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坂元裕二が披露する”花恋”的転回

「コペルニクス的転回」という言葉がある。コペルニクスが唱えた、旧来信じられていた天動説を180度大転換した地動説のように、根本的な発想の転換のことを指す。2021年、映画界に新たなコペルニクス的転回が披露された。その名も”花恋”的転回。「花束みたいな恋をした」は、人々の恋愛観を大転換させる、コペルニクスも驚愕するであろう映画だ。

こんなにも趣味嗜好が合う人とこんな風に偶然出会えるってすごいな

「こんなに意気投合していた二人ですら別れてしまうなんて…」と落胆してしまった

これは「花束みたいな恋をした」の感想として投稿されていたnoteの抜粋である。主人公の麦と絹は、とにかく趣味嗜好が合っていて、意気もぴったりだった。まさに理想の相手。

私たちの多くは、理想の相手と出会うことを恋愛の最初の目標にしている。例えばマッチングアプリでは、年齢・身長・職業・年収などの条件を絞って検索し、理想の相手を探す。マッチングアプリに限らず、初対面では共通の話題を探し、その話題で盛り上がることを望み、価値観を徐々に共有し合いながら、理想の相手かどうかを確かめる。

しかし、そうして見つけた理想の相手との恋愛が必ずしも上手くいくとは限らない。麦と絹のように、理想的に見えた二人”ですら”上手くいかないのが恋愛だ。いや、むしろそんな二人”だからこそ”上手くいかなったのではないか?と、この映画は教えてくれる。

この映画を観て分かるのは、「理想の相手と付き合えても上手くいかないものだ」というありきたりな恋愛一般論ではなく、むしろ、「理想の相手と付き合うからこそ恋愛は上手くいかないのだ」ということだ。理想の相手を見つけることが恋愛の目標だとされる、現代のマッチングアプリをはじめとする価値観を一蹴し、「理想」と距離を置くことで恋愛が上手くいくという発想の転換を、私はこの映画から学んだ。(もちろんそれは、「妥協すればそこそこ上手くいく」というネガティブな一般論でもない。)私たちは、理想の相手を見つけた麦と絹を羨む必要はなく、逆に反面教師的に学ぶことができる。

そんな”花恋”的転回のカラクリをここで明らかにしよう。

麦と絹の意気投合のきっかけは「押井守」だった。彼らの会話にはいわゆるサブカル系が好きそうな固有名詞が頻繁に出現し、二人が共通の固有名詞を出現させるたび、仲は深まっていった。絹が作中で発言した「ポイントカードだったら、もうとっくに貯まってて」という言葉の通り、彼らの仲は共通の固有名詞で貯まるポイントカードのようだった。

ポイントカードが満タンになるほど共通の言葉があり、これほど話の合う人と出会えたことは、一見するととても理想的だ。しかし彼らは、あまりにもポイントが貯まる頻度が多すぎたがゆえに、ポイントが貯まらない場面を乗り越えることができなかった。二人が同棲を始める頃になると、そのような共通の言葉が通用しない場面や、価値観の異なる意見が出てくる場面が徐々に増えていった。

人と人とが全く同じ価値観を持っているということはありえない。京王線と小田急線のように、ある地点においては並走している二人の価値観であっても、どこかで別の道を進むことになる。二人の価値観の相違点が見つかった時、彼らは自らの価値観を押し付け、言い争い、最終的に分かり合うことではなく別れを決断した。

彼らは理想の相手を求めていた。そして互いが互いを理想の相手だと、ある地点までは思っていた。だからこそ価値観の相違点に対して、「こう考える私の気持ちがあなたならわかるでしょ?だったら私に合わせてよ」と言わんばかりに、自らの価値観を主張することに終始した。

彼らは理想の相手を追い求め続けるべきだろうか?理想の相手候補を見つけ、価値観を確かめ合い、合わないと分かったら別れる。それを繰り返すべきだろうか?理想の相手が見つからなくとも、理想により近い相手を見つけ続けることは、少なくともよいことだろうか?

いや、むしろ、理想ではない相手を求める方がよいことを、この映画は教えてくれる。

なぜなら、自分の理想というのは、現時点で想像しうる範囲での理想でしかないからだ。たくさんの可能性が溢れているこの世界で、そんな理想を求める人は、自らの想像力を過信し過ぎているようにしか思えない。

理想の相手を探すことや、理想を他人に押し付けて合わせてもらうことなんかより、むしろ相手の価値観によって自分が変えられてしまうことの方が、よっぽど幸せだ。それによって自分が想像することができなかった、新しい世界が広がっていく。

とはいえ、理想の相手を探すのをやめ、相手の価値観によって自分が変えられることがよいと分かっていても、それでも麦と絹のように理想の相手を探し続けてしまうのが人間だ。理想の相手を探すのをやめるためには、一体どうしたらよいのだろうか。

それは、逆説的ではあるが、自分の価値観をしっかりと持つことである。

麦と絹が理想の相手を求めてしまったのは、二人が自身の価値観を持っていなかったからだ。彼らはたくさんの固有名詞を並べて、それを自分の価値観だとして披露した。彼らの会話にはあまりにも多くの固有名詞が登場する。

固有名詞で自分を表現するということは、他人の言葉で自分を語ることに等しい。好きなものをたくさん並べて「これが私です」と言っているようなものだ。それは自分の内側から出てきた言葉ではなく、自分の外側にあるもので自分を着飾って、ガワで固めているだけだ。

自分の言葉で自分を語れない、つまり自分の価値観を自分の言葉で語れない人間はどうなるか。麦と絹のように、他人の価値観を受け止めることができなくなる。自分の価値観をしっかりと持っていれば、他人の価値観を参考にして自分の価値観を微修正したり、上手く組み合わせて新しい価値観を生み出したりすることができる。自分の価値観を持っていない人間は、外側から借りてきた言葉と他人の価値観とが、一致しているかそうでないかの二項対立でしか物事を判断できない。外側から借りてきた言葉であるがゆえに、上手く使うことができないのだ。

だから自分の価値観をしっかりと持っている方が、結果として他人の価値観に対する柔軟性も向上し、理想に執着せず他人の価値観を上手く受け止められるのである。

人間関係でよく言われる「話し合いが大切」という言葉も、お互いの価値観を単に披露し合って、どちらが正しいかやどちらが妥協するかを決めればよいのではなく、二つの価値観を上手く組み合わせて新しい価値観を作るべきだということを意味しているはずだ。

恋愛で上手くいくためには、理想と距離をおいて自身の価値観の変容を楽しむ。コペルニクスは、天体が地球のまわりを回っているのではなく地球自身が回っていることを主張した。一方、「花束みたいな恋をした」では、自分が周りを変えるのではなく周りによって自分が変えられることが幸せであるという、まさに”花恋”的転回を学ぶことができる映画だった。

コペルニクスも、まさか自身の主張が恋愛のたとえ話に使われるとは思ってもみなかっただろう。

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