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自分を律することの脆さ/走る風に身を委ねて
生きていると「自分を律すること」を求められることが多い。特に会社員として仕事をしていると、朝決まった時間に出社する、スケジュールとタスクを管理して行動する、現状維持ではなく成長を目指すなど、様々な場面で求められる。
「自分を律すること」というのは、当然だが「自分は自分を律することができる」という価値観に基づいている。もしも朝決まった時間に起きることができなければ、それは自分の眠気や疲れに勝てなかったからである。体調を崩してしまうのは体調管理ができなかったからである。その前提に立つことが、「自分を律すること」である。
そしてそれは仕事に限らず、趣味の領域にも侵食してくる。休日に寝るだけの時間を過ごしていると、「寝てばかりではもったいないので充実した時間を送った方がいい」「自分らしさを発揮できる趣味を持った方がいい」などと言われる。それもまた「自分を律すること」が前提にあり、休日の過ごし方を自分でコントロールすることができるということが前提にある。
自分の身体や精神は、自分でコントロールできることが前提になっているのが、現代の価値観なのだ。
ここで「私はそんな前提には立ちたくない。それが充実した時間でなくても、ネガティブな動機であっても、どんな時間を過ごしてもよいのだ」と思えれば話は早いが、周りからの価値観の浸食と言うのは恐ろしく、そんなに簡単に自分を律することを放棄することはできない。
したがって、自分を律することができた日はよい日で、律することができなかった日は悪かった日であると思い、休日に満足したり後悔したりしつつ、また次の1週間を過ごすことになる。
そんな私は最近、自分を律することの一つとして毎週末にランニングを行っている。動機は来月開催されるマラソンを完走するためで、そのために自分を律し、重い腰を上げて川沿いを走りに行っている。このマラソンは6時間という制限があるため、ある程度の速度で走り続けなければならない。そのため毎週末のランニングにおいてもその週の目標ペースを決め、少しずつペースを上げてマラソンの制限時間を最終目標として目指している。
「毎週末に走る」ということだけでも自分を律する必要があるのに、「目標ペースで走る」というさらに辛いことのために律する必要があり、一体これをいつまで続けることができるのだろうと不安になる。さらに、平日の疲れが溜まっていたり、いつもより寒かったりして目標ペースで走れなかった週には、罪悪感に襲われ、休日にネガティブな思いをするなんて自分は何のために休日を過ごしているのだろうという気分になることもある。
しかし今日、自分を律することに対して、考え方が変わる出来事に出会った。
今日はいつもと比べて特に風が強く、ランニングの序盤から目標ペースを守れずにいた。いつものように「もう少しペースを上げなければ」と罪悪感に襲われながら、しかしあまりにも風が強いため、そうもできずにいた。
私はそこで思い立った。「自分を律すること」とは、目標ペースで走り続けることなのだろうかと。今日の私は、いつもと同じように努力している。風に対抗してペースを保とうと、何ならいつも以上に努力している。しかし風が強いのだ。風をコントロールすることはできない。だとしたら、今日目標ペースを保てないことは、自分を律することができていないことにはならないのではないか。自然現象というコントロールできない現象に遭遇した場合に、それでもいつものように目標ペースを保つことは、それは期待以上の成果であって、もしも目標ペースを下回ったとしてもそれは仕方のないことではないかと思った。
そこで私はペースを落とした。正確には、一度走るのをやめて歩き出した。ああ、これでいいのだ。こんなに風の強い日は、歩くだけでもいつもと同じくらい努力しているではないか。今日の自分は十分頑張っているではないか。そう思い、ものすごく気分が晴れた気がした。
同じことが、他のあらゆる「自分を律する」場面でも言える。体調の悪い日にいつもと同じ時間に出勤できなくても、それは自分を律することができなかったのではなく、コントロールできない体調という自然現象に影響を受けただけだ。そもそも体調管理というもの自体、環境に依存するコントロールできない現象を扱う以上、自分を律することだけでは上手くいないものなはずだ。
こうも考えることができる。「ランニングウェアに着替える」「目覚ましをかける」「疲れた日は早く寝る」といった行動レベルでは律することはできても「目標ペースを保つ」「朝起きる」「体調をよい状態に保つ」とった結果レベルまではコントロールできない。成果ではなく過程に目を向ける、ととも言えるかもしれない。加えて、ここで行動と呼んだものも、それすらも必ず律することができるとは限らず、環境や状況に影響を受けるコントロールできないものになることもある。
関与はできるが支配はできない。行動はできるが管理はできない。そのくらいの中距離な接し方が、ちょうどよい。
強く吹く風を感じながら、私は再び走り始めた。目標ペースを保つことではなく、自分の足が運ぶ一歩一歩に意識を向け、その一歩を運び続けることを律しながら走る。この風とともに走る中で、新しい「自分を律する」感覚を見つけた。