月光の君
序 葡萄牙(ぽるとがる)の酒をたしなむ文章博士(もんじょうのはかせ)
おぬしはちと、邪教の教えにかぶれすぎておるようだの。
釈教をもって国を治める本朝においては、《でうす》とか《ぜす》とかいう邪宗の神の教えは認められぬ、ということになっておる。したがって、この話はこんどの話集には入れるわけにはいかんが、わし個人としては大いに心惹かれるものがある。はるか彼方、外(と)つ国(くに)の化け物の話などそう滅多に聞けるものでもありますまいからの。
しかし、残念ながらこれより所用があるゆえ、続きはこの文章寮(もんじょう)の学生(がくしょう)に話して聞かすがよい。詳しくの。
これ、書役(かきやく)よ。珍妙なる言葉が多いが、ゆめ聞き漏らすことなきようにの。ほほほ。
それにしても、そなたが持ってきた、この珍陀(ちんた)なる葡萄牙国(ぽるとがる)の酒はなんともいえず、美味じゃのう。この色が気にかかるが―――まさか人の血がはいっておるのではあるまいの。ほほほ。
一 夢見る宵待(よいまち)の姫君(ひめぎみ)
そのひとは、噂に聞くとおり、まばゆいほどに色が白くて、上品で美しいお顔だちをしていらっしゃったのです。一目見て、あの方だとわかりました。
ずっと幼いころから、私は決めていたのです。美しくて高貴な血を引く方にこの身を捧げるということを。もちろん、言い寄ってくる男なんていくらでもおりましたけれど、ずっとかたくなに拒んできたのです。
若くて身分が高いのはもちろんですが、やっぱり姿が美しくなければ嫌です。ひげを生やしている男は嫌い。特に熊みたいに毛深くて大きな男はそばに寄られるだけで、獣臭い匂いがうつりそうな気がします。例えば、夜番頭(やばんがしら)の平信(へいしん)のような男。侍女たちなどはあの獣のことを『野蛮頭の平信』などと言って忌み嫌っているのです。
お兄さまだって昔は私とならんでいれば、姉妹に間違われるほど美しくて素敵でいらっしゃったのに、最近はほかの男と同じように下品におなりになってしまいました。似合いもしないひげを蓄えたりして、ほかの男の方たちと女をどうこうする話ばかりして―――他のだれでもない、私のお兄さまだっていうのに。
それにしても、この現世の無粋なこと。まるで風流を解(げ)さない人が多すぎます。今の私を取り巻いていることなんて―――大嫌い。どうして現(うつつ)の世の人々はこんなに無粋でがさつなのでしょう。できることなら私、物語の世界の中に生まれたかった。そしたら、汚くて愚かな者たちと言葉をかわすことも、醜く老いさらばえてゆくこともなかったでしょうに。
私はあの方に会えない昼のあいだ、ずっとあの方のことを考えています。何度も何度もあの方とあの方の愛した女たちの物語を読み続けています。
光の君―――私が全てを捧げる人。永遠に若くて美しい源氏の君。
早く私をあなたと同じ世界に連れていってほしいのです。
あなたのいない昼の長さ。
ああ、夜が待ち遠しいこと。
二 案ずる側女(そばめ)の小夜(さよ)
これは、若殿さま―――姫さまのことでございますが、それはもう、大変なやつれ方でございます。
恋の病などという生易しいものではございません。私どもは姫さまは何か悪いあやかしの類に魅入られたのではないかと心配しておるのでございます。
毎夜、姫さまはどこかに行かれるのです。
いまさっきまで、文机(ふづくえ)によりかかって書物をお読みになっていたかと思うと、いつのまにかおられなくなっているのです。
誰かよき人でも、と思いましたのですが、どうもそういう殿方がいらっしゃるわけではないように思えます。こっそりと見張っておっても、見張りの者が居眠りをしたすきに姫さまは消えてしまっているのです。
そして、一番鶏が鳴く頃に戻られるのです。青白い顔に幸せそうな笑みを浮かべていらっしゃいます。私どもがあれこれとお聞きするのですが、夢見るような目をしたまま、しばらくすると倒れるように眠ってしまいます。そんなことがもう、何日も続いているのでございます。
いつごろから―――でございますか。
ちょうど四日ほど前、姫さまが楽しみにしておられた源氏の君の物語を手に入れられて、夢中になって読み始められた頃からでございましょうか。
三 問いただす五位の少将
おまえは毎夜、どこに行っているのだ?
どこで、何をしている?
どうしてそんな顔で私を見るのだ?
私が嫌いになったのか? たった一人の兄ではないか。おい、どこを見ている。なにを考えている。
なあ、お願いだ。私だけには話してくれ、妹よ。
四 慌てる側女(そばめ)の小夜(さよ)
若殿さま。
これは今朝、姫さまのお召し物を替えるときに気づいたのでございますが、姫さまの首すじに咬みあとのような傷があるのでございます。男女の戯事(ざれごと)で出来るようなあとではありません。犬かなにかの牙で咬まれたように、ぽつぽつと二つ、赤く腫れたようになっておるのです。病犬(やまいぬ)かなにかに咬まれたのであれば、早く薬師(くすし)の博士に見て頂かねば取り返しのつかないことにもなりかねません。
あるいは虻蜂(あぶはち)のような虫の咬みあとなのかもしれませんが、どちらにしてもこれは深夜の外出に関係があるような気がいたします。
ほんとうに、姫さまはどうされてしまったのでしょうか。
五 悩む典薬寮(くすりのつかさ)の医博士(いはかせ)
姫さまのお体には、とくに異常があるわけではありませぬ。首の傷はすでにきれいに治りかけておりますし、悪い風が入った兆候も、狂犬の病にかかった兆しもまったくみられませぬ。
やはり、問題は夜中に歩き回られるということでございましょう。これはおそらく『離魂病(りこんびょう)』という病であると思われます。
ただ、これを直すのはもう我々のような医師(くすし)ではなく、もはや呪(まじな)い師の仕事でございます。あるいはこの時代に華陀(かだ)や耆婆(ぎば)扁鵲(へんじゃく)のような名医でもあれば、その病も直せたのかも知れませぬが、いまのこの国の医術ではこの病を治す方法というのは加持祈祷にたよるしかないのでございます。
とりあえずのところは、栄養(やしない)を取り、安静にして養生なさるがよろしいでしょう。お薬をお出ししておきますが、これとて滋養を取るためであって、離魂病のためではございませぬ。
それではまた明日まいります。お大事になさいませ。
六 痩せゆく宵待の姫君
ねぇ、小夜(さよ)。
おまえは恋をしたことないでしょう?
あるの。片思い?
