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一喜一憂で何が悪い|橘曙覧『独楽吟』

津村記久子さんの小説『ポースケ』を読んでいて、非常に刺さる文章があった。

喫茶ハタナカという奈良のカフェに関わる7人の女性たちの人生がゆるやかに交差する様を描いた物語の中で、パート従業員の十喜子さんが、就活に悪戦苦闘中の娘さんからやっとの思いで最終面接に進んだという知らせを聞くシーンでの一節だ。

“そういう一喜一憂を繰り返すことこそが、十喜子にとっては日々を暮らすということだった。むしろ人生には一喜一憂しかないと十喜子は感じていた。えらい人は先々のことを見据えてどうのこうの考えられて、八喜三憂とかに調整できるのかもしれないけれども、我々しもじもの者は、一つ一つ通過して、傷付いて、片付けていくしかないのだ。そうする以外できないのだ。” ―津村記久子著『ポースケ』p.230

これは津村さんの叫びなのだと思った。
そしてこの叫びは私の心にも強烈に共鳴した。

私の人生を振り返ると、“一喜一憂”は否定されることの方が多かったように思う。

受験生の頃は「テストの点数に一喜一憂するな、入試本番で結果を出せ」と先生に言われ

部活動で楽器演奏をしていた頃は「日々の演奏に一喜一憂するな、コンクールで最高の演奏をしろ」とトレーナーから言われ

社会人になって転職活動をしてみた時には「面接の結果に一喜一憂することなくどんどん多くの会社にエントリーしてキャリアアップを目指しましょう!」とエージェントから励まされ

やがて何のために何をしているのか分からなくなり、自分はこの最悪な状況から抜け出すことも許されないのかという絶望感の中で挫折した。

そんなことを言われるたび、小さな喜びではなく大きな結果を生み出さねばならないという周囲からの雑音を鵜呑みにして、自然と芽生えるささやかな感情を自分自身で摘み取ってぞんざいに捨てることに慣れてしまっていたように思う。

上を目指さないと、結果を残さないと、生きている意味がないのかな…?
わずかに顔を出す違和感にも蓋をしてしまっていた。

日々の膨大な出来事や感情を見逃せず、いちいち立ち止まって深く考え堀り進めるという自分の特性を自覚した今になって考えると、どうやら相当心を痛めつけていたようだ。

最近になってようやく、津村さんが作品の登場人物を通して叫んでいるような感情を、自分も叫んでもいいのだと思えるようになった。
いちいち喜んで笑って落ち込んでくよくよして何が悪い!?

ところで、私がこの“一喜一憂”に思いを巡らせる際に欠かせない作品が『独楽吟』である。
幕末の歌人である橘曙覧の、「たのしみは」から始まり「・・・とき」で終わる52首の和歌集だ。

たとえば

たのしみは 紙をひろげてとる筆の 思ひの外に 能くかけしとき

たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見るとき

たのしみは 昼寝せしまに 庭ぬらし ふりたる雨を さめてしるとき

たのしみは 心をおかぬ友どちと 笑ひかたりて 腹をよるとき

たのしみは つねに好める 焼豆腐 うまく煮たてて 食はせけるとき

こんな調子で自然、人との交流、食べ物など、日々の様々な場面を切り取ったほのぼの系の和歌がひたすら続く(検索すると全部見られます)。
幕末から明治という激動の時代を生きた人が残したものに、平成から令和を生きる私が深く共感できるという事実そのものにわくわくするし、それだけで楽しい。

私も昼寝している間にゲリラ豪雨が降っていたことを濡れたコンクリートと異常な湿気から察して驚くし、うまく料理ができておいしいおいしいと言いながら食べるのも幸せだなぁと感じる。

「たのしみは」に込められた意味が、単に「楽しい」だけではなくて「驚き」や「興味が湧く」「趣ある」「幸せ」など、一首一首微妙に違っているのもおもしろい。
31字中7字は同じなのに、一人の人間の日常の心の動きが鮮やかに浮かび上がってくる。言葉ってすごいなぁとも思う。

入試や面接の結果は一瞬激しくきらめくものだけど、こういった深くて静かで小さな幸福は、人生のどの位置にいても、たとえ肩書や役割がなくても感じられる、時代を超えて他者とわかりあえることなのかもしれない。

先のことばかり考えて焦るときに独楽吟を見返すと「そうだった。もっと今起こっていることを見つめないと」という気持ちを取り戻し、少し落ち着くのだ。

私は特に何も生み出さない非・生産的な日々を送っていると思うのだが、小さな変化は毎日起きている。
ちなみに今日の「たのしみ」は、トマト缶を一滴も飛び散らせずに静かに開けることができた(いつもは最後に蓋をちぎる時にちょっと飛び散る)ことと、1日じゅうビートルズを聴きながら久しぶりにnoteを更新できたことだ。

不安はあれど、今はささやかな一喜一憂を繰り返し、積み重ねていくことに集中したい。

「わたしの喜び」「わたしの哀しみ」「わたしの幸せ」をきちんと大切に温めた先に、誰かのそれと深く響きあう日が来ればよいと思う。

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