまで手を振ってくれた。
まるで映画の一場面のようだった。
私が渡印したのは、インドという国がちょうど流行り病から立ち直り、以前の日常を取り戻しつつあるタイミングだった。
今の仕事は長期休暇が多く、1か月ほど連続して旅行に出かけることができる。
バックパックを背負ってインド国内外を旅したのだが、そこで気付いたことがある。
私は1か月の旅が限界だということ。
1か月もバックパック旅をしていると、心身ともに疲れ果てストレスが溜まる。
とうてい世界一周などできるタフさを持っていないのだった。
そう考えると、あの時に感染症が世界的に流行し、世界一周を断念せざるを得なかったのは不幸中の幸いということになる。
こうして今に至るのだが、ついに本日、私が勝手にタイムリミットに設定していた30歳になってしまった。
大学卒業してから8年間、自分の好き勝手に生きてきたが、不思議なことにここ数か月はすっかり気持ちが落ち着いている。
自分がやりたいことは、あらかたやり尽くしてしまった気がする。
この年齢になれば、周りには結婚して子どもがいる同年代も珍しくない。
そういう姿を見ていると、自分のためだけでなく、他の誰かのために生きることが尊いと思えてくるから不思議である。
来年の3月末には本帰国する予定で、本帰国後はさすがに一か所に身を落ち着けようと思っている。
私はもともと安定志向だったはずだ。
大学卒業後は普通に就職して、20代後半くらいで結婚する、そういった人生を送っているつもりだった。
私が過ごした20代に後悔はないが、それでもたまに言いようのない虚しさに襲われることはある。
人生が一度しかないということ、過ぎ去った時間を取り戻すことはできないという当たり前のことを思っては、妙な焦りを感じることもある。
とはいえ、まだ長い人生の折り返しにも達していないし、30歳は全く悲観するような年齢ではない。
まだまだ前途洋々である。
一体どうなることやら、この先の未来も全く想像できない。