でも、あの方はダメよ。あの方は私のものだもの。
誰って―――毎晩私を訪ねて来ていらっしゃるじゃない。
おまえも毎晩見てるはずよ。光の君。
本当にすばらしい人。なにもかも洗練されてて、とっても洒落ていて―――とってもいい匂いがする。物語で読んだ通りの人。
それに―――とってもよくしてくれるの。いろんなことを教えてくれるのよ。
一緒にいるだけですごく安心するの。気持ちいいの。
今まで出会ったどんな男の人よりもすばらしい方。この世の中で一番すばらしい男性。
私の光の君。
あの方がおっしゃったの。
あの月が満ちたら、月明かりの中を出発しようって。
あの方の世界。醜いものがなにもない世界。永遠に美しいままいられる世界。物語の中のような世界。
いっしょに行けたら素敵ね。おまえも連れていってくれるように頼んであげる。
私、小夜がいなければ何もできないんですもの。
ねぇ、小夜。こんど惟光(これみつ)さまに会わせてあげるわ。
知らない? ―――もう、知ってるくせに。ほら、光の君にお仕えになっておられるお方。
光の君には負けるのですけど、なかなか素敵な方だから。
ああ、早く夜が来ないかしら。早く会いたい。
私だけの光の君に。
七 おびえる側女(そばめ)の小夜(さよ)
夜番頭(やばんがしら)の平信(へいしん)さま、私は見てしまったのでございます。ただ、これを若殿さまに申してよいものかどうか、私には判断がつかないのです。
昨夜のことにございます。
私が臥所(ふしど)の外に控えておりましたのですが、いつのまにやら眠ってしまっておりました。
突然、姫さまの大きな笑い声がして、私は目を覚ましました。近頃、あまりお笑いにならないので珍しいことだと思い、驚いて様子をうかがっておりましたところ、なんといいますか―――悲鳴のような、あえぐような声がしてきたのでございます。ながらくおそばに仕えておりますが、このようなことは初めてでございましたし、あまりにご様子がおかしいので、私はおそるおそる障子の間から寝間を覗いてみたのでございます。
寝間の中にいたのは姫さま一人ではありませんでした。殿方と一緒であったのです。
美しき御仁(ごじん)でございました。なまめかしいほど白く、若く麗しい殿方でございました。 その―――私が見たままをお話しいたします―――白い手が姫さまの体をまさぐると、姫さまは嬉しそうにその手をとらえて口吸(くちすい)をしました。その男の方は姫さまの胸に手を入れたり、首筋に噛みついたりしておりました。姫さまは「光の君」とそのひとのことを何度も何度も呼んでいらっしゃいました。
私は見てはいけないものを見てしまいました。
姫さまと光の君との秘め事を。そして、光の君の秘密を。そこで行われていたのはただの男と女の睦(むつ)み事ではございませんでした。もっと深くて得体の知れない絆をお二人は持っていらっしゃるようでした。
私はどうしてもそこから離れることができませんでした。私はなんだか、目眩(めくる)めくような妙な気分になってきました。妙な気分―――そのお方が姫さまにされていることを見るだけで、心臓が高鳴り、まるで私がそれをされているかのように体が熱く火照って、息が乱れてくるのでした。私はおかしくなってしまいそうだったので、これ以上見ないようにしようと思ったのですが、どうしてもお二人から目を離すことができませんでした。体がひとりでに揺れ、動きはじめ、ついに私は「ああ」と小さく声をもらしてしまいました。
「惟光(これみつ)」と、光の君がおっしゃいました。
「はい」
だれもいない闇の中から返事がありました。
「誰かが覗いているね」
光の君は私の方を見ておっしゃいました。
「きっと小夜(さよ)ですわ。あの子ったら、いやらしい。惟光(これみつ)さまに会わせてあげるって言ったら断ったくせに。やっぱり興味があるものですから―――」
その口調にはいつもの凛とした姫さまらしからぬ、無邪気で甘えたところがありました。
「ねぇ、光の君。小夜(さよ)は私の側女(そばめ)で、乳姉妹なの―――許してあげて」
「ああ。かまわないよ」
光の君は姫さまの口を吸い、姫さまは身をよじりながら光の君の首にすがりつきました。光の君はそうして姫さまをもてあそんでいるあいだにも、なまめかしく涼しい光をたたえた目で、私のほうを見ているのです。
「惟光(これみつ)、小夜どののお相手をしてさしあげなさい」
光の君が姫さまの口を吸うのをやめて言われました。
闇の中からあらわれた精悍な若い男の人がこちらに来ようとしているのがわかりました。私は恐ろしさのあまり裸足で外に逃げだしたのですが、惟光さまと呼ばれた方は、まるで闇の中をすべるように素早く歩いてこられるのです。
私は立ちすくんでしまいました。観念して、惟光さまのされるままにその長い腕にかきいだかれたのでございました。
惟光さまの光る眼が、私を見下ろしていました。涼しい光の君の面立ちとは違って、惟光さまは力強く凛々しい顔立ちをなさっておりました。その目で見つめられると、なんだか夢の中のような心持ちになって、さっきまでの恐ろしさが嘘のように思えてきました。しだいになにも考えられなくなってきて、私のような者でも姫さまと同じような甘い夢を見ることができるのかと思うと、それも悪くないような、でもすこしなにかに対して申し訳ないような気がしていました。
なんだか、からだの中が幸せな気持ちでいっぱいになってゆくような気がして、この惟光さまになら、たとえ命を奪われてもいいような気がしました。無性にすべてをゆだねたくなって、知らぬまに私は目を閉じていたのでした。
そのときでございます。
突然、ぽつりぽつりと大粒の雨が降り始めたかと思うと、一瞬の後にざあ、と叩きつけるような堅い雨が降り出したのでございます。
「おお!」
惟光さまは大声で悲鳴をあげ、取り乱して私をつきはなすと、大きく目を見ひらいて、袖で顔を隠しながら、転がるように屋敷の中へ走って行かれました。その後ろすがたを見ながら、私はずぶぬれになって呆然と立ち尽くしておりました。冷たい雨がしだいに私に心を取り戻させ、それと同時に恐ろしさが私の心を占めはじめました。
私はそれからのことはあまり憶えておりません。気がつけば五条にある実家の戸を叩いていたのです。幸い惟光さまは追いかけてこなかったようでございました。
ああ、平信さま、私、恐ろしいのです。平信さま―――消えないのです、その光の君の、その妖しく美しい御姿が、まぶたの裏に焼きついて、今も消えないのです。猫のように闇に光る惟光さまの眼が―――そのときの心のときめきが、そしてなにより―――光の君の、姫さまの首筋に噛みついたそのお口の―――狼のような尖った牙が―――恐ろしくてたまらないのです。
八 首を傾(かし)げる夜番(ばん)の平信(へいしん)
夜番頭(やばんがしら)の平信(へいしん)でございます。
恐れながら、昨晩のことをお話いたします。昨夜は二十数名の番衆を不寝番(ねずのばん)として、お屋敷の要所要所に立たせておりました。番衆のさぶらいは特に信頼できる者を選りすぐり、昼間充分な睡眠を取らせて、念には念を入れて怠慢の無いように一所(ひとところ)に二人を置いて互いに監視させておりました。
ところが、でございます。私も、見巡りをしておったのでよくおぼえております。にわかに窓から見る空が白(しら)んできたかと思うと、一閃、稲光(いなびかり)があたりを照らしました。
そのせつなでございます。私を含めた全ての番の兵が気を失ってしまったのでございます。恐れながら、それからのことは憶えておりませぬ。再び気づいた時には姫さまはどこにもおられなくなっておりました。
いつのまにか臥所(ふしど)の中に姫さまの姿を認めたのはそれから数刻ののち、一番鶏が高らかに夜の終わりを告げた、その直後のことでございました。
