「ラ・ジュテ」 静止画と音声だけで構成された世界
初めて観たのは、今はもうない渋谷の映画館。シネセゾン渋谷だった。たぶん10年近く前のこと。仕事終わりで足を運んだレートショー。
この映画が静止画だけで構成されていることは有名だったから、もちろんそれを知った上で観に行った。仕事の後だし、そんないかにも冗長な映画を寝ないで最後まで観ることができるか不安だったけど、30分足らずの長さだし大丈夫だろうと高を括っていた。
そして見事に爆睡したのだった。断片的な映像の記憶しかない。ストーリーなんてあったのかどうかすら怪しい。その程度の体験だった。
その当時の僕には写真趣味は無かったと思う。
今、写真についてあれこれ考えている自分がふたたびあの映画を観たらどう感じるのだろう。ということは常々思っていた。
前置きが長くなってしまったけど、Amazon のシネフィル WOWOW プラスという、Prime とはまた別のプログラムで「ラ・ジュテ」が観れることを知ったので、さっそく登録して鑑賞してみた。
写真は一枚の絵だ。映像や音楽とは異なり、時間の経過で何かが変化する表現ではない。情報量が少ない表現なのだ。作り手の意思や想念を反映するのがきわめて難しい。
「ラ・ジュテ」の場合、一枚一枚の写真がストーリーを構成する連なりにもなっているから、その中に含まれることで初めて有する情報のようなものがある。けれど僕はそれぞれの写真から、それ以上の「何か」を感じた気がした。
例えば「幸福な日々」を表現する猫や鳩の写真。何百分の一秒で切り取られた瞬間が、明らかにその長さ以上の時間を表現している。
人物を写した写真も、ただのポートレート写真とは明らかに異なる。僕が撮りたいと思っているイメージはこれなのかもしれない。被写体の呼吸を感じる。
ところでこの映画、一瞬だけ「動画」が挿入されている。長さにしておそらく1〜2秒くらいだと思うけど。あの瞬間、僕の中の何かが明らかに強く反応したのだけど、それが何だったのかは、今の僕にはわからない。
ヘッダー写真は去年の3月、みなとみらいにて撮影した愛羅ちゃん。「ラ・ジュテ」の有名なシーンをスマホで見せて再現してもらった。
文中に挿入した写真は 2016年4月に羽田空港で撮影したもの。
「ラ・ジュテ」感の再現は難しい。
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