これは申し開きをしようというものではありませぬ。我らはどのようなお咎(とがめ)めも拒(こば)む理由はございませぬ。ただ、怪訝(けげん)なことでございますが、あの閃光のことはまことの出来事にございます。それだけは信じていただきたいのでございます。
九 憔悴する五位の少将
私の妹のことです。
もう七日ほどになりますが、妹がなにか物怪(もののけ)のようなものに魅入られてしまったようなのです。はじめのうちは夜な夜などこかに消えて、やつれて帰ってくるだけであったのですが、最近はすっかり衰弱してしまって、昼間、日の出ているうちは眠ってばかりなのです。食事も取らず、ますます痩せ細ってゆきます。典薬寮(くすりのつかさ)の医師(くすし)も役にたちませぬ。
加持祈祷(かじきとう)を頼み、妖魔を退けようともしましたが、まったくといっていいほど効きませぬ。名だたる祈祷師や巫術者(かんなぎ)、鬼退治で有名をあげた猛者などに妹を守らせましたが、気がついたときには妹はさらわれております。妹を寝かせる場所を変えてみたりもしましたが、やはり夜になると物怪(もののけ)はやってきて、妹をさらって行くのです。
安倍の某(なにがし)とかいわれる偉い陰陽寮(おんみょうりょう)の博士にも見ていただいたのですが、やはり原因がわからないというのです。音に聞こえた道士術者がみな口を合わせて、やれ齢(よわい)百年を経た妖狐(ふるぎつね)の仕業だの、どこぞの山のなになに童子とかいう鬼の仕業だの、北の蝦夷(えみし)の梟帥(かしら)の祟(たた)りだのと言って、言うことがいちいち違う上に、何もせずに匙(さじ)をなげてしまいます。
聞くところによるとお坊さまは功徳無量(くどくむりょう)といわれるほどの法力をお持ちとお聞きします。どうか、妹の命をあやかしの手から救っていただきたいのです。
お願いいたします。頼れるかたはお坊さましかおられぬのでございます。
十 呵々(かか)と笑う法誉僧都(ほうにょそうず)
この末法の世にあっては、どのようなことがあっても驚くに値しませぬ。ましてや幾多の民衆の血を絞って地を固め、多くの貴人の呪いを受けて造り営まれたるこの都には、それだけの数の怨念が飛び交っておるのでございます。さまざまな異変が起こるのも道理というものではございませぬか。
人の恨みだけではありませぬ。この都を造りあげるのにどれほどの森が拓(ひら)かれ、川や池が埋められたかを考えてみなされ。どれだけの鳥や獣ども、水底の魚どもの命が亡(の)うなったかを知るがよろしい。いま巷にあふれる怪異のほとんどは人の仕業が招いたことでしかありませぬ。原因があるからこそ、事はおこるのでございます。百鬼夜行も然り、妖怪変化もまた然り。すべては人の行いより生まれ、人間のつまらぬ欲望がそれを育(はぐく)むのです。
よろしいですか。怨霊や化性(けしょう)の類はその原因を取り除いてやれば手易(たやす)くその悪行を止めるものでございます。三千世界をあまねく照らす大日如来のご威光は、昏(くら)き闇の中に蠢(うごめ)く救われぬ者どもにすら救いの手を差し伸べ、いと畏(かしこ)き釈尊(しゃくそん)の教えは、千年の大怨(たいえん)を残して奈落(ならく)の底に悶(もだ)える魂にも永劫の安らぎを与えたまいます。
なに、心配することはありませぬ。妹君のことは拙僧にまかせるがよろしい。必ず妖魔の手より姫君をお助け致しまする。呵々(かか)。
十一 夢見続ける宵待(よいまち)の姫君(ひめぎみ)
ああ、光の君。どうぞ、お入りになって。なんだかざわざわうるさいのだけれど、どうなっているのかしら。
ご覧になって。もうあんなに月が満ちております。あの月がまんまるな望月になった夜、私を新しい世界に連れていって下さいますのね。あの竹取の姫君のように。
ああ、早く見てみたいわ、皓々(こうこう)たる月光だけが天地を照らす、光と影の世界を。美しく気高く、そして無慈悲な月読神(つくよみのかみ)のしろしめす神の国。醜い者も愚かな者も無粋な者もいない世界。
その国では死ぬことも老いることも病になることも苦しむこともないのでしょう?
ほんとうに、永遠に若く美しく純粋でいられるの?
私、もっといろんなこと、あなたに教えていただきたいのです。誰も知らない不思議な世界のことを。
さあ、はやく。今宵も連れていってくださいな。
二人だけの深夜の散歩に。
そして、あなたのお屋敷で、異世界の夢を私に見せてくださいませ。
十二 悔しがる法誉僧都(ほうにょそうず)
昨夜一晩、寺の本堂において姫君をお守りしようとしたのですが―――無念ながら、拙僧の法力ではどうにもいたしかねるようでございます。
拙僧は昨晩、護摩(ごま)を焚き、結界(けっかい)を組んで姫君を護り、法力自慢の僧を集めて夜通し真言(まんとら)を唱え続けました。
夜半をすぎたころでしょうか。
突然、護摩壇(ごまだん)の火が消え、ご本尊の大日如来像がぐらぐらと揺れ始めました。一瞬のうちに灯りがすべて消えました。しかし、本堂の中には高い窓から月光がさしこんできておりました。
月光の照らし出す中に白い影がわだかまったかと思うと、すきとおるような白い肌と切れ長の目を持った男がそこに立っておりました。
男はやせ細った姫君を抱きかかえると、われわれを嘲笑するように一瞥して、さっと身を翻(ひるがえ)して姫君とともに消えてしまいました。
その美しさときたら―――私はながらく僧籍にあり、ほんらいならそのようなことを口にするべきではないのかも知れませぬが、その魔人の性質を語る役目上、あえて隠しだてはいたしませぬ。その美しい男を見たとたん、拙僧は胸を射抜かれたような衝撃を受けました。目と目が合った瞬間、魅了されてしまったのでございます。僧職には男色の者が多うございますが、私にはその気はありませぬ。その老いぼれの―――恥ずかしいことですが―――ここ数年間萎(な)えっぱなしであった男の物が、その美しき男の一瞥で痛いほどに膨れ上がったのでございますよ。
拙僧の胸は高鳴り、自分でも恐ろしいほど早く強く打ち鳴らされておることがわかりました。そのままでは私の心の臓は破裂するのではないか―――そんな思いにかられ、急いで呼吸を整えると経文(だらに)を唱えて心をおちつけようとしました。
周りを見回すと、私以外の僧は、皆眠りこけておりました。なんという化け物―――美しき物怪(もののけ)でありましょうか。
すぐさま拙僧は護法童子(ごほうどうじ)を飛ばして鬼神を追いましたが、天童の千里眼をもってしても、ついに見つけることかないませんでした。
いやはや、愚僧などの力ではどうにもならぬ鬼神であることは確かでございます。いや、この国のいかなる高僧も、呪法者(ずほうしゃ)もこの鬼神を退治することはできぬにちがいありませぬ。なにか日本(ひのもと)や唐(から)、天竺(てんじく)のものとは理(ことわり)のまったく異なる神界の成り立ちを持つ国から来た魔神のような気がいたしまする。おそらく胡国(ここく)かそれよりも遥か西の彼方、我らが名も聞いたことのないような国から流れ着いた鬼神なのかもしれませぬ。愚僧も多くの魔除や退魔をしてまいりましたが、このような異質な性質を持ち合わせた魔物についてはどうしてよいかもわかりかねるのでございます。
ただ―――ただし、その妖魔の属する神界の構造についてよく知る者があれば、この鬼神に太刀打ちできることでございましょう。拙僧はその者に心当たりがありまする。
聞くところによれば、四条河原に『摩利(まり)の教(おしえ)』という邪宗の教えを説いてまわっている、摩利安尼(まりあんに)とかいう若い尼僧がおるらしいのです。この尼僧、異邦の沙門(しゃもん)がこの国の女に生ませた娘なのですが、この娘、とにかく法力が滅法強いといいます。今より二十年ほど昔、三国一の法力をもつといわれた僧都を邪宗の魔術で打ち負かしたのがこの尼僧の父にあたる沙門(しゃもん)なのでございますが、この娘はその父の力をもはるかにしのぐ呪法者(ずほうしゃ)であると聞きまする。本邦の呪法(ずほう)が全く通じぬ以上、この上は邪宗門の徒といえども仕方ありますまい。その摩利安尼(まりあんに)を訪ねて見なさるが唯一の道でありましょう。残念ながら、今の愚僧に言えることといえばそれだけでございます。
十三 改宗を迫る摩利安尼(まりあんに)
たしかに。私は尊き摩利(まり)の教(おしえ)を伝える、摩利安尼(まりあんに)でございます。
その妖魔の正体はおそらく、かつて摩利(まり)の教(おしえ)に従っておった者が、天上皇帝に離反し、魔王沙丹(さたん)の側に転じた者でございましょう。ならば天上皇帝の力をもってすれば、その魔を払うなどは造作もないことにございます。もっとも、あなた方がいつまでも釈教仏法(しゃきょうぶっぽう)などという邪神に頼っておっては姫君はこのまま鬼神に取り殺されてしまうことでございましょう。どちらも天上皇帝《でうす》にしてみれば悪魔の眷属(けんぞく)にすぎませぬ。邪神をもって鬼神を制すは、毒をもって毒を制すに同じ。いずれ毒に犯されておることにはかわりありますまい。
あなたがたは天上皇帝の御力を信じなければなりませぬ。今のまま菩薩だの如来だのといった鬼神を信じておっては天上皇帝はあなたに力をお貸しにならないでしょう。
さ、少将どの。一言、摩利(まり)の教(おしえ)に従うとお誓いなさいませ。さすれば姫君の命はこの摩利安尼(まりあんに)がお救いいたしましょう。
十四 《でうす》について語る五位の少将
なあ、平信(へいしん)よ。私の妹を救うために《でうす》に帰依してはくれぬか。
摩利安尼(まりあんに)の妹を救うための条件は、私と、おまえたち番衆の者が摩利(まり)の教(おしえ)に宗旨替えすることなのだ。
なに、摩利(まり)の教えとて、よくよく聞いて見ればそんなに邪(よこしま)な教えではない。現に摩利安尼(まりあんに)の父の故郷たる葡萄牙(ほるとがる)とかいう、はるか西方の国では、老いも若きも皆、天上皇帝《でうす》を熱心に信じておるそうだ。それに大唐国でもかの地の帝(みかど)の保護をもって《景教(けいきょう)》なる名で大いに隆盛しておったという。珍妙な名の異国はともかく、あの唐国ではやっておったというのだ。何をいぶかしむことがあろうか。のう、平信よ。
そもそも摩利(まり)の教(おしえ)とはまたの名を《きりしと》の教(おしえ)とも言うて、説いたのは《ぜす・きりしと》あるいは善主麿(ぜんすまろ)と呼ばれるお方で、まあ仏法で言えば仏陀(ぶつだ)、釈迦牟尼(しゃかむに)のような尊者であるらしい。《でうす》は天上皇帝といって、天地(あめつち)をあまねくしろしめす神。
世界は《でうす》とともに生まれ、天地(あめつち)は《でうす》がつくりたもうたという。
私はな、平信。はじめ《でうす》とは古事記(ふることふみ)にある天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)や高御産日神(たかみむすひ)、天常立神(あまのとこたちのかみ)などの別天神(ことあまつかみ)のようなものだと思っておったのだが、摩利安尼(まりあんに)によればそれは全く違うものだという。天上皇帝は全知全能にして、唯一(ただひとつ)の神であられるのだと。
私は摩利安尼(まりあんに)の話を聞いてみて、あながち我らが信ずる八百万(やおよろず)の神々や釈尊(しゃくそん)の教えとそれほど違うものであるとは思えぬような気がしてきた。私が思うに、《でうす》は我が国でいうそれらの別天神(ことあまつかみ)や天照大神(あまてらすおおみかみ)のような天津神(あまつかみ)、大国主命(おおくにぬし)のような国津神(くにつかみ)、あるいは仏法の釈尊(しゃくそん)や如来、菩薩などが分け持つすべての力や役割を、一つの名前であらわしたものではないかと思うのだ。そう考えれば、私には《でうす》を信じることは、これまでの神仏の信仰となんら矛盾することはないのではないかと思えてくる。
違うだろうか。そうは思わないか、平信よ。
まあ、私とて心から望んで改宗するわけではない。すべては妹のため、あれを救うためなのだ。たとえ一時でもよい。妹を救うためだ。配下の番衆ともども、摩利(まり)の教えに帰依してくれぬか。頼む、平信よ。
十五 越歴機(えれき)の夢を見る夜番(ばん)の平信(へいしん)
私は四条河原に摩利安尼(まりあんに)を訪ねました。若殿さまのお言葉をお伝えするためでありました。
粗末なあばら屋が摩利安尼(まりあんに)の住まいであり、摩利(まり)の教(おしえ)を伝えるためのお堂であるということでした。
わたしが昼下がりに、そこを訪ねたとき、摩利安尼(まりあんに)はその寺の前に宿無しやら病人、ごろつきなどを集めて、食物の施しをしておりました。私はその人だかりを遠巻きにみておりましたが、じつに様々な人々がそこにはおりました。
ひとしきり施しが終わると、摩利安尼(まりあんに)は皆を並ばせ、説教をはじめました。《ぜす・きりしと》の言葉を語り、それに対して説明をするのですが、それがまた、無学な者や子供にもわかりやすく、巧みな比喩(たとえ)をもって語られるので、私などもじょじょに引き込まれて、最初はかなり後ろの方で聞いておりましたのが、気がつけば人だかりのすぐ後ろまで来てしまっておるほどでありました。
黄昏どきになり、その信者たちが帰っていったあと私はお堂の中に入るようにすすめられました。
お堂の中には大きな摩利菩薩(まりぼさつ)の木像がありました。摩利女菩薩(まりにょぼさつ)は嬰児(みどりご)をいだいて、安らかなるほほえみを浮かべておりました。どこかしら、摩利安尼(まりあんに)と女菩薩(にょぼさつ)は似ておられるようでございました。
私は祈っておられる摩利安尼(まりあんに)に近づいてゆき、尋ねました。
「なぜ、卑しき者などに摩利(まり)の教(おしえ)を説いておるのですか」
「彼らが、《でうす》さまのお力を必要としているからです」
静かに、比丘尼(びくに)は言われました。
私は摩利安尼(まりあんに)に、若殿さまの伝言をおつたえしました。
「みなさま、改宗なさいますのですね。いと尊き天上皇帝さまは、みなさまのために波羅葦僧(はらいそ)の門をお開きになるでしょう」
摩利安尼(まりあんに)はかすかなる喜びの表情をうかべて、宙に十字を切りました。
「しかし―――摩利安尼(まりあんに)どの、私には、一つだけお願いがあるのです」
「なんでございましょう」
「私に《でうす》の奇跡というものを、見せていただきたいのです」
私は、摩利安尼(まりあんに)が呆れるのではないかと思い、すこし質問をためらいましたが、尼僧の真摯な目が、私にその続きを口にさせました。
「そうしないと摩利(まり)の教(おしえ)も、あなたのことも心から信じられないような気がするのです」
摩利安尼(まりあんに)はとくに驚いた様子も、あきれたようすも見せませんでした。鈴の音ような美しい声で、ひとこと言われました。
「お見せいたしましょう」
次の瞬間、私は夜空の真ん中におりました。地面も、重さも、摩利安尼(まりあんに)も消え失せているのでした。
遠くで何かが輝いたかと思うと、私は夜空をその光の方向に飛んでおりました。
燃えさかる大地に雨が降り続き、やがて世界が海に包まれるのを見ました。はるか昔に栄えた竜族の世が、流れ星の落下によって滅びさるのを見ました。槍を持った猿(ましら)の群れが、おおきな象(きさ)を罠にかけて狩るところを見ました。
洪水の前に生きながらにして海に沈んでゆく人々の叫びを聞きました。また、目の前でまっぷたつに海が割れるところを見ました。磔(はりつけ)になった善主麿(ぜんすまろ)さまが、三日の後に蘇られるところを見ました。
人をのせた細長い鉄の車が、煙(けぶり)を吐きながら走って行くのを見ました。鋼(はがね)の鳥が、人を乗せて空を飛ぶのをみました。星の海を駈ける巨大な船の群れを見ました。
そして、天界の空に繰り広げられる神々の激しき最後の戦いを見ました。その戦いのすえに地上に永遠の神の国が現れるのを、私は見ました。
気が付けば、私はもとのお堂の中にいて、摩利安尼(まりあんに)の前に立っておるのでした。すべては一瞬のゆめであったかのように思われました。
「越歴機(えれき)の夢はいかがでございましたか。これで《でうす》の奇跡というものを信じていただけましたでしょうか」
摩利安尼(まりあんに)は薄い色の目で私を見ておりました。その表情はまことに慈しみ深き摩利観音(まりかんのん)のようでございました。
「《でうす》は見通し、《でうす》は救い給います。あめん」
「あめん……」
私は知らず涙しておりました。膝をつき、輝ける聖母子像に手をあわせました。
私は、たしかに神(でうす)の奇跡というのを目の当たりにしたのでございました。
十六 摩利(まり)の教(おしえ)に改宗する側女(そばめ)の小夜(さよ)
若殿さまはお屋敷に摩利安尼(まりあんに)さまをお招きになりました。
私は若殿さまとともに摩利安尼(まりあんに)さまに従い、天上皇帝に帰依することを誓いました。もちろん、一族の方々や侍従番衆の方々もそれに従い、摩利(まり)の教(おしえ)の宗徒となりました。聖水で頭を浄められ、それぞれに「くるす」という小さな十文字の護符と、《びぶりお》という一冊の綴じ本を頂いたのでございます。私たちが頂いた《びぶりお》は、本朝のやさしい言葉で《でうす》さまや《ぜす・きりしと》さまのお言葉が記されており、嬰児(みどりご)を抱いた摩利(まり)女菩薩(にょぼさつ)や、大蛇(おろち)と戦う異国(とつくに)の鎧武者などの絵姿が描いてあるのでした。
すっかりやせ細ってしまわれた姫さまのしとねの脇に、摩利安尼(まりあんに)さまと若殿さまが並ばれ、その後ろに夜番(ばん)の平信さま、配下の多くの強そうな若侍がならんで座っておられます。皆、姫さまを救うために改宗したのです。みなさま、ほかのどのようなことでもするくらいの覚悟はしておいででした。その摩利安尼(まりあんに)さまの脇には姫さまの源氏の折本が五帖積んでありました。
摩利安尼(まりあんに)さまは今まで起こったことをお聞きになり、しばらく考えておいででしたが、姫さまの首筋にのこる咬みあとをご覧になったとたん、眉をひそめられました。
「これは―――やはり外(と)つ国の妖魔の仕業に違いありませぬ」
ぱらぱらと綴じ本をめくられたあと、ぱたんと小さくて分厚い草紙を閉じられました。その冊子の表紙はこの国のものと違ってかたい皮のようなものがつかわれており、籠目(かごめ)の紋所や十文字(じゅうもんじ)の印などが描かれているのでした。中身はむつかしい横綴りの異国文字で記されておりました。
「厄介な魔物でございます―――」
摩利安尼(まりあんに)さまは金色の十文字(くるす)の念珠(ろざりお)を握り、むつかしそうなお顔をなさいました。
「唐天竺よりはるか西の彼方に、羅馬尼亜(らまにあ)、杜連城国(とらんしるばにあ)というところがございます。その国の森の奥深くには人の生血をすすり、永遠を生きるという吸血鬼(ばんぴえろ)という化け物がおるそうでございます」
「ばんぴえろ、でございますか」
若殿さまが不思議そうにおっしゃいました。そのお首にはちいさな銀の十文字(くるす)の護符をかけておられます。
「天上皇帝に背き、悪魔沙丹(さたん)に魂を売った者でございます。一度死んだ身なれば、その身は不死身で刀で切っても死なず、からだがちぎれても、また肉がより集まって元に戻るといいます。その牙で血を吸われた者はじょじょに命を失ってゆき、葬られたあと墓穴より黄泉返(よみがえ)り、その者もまた血を吸う鬼となります」
「では、妹は―――」
「危ない状態にありますが、早急にその吸血鬼(ばんぴえろ)を倒し、然るべき処方をこうじれば、まだ十分助けて差し上げられるでしょう」
「どうすればその鬼を倒せるのでありましょうか」
「まことにその鬼神が吸血鬼(ばんぴえろ)であれば、天上皇帝を、《でうす》を畏れるはず。血を吸う鬼はこの十文字の護符(くるす)をなによりおそれます。そして、天上皇帝の神勅をおそれます。善主麿(ぜんすまろ)《ぜす・きりしと》の威光をおそれます。聖句により清めたる水をおそれます。清めたる刀をおそれます。清めたる白木の杭をおそれます。大蒜(おおびる)の匂いをおそれます。流れる水をおそれます。そしてなにより太陽を、日の光をおそれるのでございます。
さきほどの話によれば、姫さまは、満月の夜に月の世界に旅立つとおっしゃられたそうでございますね。となれば、もう時間がありませぬ。満月は明晩でございます。これより手分けをして出来るだけ早いうちに吸血鬼(ばんぴえろ)を迎え撃つ準備をせねばなりませぬ」
若殿さまは大きくうなづき、眠っておられる姫さまをじっと見ておられました。
しばらくのあいだ、どなたも何もおっしゃいませんでした。屋敷の外の虫の声だけが聞こえておりました。
吸血鬼(ばんぴえろ)は流れる水をおそれる。摩利安尼(まりあんに)さまの言葉に、私は初めて光の君と惟光(これみつ)さまのお姿を見た夜のことを思い出しておりました。惟光さまに魅入られそうになった私を救ってくれたのは、突然のにわか雨でありました。あれは天からの、まさしく流れる水でありました。私は天の《でうす》さまに感謝をせずにはおれまれませんでした。
「しかし、摩利安尼(まりあんに)さま、光源氏の君はあくまでも物語の中の人物でございましょう。それがどうして現(うつつ)の世にその外(と)つ国(くに)の鬼としてあらわれたのでしょうか」
夜番頭(やばんがしら)の平信(へいしん)さまが口を開かれました。それは私も心の中に抱いておりました疑問でありました。
「姫君は源氏の君の物語の世界をこよなく愛しておられたと申されましたね。吸血鬼(ばんぴえろ)は淫らな妖魔でございます。また、夢と現(うつつ)を自在に往来する力を持っております。この淫魔は、姫君の抱いておられた源氏の君への願望を察知して、その欲望につけ込むためにそのような姿かたちをとってあらわれたのでありましょう」
「そのようなものでございますか」
摩利安尼(まりあんに)さまは、源氏の折り本のうちの一帖を手に取り、開いてご覧になりました。『若紫』の帖でありました。摩利安尼(まりあんに)さまは、赤みを帯びた顔と色の薄い瞳という、異国めいたお顔だちをしてはおられますが、本朝の文化にもよく通じておられるようでございました。
「その折本―――源氏の物語には障(さわ)りはないのでございますか―――いっそ灰にしてしまったほうがよいかと思うのですが」
忌まわしげに平信さまがおっしゃいました。
「その必要はございませぬ。これはただの物語、たんなる言葉の連なりでございますゆえ。よく言うではありませぬか。本当の物語は読み手がつくるものだと」
摩利安尼(まりあんに)さまはその手の源氏の帖装本(ちょうそうぼん)を閉じると、いつになくやさしい目をなさって、番の平信さまにそれを手渡そうとされました。
「はあ」
平信さまはわかったようなわからないような返事をされましたが、それをお受け取りにはなりませんでした。かわりに若殿さまがそれをお受け取りになり、小憎いような困ったようなお顔で表紙を開くと、不機嫌そうにばらばらと目を通されました。
「いずれにせよ、いらぬ心配はせずともよろしゅうございます。あとは天上皇帝のご威光とこの摩利安尼(まりあんに)の法力を信じて頂くしかありませぬ。なにより《でうす》を信じることにございます。そうすれば必ず姫さまはもどってこられましょう」
そうおっしゃいますと摩利安尼(まりあんに)さまは目を閉じ、宙に十文字(じゅうもんじ)を描かれたのでございました。
十七 月を見上げる夜番(ばん)の平信(へいしん)
これは小夜(さよ)ではないか。なあに、心配することはあるまい。我らには摩利安尼(まりあんに)さまが、我らの上には《でうす》さまがついておられるからな。
なにがおかしい、小夜(さよ)。まあ、以前の俺なら考えられぬことではあるだろうがな。俺は摩利安尼(まりあんに)さまの摩利(まり)の教(おしえ)に心から帰依(きえ)したのだ。《ぜす・きりしと》さまのお言葉は俺の心に今までに経験したことのなかった大きな感動を俺の心の中に呼び起こした。
武人(もののふ)の道を志し、おのれの身体を鍛えることにしか興味がなかった俺が、まじめくさってこんなことを言うのはおかしいか。
なあに、武を求める心も神を求める心もそう変わりはせん。人の心はどこまでも行っても突き詰めきれぬ、極(きわ)めきれぬ真(まこと)のようなものを求めるのだろうな。それが武であるか、神であるのか、美であるのか、あるいは富であるかは人それぞれだがな。
なんだ、これか。これは樫(かし)の木の杭(くい)だ。これを鬼の心の臓に打ち込んでくれるのだ。この木槌(きづち)でな。こう。そうすれば、あの鬼は確実に殺せるらしいのだ。鬼め。目にものみせてくれるわ。
しかし―――不思議な気分だ。この十文字(くるす)を首から下げていると、吸血鬼(ばんぴえろ)どころか、あの月にさえ風穴を穿(うが)てそうな気がしてくる。まったく《でうす》さまのお力とは凄まじきものよなあ。
それはそうと、なあ、小夜。
久しぶりにこっちの杭(くい)を、おまえに打ち込んでやりたくなった。なあ、小夜。よいではないか。
下品だと? そうよ。わしは『野蛮頭(やばんがしら)』の平信さまだからな。
それに、俺は明晩、鬼に殺されるのかも知れんのだぞ。よいではないか。なあ、小夜。よいではないか。
いかん。《でうす》さまが見ておられるのだったな。忘れておったわ。
十八 御簾(みす)をもたげる侍女(そばめ)の小夜
ねえ、ごらんになって、平信さま。
月が、雲に飲み込まれてゆきますわ。
十九 息巻く五位の少将
あの夜の話でございましたな。あの夜の、青いような白いような、皓々(こうこう)とした満月の光だけは、忘れようとしても忘れられるものではございませぬ。
摩利安尼(まりあんに)どのは聖水をもってわれらの体や甲冑、刀などを清め、おなじように、いやそれ以上に念入りに妹の体を清められたのでした。比丘尼(びくに)は我々に十字の切り方や、天上皇帝の御力におすがりするための聖なる言葉を教えてくださいました。思えば手前勝手なことをしたとも思います。私は妹の身を救いたいがために、夜番(ばん)の平信やその部下の者たちまでも摩利(まり)の教えに改宗させたのでございますから。
摩利安尼(まりあんに)のとなえる摩利(まり)の呪法(ずほう)の低い陀羅尼(だらに)だけが部屋のなかに響いておりました。
突然、灯りが消えて、閃光があたりを真っ白に焦がしました。
「おまちしておりました」
さきほどまでやつれ果てた姿で眠っていた妹が、甘美な、切なげな声で言いました。
「さあ、早く行きましょう―――」
私は目を見張りました。妹の身がひとりでに宙に浮かびはじめたのでございます。
「おのれ、妖怪変化(ようかいへんげ)め」
私は妹の身を両の腕でかき抱き、妹の背にまわした両手で、銀の十文字の護符をかざしました。
「《ぜす・きりしと》よ、護(まも)り賜(たま)え! あめん!」
私はどんなことがあっても妹を守りきる決心で、両腕でそのからだを抱きかかえ離さないつもりでした。しかし妖魔の力はおそろしく強く、私はその怪力にあらがうことさえできず、流されるまま私と妹は縁側の遣戸(やりど)を突き破り、そのまま庭まで引っぱられてしまいました。
「摩利安尼(まりあんに)どの! 《くるす》の力が効きませぬ!」
比丘尼(びくに)の話では、吸血鬼(ばんぴえろ)は十字(くるす)の護符をおそれるはずなのですが、それが効かないのです。私は焦っておりました。
「摩利安尼(まりあんに)どの!」
「少将どの! 信ずるのです。信ずれば救われます。父なる《でうす》を信じるのです。子なる《ぜす・きりしと》を、信じるのです。そうすれば聖霊たちが護ってくれまする」
摩利安尼(まりあんに)のいうには十文字(くるす)の護符の力の強さは、その持ち主の信仰の強さによるものだということでした。そう考えれば、私には信じる力というものが足りなんだのかも知れませぬ。しょせん、邪宗門の、異教の神だとか、妹が救えたらまた、宗旨替えをすればよいのだとか、心の奥底で思っていたところがあったのかもしれませぬ。それを《でうす》さまはご存じだったのでしょう。なるほど、中途半端な信仰心しかもたない私などに天上皇帝が加勢してくれるはずなどなかったのでしょう。
まったく、情けないことでございます。私は吸血鬼(ばんぴえろ)に吹っ飛ばされ、そのまま地面で頭や腰をうちつけて、気を失ってしまったのでございます。
その後のことは夜番頭(やばんがしら)の平信の口からお聞きになってください。しかし、まったく情けないことでございます。
二十 天使(あんじょ)の祝福をうける夜番(ばん)の平信(へいしん)
若殿さまと姫さまが見えない吸血鬼(ばんぴえろ)の力によって屋敷の外に引きずられてゆくのを見て、私はすぐさまそれを追い、庭に出ました。
庭には冴え冴えした月の光が満ちており、あたりは青くくすんではいたものの、まるで夜明け前か黄昏どきのようにあらゆるものがはっきりと見渡せるのでした。
しかし、かの鬼の姿は私にはみえませんでした。
「悪鬼め―――よくも若殿さまを」
私は右手に清めたる刀を構え、左手に十文字(くるす)を握っておりました。腰にはいつでも引き抜けるように尖った白木の杭と木槌を差し、背中にも地面に杭を打つ時に使うような大きな木槌を負うておりました。
「全知全能なる《でうす》よ」
私は鬼の姿をさがしてあたりを見回しましたが、いっこうに見えないのでございます。姿無き相手をどう倒してよいものかと迷うておりますと、縁がわより摩利安尼(まりあんに)さまの声が聞こえてきました。
「平信どの、姿形(すがたかたち)は見えなくとも鬼はそなたのそばにおりまする。大蒜(おおびる)の粉をお使いなさいませ」
「者ども、大蒜(おおびる)の粉を!」
「応」
続いて出てきた十数人の若侍が小さな袋を姫君のおられるあたりめがけて次々に投じました。小袋の中身は微塵におろした大蒜(おおびる)の粉で、地に落ちるとはだけて粉が撒き散らされるように細工してありました。大蒜すなわちにんにくは吸血鬼(ばんぴえろ)の最も苦手とするものゆえ、摩利安尼(まりあんに)さまが命じられて作らせたものでした。
大蒜の粉は土埃のようになってあたりにもうもうと立ちこめておりました。それはもう、すさまじい匂いでございました。なにしろ、七、八十袋を一度に投じたのでございます。
「ぎゃああ」
この世のものとは思えない悲鳴が粉塵の中より響き渡りました。しだいに風が煙幕を流してゆき、鬼は月光のなかにその姿をあらわしました。吸血鬼(ばんぴえろ)は苦しげに顔を両の袖で覆い、くんくんと小さく細かく咳き込んでおりした。
姫さまも地面に尻餅をついて、大きく咳き込んでおられました。
「姫、大丈夫か」
吸血鬼(ばんぴえろ)が顔を覆っていた袖を下ろしました。まだ咳き込んでいらっしゃる姫さまに向かって手を差し伸べようとしておりました。
姫さまをさらって行こうとした鬼は、これまで見たこともないような美しい男でありました。私は思わず見とれ、もうすこしで魅了されてしまいそうになりましたが、摩利安尼(まりあんに)さまの声によって我に返ったのでした。
「平信どの。浄めたる刀をお使いなさいませ。天上皇帝の聖句によって浄められた刃ならば、たとえ不死身の吸血鬼(ばんびえろ)であってもすぐには回復はいたしませぬ」
「おう、心得たり」
私は刀を抜き放ち、覚えたばかりの聖句を唱えながら、吸血鬼(ばんびえろ)―――光の君にむかって斬りかかりました。
「なむ全知全能の天上皇帝《でうす》よ。摩利聖母(まりせいぼ)と抱かれし神の子《ぜす・きりしと》よ。天軍百万(あまついくさももよろず)の聖衆(かみがみ)よ。我を護り賜え!
亜免(あめん)!」
まったくおそろしくはありませんでした。むしろ、私は喜びに打ちふるえておったほどでありました。
その瞬間、私の目には数え切れぬほどの輝ける翼をもつ天使(あまつつかい)の神々が、私を護って飛び交(ちが)っておられるのが、あたたかくまぶしい聖光(あうら)のなかに、確かにはっきりと見えておりました。
二十一 怒れる宵待の姫君
そのときはもう、とにかくものすごい怒りをおぼえたのでございます。
せっかくまた夜が来て、いいところにつれていっていただけると思っておりましたら、なんということでございましょう。お兄さまが私の恋路をじゃまするなんて。お兄さまのその似合いもしないひげ面を見てると、私、もう、ほんとにお兄さまなんて、馬に蹴られて死んでしまえばいいのになどといけないことを思ったりするのでございます。
お兄さまやあの『野蛮頭(やばんがしら)の平信』のせいで、いい雰囲気で光の君さまに抱かれていた私は、その腕からこぼれ落ちて、おまけに尻餅までついてしまったのでございます。これでは雰囲気がぶちこわしではございませんか。だから、光の君がお兄さまを吹き飛ばしたときは、ほんとうに胸がすうっとしたのです。まったくいい気味でございますこと。
さらにあろうことか、お兄さまは平信に命じて、私たちの旅立ちを阻止しようとするのです。あの獣くさい熊男の平信が、私をいいところに連れてってくださる光の君にむかって刀をむけておられるのです。あの限りなく美しいお方に向かって。
「いかに不死身の吸血鬼(ばんぴえろ)といえども、さすがに天上皇帝の御威徳(いとく)の前では微動もできぬと見えるわ」
聞くに耐えないだみ声で平信が叫んでおりました。
「さあ、平信どの、いまでございます」
縁側に座っている女が耳障りな金切り声をあげました。
「あめん!」
平信が、わけのわからない言葉を発しながら、私の光の君に、刀を打ち下ろしました。
ところがでございます。光の君は顔色一つもおかえになりません。
「惟光(これみつ)!」
「は」
答えるが早いか、闇の中から従者の惟光(これみつ)さまが光の君の前にあらわれて、その身をていして光の君をおかばいになったのでございます。
惟光さまは肩口からおなかのあたりまで切り裂かれておしまいになりました。
「惟光さま!」
私は思わず叫びました。惟光さまは表情もおかえにならずに、じっと立っておられました。動けない惟光さまにさらなる刃が襲いかかりました。
「僕たちは尋常(よのつね)の武器では傷つけられない」
光の君がずたずたになった惟光さまの姿をご覧になりながらおっしゃいました。
「はい。切られてもすぐさま平癒(へいゆ)いたしまする」
惟光さまは苦しげなようすもお見せにならないで、そうお答えになられました。
「ほらね。僕たちは決して死なない」
光の君は再び私の手をとりました。
「きみも、もうすぐそうなるさ」
「そうなれば、年をとることも、苦しむこともないのね。素敵」
私は再び光の君の腕の中に抱かれて目を閉じました。
そうでございました。永遠を生きる私の美しい光の君や、惟光さまが、おろかな人間なんかに殺されたりするわけがないのです。とくにあの醜く汚らわしい『野蛮頭(やばんがしら)の平信』などには。
「どうした、惟光」
光の君があまりにも声を荒げておっしゃったので、私は驚いてしまいました。
不死身のはずの惟光さまの様子が、なんだかすこしおかしいようなのです。惟光さまのからだが、ふらふらゆらゆらと、今にもたおれそうに揺れておりました。
野蛮頭の平信が、手に大きな木槌を持って、惟光さまの前に立っておりました。
惟光さまの胸には太い木の杭が、ふかぶかと刺さっていたのでございます。
二十二 涙を流す側女(そばめ)の小夜(さよ)
夜番頭(やばんがしら)の平信さまは木槌を振り上げ、惟光(これみつ)さまの胸に白木の杭(くい)をあてがって、打ち込みました。
「亜免(あめん)! 亜免(あめん)!」
一尺ばかりなる木の杭が、根本近くまで打ち込まれたとき、惟光さまはどさっと倒れ込みました。
一瞬の後、そのからだのあらゆるところから人魂のような燐光を生じて、そのままどろどろと溶け崩れはじめました。人の姿を完全に姿を失うまでにさほど時間はかかりませんでした。惟光さまは大地に吸い込まれて、さいごにはただの地面の黒い染みになっておしまいになりました。
「惟光―――」
光の君はいつになく驚いたようすでつぶやかれました。信じられないといった表情で惟光さまを見つめ、叫ばれたのでした。
「―――惟光!」
私はそれを見て、どうしようもなく悲しく切なくなって、こらえようもなく涙を流しておりました。なぜ憎むべき吸血鬼(ばんぴえろ)である惟光さまに涙を流さねばならなのかわかりませんでしたが、涙は両の目尻より流れ落ちてゆくのでありました。
あるいはあの夜、惟光さまの光る眼で見つめられた瞬間、私はほんとうに惟光さまに心を惹かれておったのかもしれません。そう思うとなんだかいまここで泣くことへの戸惑いが消え失せるような気がして、ますますこみ上げてくるものを抑えきれなくなってくるのでございました。
一方で、そのような不埒な神(でうす)を恐れぬ感傷を抱く私を、ひどく忌まわしく思うのでした。私は体の中に悪しきものが残っているのではないかとそらおそろしくなりました。《でうす》さまの御威光に癒されたい、穢(けが)れを、不浄を祓(はら)いたい、と強く願わずにはおれなくなっておるのでございました。
二十三 睨み付ける宵待の姫君
私は悲しくて悲しくてしょうがありませんでした。
惟光さまのような美しいお方が、どうして『野蛮頭の平信』のような醜いだけのけだものに滅ぼされなければならないのでございましょうか。私は涙こそ流しませんでしたが、まるで私自身の胸に杭が突き立てられたかのような苦しさと息苦しさに襲われました。
ああ、平信はなんということをするのでしょう。自分のしたことの意味がわかっているのでありましょうか。光の君とともに永遠を生きてきた惟光さまの、その命、永遠を奪うということが、どれほど不遜な行為であるかをあの獣並みの心では計ることができないのでございましょう。さらに憎むべきはそれが兄の手の者であるということでございました。
ひときわ大きな体をした猪のような侍が、手に先を尖らせた木の棒と大きな木槌を持って、光の君の前に立ちはだかりました。どこかで見たことのある化け物だと思えば、野蛮頭の平信なのでした。まったく、呪わしい男でございます。
「吸血鬼(ばんぴえろ)め。 《でうす》さまの御力を思い知るがよい」
底知れぬ暗さをたたえた目をして、平信が白木の杭を構えてにじり寄ってきました。
「光の君、私を置いて早くお逃げになって!」
「いやだ。きみを連れていく」
光の君は強く、そうおっしゃって、私をかばうように平信のほうに一歩出られました。
そのお顔はいくらか苦しげにひきつっておられるのでございました。なんといまいましいことでありましょうか。これはきっと、さきほど浴びた臭い粉塵と、あの女の唱える妖しげな呪文のような声のせいでありましょう。私はその声を発する女を睨みつけました。あれもお兄さまの差し向けた醜い呪い師なのです。
「摩利安尼(まりあんに)さま、お力添えを!」
野蛮なけだものが生意気ににんげんの言葉で叫んでおりました。こたえて、気違い女が天を仰ぎ、狂ったように踊りながら言いました。
「あめん! 南無天上皇帝! その広大無比の御威光の下に浄化の聖雨を降らせたまえ! あめん!」
それは、まったく愚かしく滑稽な風景でございました。
二十四 神(でうす)を讃える五位の少将
私は雨音で目を醒ましました。
雨はしかし、私の上には降ってはおりませんでした。
銀の糸のような雨は、ただ吸血鬼(ばんぴえろ)と夜番(ばん)の平信(へいしん)、それにすこし離れたところに立ち尽くす妹の上だけに、はるか天上のかなたより細い滝のように、しずかにまっすぐ、降り続いているのでありました。
天には雲もなく、ただ満月が変わらず皓々と輝いております。
それはまさに奇跡としか言いようのない光景でございました。私は十文字(くるす)の護符を額にかざし、天に向かって叫びました。
「おお、美哉(あなにやし)! 《でうす》さま! 天晴也(あめんはれるや)!」
私は天のはるかかなたに飛び通う幾万の輝ける聖霊(かみがみ)の姿をいまはっきりとこの目に認め、われ覚えず熱涙をこぼしたのでございました。
二十五 罪を告白する夜番(ばん)の平信(へいしん)
意を決するのに時間はかかりませんでした。私には諸々の天使(あんじょ)がついておるのですから。
摩利安尼の降らせた浄化の雨は吸血鬼の身を焦がし、その邪悪の力を封ぜしめました。私は聖雨によって動けなくなった吸血鬼(ばんぴえろ)―――光の君の胸に樫の木の杭を突き立てました。
その瞬間、背筋に快感のようなものが疾ったのでございます。おそれおおいことでございますが、そのとき私は神(でうす)と一体化したかのような錯覚さえ覚えたのです。
「あめん!」
私は木槌を振りおろしました。
「やめなさい、けだもの!」
姫さまが私の前に立ちふさがり、痩せたからだを、ずぶぬれにしながら、けなげにも吸血鬼(ばんぴえろ)を護ろうとしておるのでございました。
「おどきください」
むろん、私にはその妨害を排除するのにはさほど時間はかかりませんでした。姫さまは私の腕につかまり、木槌を使えなくするつもりであったのでしょうが、私の腕力をもってすれば、姫さまを腕につかまらせたまま、吸血鬼(ばんぴえろ)のからだに木槌を叩きつけることも可能であったでしょう。私はやすやすと姫さまを振り払いました。
姫さまはなおも木槌につかまってくるので、私は木槌ごと姫さまを突き放しました。まさか木槌を放すとは思っていなかったのでしょう。姫さまは木槌の重みにふらつきながら水たまりの中に倒れ込みました。
私は背中に背負った大槌を両手に構えました。地面に杭を打つときにつかうような五尺近い長さの大槌で、これも聖水と聖句によって浄めたものでございました。
「亜免!」
続いて私はふりかぶった大槌を大きくふりおろし、杭を吸血鬼(ばんぴえろ)の胸の奥深くまでたたき込みました。
私はそのとき、苦悶の表情を浮かべる魔人の、美しい顔を見てはっとしました。魅せられた、といって差し支えありますまい。私は、この世でもっとも美しいものを、この手で、この大槌で、壊すことができる。永遠を生きるという吸血鬼(ばんぴえろ)のその永遠を断ち切ることができる。私はその考えに、考え自体に欲情したのでございます。高まりを覚ええたのでございます。これは《でうす》さまに対しての罪にあたるのでございましょうか。善主麿(ぜんしゅまろ)さまにたいしての冒涜になるのでございましょうか。このような不遜な者に波羅葦僧(はらいそ)の扉をくぐる資格があるのでございましょうか。
私はそう思いながらも、幾度も幾度も槌(つち)を振り下ろし、その無上(このうえなき)の悦楽(よろこび)に酔いしれたのでございます。
杭を打ち込むたびに心の臓がきりりと痛んだのは、神(でうす)の戒めなのでございましょうか。それとも悪鬼の魔術による最期の抵抗であったのでございましょうか。
二十六 神々を呪う宵待の姫君
光の君の胸を貫く杭は、どうやっても抜けませんでした。
「姫……」
光の君は、はらはらと涙をお流しになっておられました。赤い涙でございました。
「光の君!」
「僕の……ちを……」
それが、最期のお言葉でございました。今となっては光の君がなにをおっしゃいたかったのかはわかりません。ただ、私にはある一つの意味にしか取ることが出来ませんでした。
「光の君―――!」
ああ、神々はどうして美しい者をこんなに憎みねたむのでしょうか。美しい者が美しいまま永遠を生きることをどうして神々はお許しにならないのでしょうか。どうして月光の中では美しくいられるのに、太陽の光を浴びたとたんに消えてゆかねばならないのでしょうか。
私はたまらなくいとおしくなって、光の君の首筋に口を押しあて、その首を咬み、その脈打ち流れる冷たい血を吸いました。
二十七 雨に濡れる側女(そばめ)の小夜(さよ)
銀色に輝く神々しい雨でございました。
私は光る雨の中へ走ってゆきました。かつて私が惟光さまに襲われそうになったときに降った雨のことを思い、そのふたたび神の降らせたまう聖雨を浴びたい、救われたいといった衝動(おもい)に駆られたのでございます。浄(きよ)めの雨が私の髪を濡らし、衣袖(ころもで)を濡らし、顔を濡らし、足を濡らすたびに、私のなかの穢(けが)れが消えてゆくような気がしました。
光の君にすがりついて離れない姫さまを、平信さまは引きはがし、さらに大きく大槌を振りかぶり、力をこめて白木の杭を打ち込みました。その瞬間、光の君が断末魔の悲鳴をお上げになりました。
光の君の体が、美しいそのお顔が、月明かりの中に醜くどろどろにとけてゆくのを、私は浄めの雨にうたれながら、ただ見ておりました。
二十八 月にさけぶ宵待の姫君
気がついたときには私は呪わしい平信の忌々しい腕に抱きかかえられて、満月を見上げておりました。
私はそこから逃れようともがいたのですが、からだがしびれたようになって、まったく力が入らないのでした。
舌の上に残るあの方の血の味がどうしようもなく悲しくて、あの方の事を思うと息苦しくなって―――私は知らないうちに月に向かって、叫んでおりました。
私の光の君は―――月明かりの雨の中で、静かに美しくとろけてしまったのでございます。
(平成九年十一月)
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