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きわダイアローグ10 手嶋英貴×向井知子 2/7

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2. 何がウェルビーイングなのか

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手嶋:「仏教が人間中心である」と言えるのは、自分というものが中心にあって、その反映のなかに外部世界が、つまりある意味で外部世界も、自分の世界の中の一部という捉え方をしていると考えるからです。しかし、現実世界では「人の苦悩をどう解決するか」を考えるわけです。そのために、今言ったようなことを、直接市井の人に言ってはみるものの、ピンとこなかったり、わからなかったりする。本質的なことをすぐに言ったらわからないから、本当のことがわかるように、ステップを踏ませるための便宜的な教えをします。「それだったらわかる」ということを積み重ねて、一歩ずつ前進させるわけです。そうやって段階的に前進させていって、最後にはいちばん本質的な考え方を伝える。その階梯を踏ませることを方便と言います。このように、相手の苦悩をどう解決に導くかを考える際に、仏教は非常に親切です。もう一つの仏教の本質としての重点項目である「慈悲」もここにあります。

向井:慈悲とはなんですか。

手嶋:例えば、悩んだり苦しんだりしている人を、「言ってもわからないからしょうがないよね」と見ないことにせず、そういう人にも仏教の教えがわかるように、教えを説きます。説いてもすぐピンとこないようだったら、どうしたら理解できるようになるかを考えて、その人に関わっていく。そうした姿勢を慈悲といいます。生きている人間をどうにかして救うことを重視するのが、慈悲の考え方であり、姿勢ですね。

向井:それは、キリスト教の慈悲や慈愛みたいなものとはどう違うのでしょうか。キリスト教の場合、旧約聖書では「右の頬を打たれたら、自分の左の頬を差し出しなさい」と無償の何かを提供するみたいなことがあります。これは仏教の慈悲とは違いますよね。

手嶋:方向性として、他の存在に優しくしたり、思いやったり……と、大雑把には違っていないと思います。しかし、「何がウェルビーイングなのか」という考え方が違うと言えます。
「苦悩の根源は自分のアイデンティティが持続していることだから、アイデンティティそのものをなくしていくのがウェルビーイングである」というのが、仏教の考え方です。例えば仏教には、先ほどいった涅槃という言葉があります。これは平たく言えば「アイデンティティが消滅する」ということです。こういった解決策が仏教にはありますが、東アジアではあまり受け入れられません。「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」という考え方を日本的に捉えると「自分が自分じゃなくなるなんて、そんな寂しいことあるか」と思う人は多いでしょう。でも、自分が自分でなくなったら、自分が自分であるからこそ生まれる苦悩もなくなる。非常にラディカルな考え方ですよね。例えばこういったことを理屈で言ってもすぐにわからない人を、考えられる頭にすべく、段階的に教えを説いていくのが仏教の慈悲だといえます。このように、「何がウェルビーイングなのか」という根本が、おそらく仏教とキリスト教では違います。外面的には似たようなことでも、本質的なところでたぶんズレがあると思うんです。
ちなみに、各国にうまくフィットするように考え方をどんどん修正した結果、日本では、自分が自分でなくなる涅槃を究極目標にするという仏教はほとんど存在しなくなっています。浄土教系の宗派では、「阿弥陀さんの本質は慈悲である」と言います。また近代では、阿弥陀さんの慈しみによって、すべての存在が生かされているという考え方をすることもあるため、その考え方に基づいて、慈善活動を行う人々は、キリスト教の慈善活動を行なっている人と実質的には気持ちや考え方、場合によっては世界観や人間観も近いのかもしれません。

向井:仏教はインドで生まれましたが、考え方としてはどちらかというと西洋の言語体系、ロジックと近いですよね。そんな西洋では一神教もできています。一部の仏教も一神教といえば一神教ですが、大日如来など、いろんな仏さまが出てくるのは密教が入ってきてからなのでしょうか。

手嶋:そうですね。お釈迦さんは崇拝対象ではもともとないんです。教えを自分で考案して説いたという意味では、尊敬すべき師匠といった感じでしょうか。お釈迦さん自身も亡くなるときに「自分を崇拝するな。大事にするべきは法だ」と言っています。要するに大事なのは説いた教えで、誰が説いたかは関係ない。そういう意味で、いわゆる宗教とは、もともとの出発点が違うところがあります。宗教という言葉自体も西洋近代の概念なので、仏教はもともと、キリスト教と並べて捉えられるものではなかっただろうと思います。ただし、信仰・崇拝を中心にする宗教は、インドにも昔からありますから、それと融合して生まれた密教などは西洋近代的なとらえ方でも宗教と言えるかもしれませんね。

向井:手嶋さんのご専門は仏教やインド学だと思いますが、大学ではいわゆる専門とは違う教養課程的なことをされていますよね。それは、学生のニーズや、方便といったこととも関わってきているのではないでしょうか。教養科目を方便と言うべきではないのかもしれないですが、存在の仕方、周りとの生き方について、その人それぞれの方法を見つけるように教育をされているように思ったんです。必ずしも仏教の教えの本質をそのまま教えることが意味があることではない。むしろ学生さんが実社会で生きていくときに、自分にとって必要な何かを自分で見つけることの手助けをされているのではないですか。

手嶋:本当はこれが重要だから伝えたい、ということをすぐに言ってもわからないから段階を踏んで、近寄せていくのが方便です。宗教の場合、「これが重要だ」という部分が人間のウェルビーイングのあり方にあたります。でも、「人間にとって本当はこれがウェルビーイングだ」と考えていることは、ある意味で押し付けがましいんですね。例えば仏教でいうと、自分というものがあるから苦しい。だから、苦しんでいる人がそれから逃れるには、自分というアイデンティティをなくしていくことがいちばんいい。アイデンティティがなくなることによって苦しみは無くなりますが、その状態をみんながウェルビーイングと捉えるかというと、「それは寂しすぎる」と考える人もいると思うんです。現代の世界では、自分にとって何がウェルビーイングなのかは、本来それぞれが自分で決めたらいいことで、誰かが導いていくような類のものではないのではないでしょうか。昔の人はそうは思わなかったでしょうが、ある程度学校教育も行き届いて、個人が尊重されることが当たり前の世の中になった今、宗教はある面で押し付けがましさを含むものにならざるを得ません。学校教育は、重要な理論をわかってもらうために近寄せていくという意味で行動の構造は似ていますが、そこで伝えたいことの中心は知識であって、ウェルビーイングではありません。
例えば比叡山には延暦寺があって、そこには仏さんが祀られています。そこへ学生を連れて行っても、手を合掌させたり、お参りをさせたりといったことをわたしは特にしません。ただ、自分でそういうことがしたくて、そこまで来てお参りをしている人の姿がその場にはあるわけですよね。そういう人たちの姿を見ることが一つのメッセージだと思うんです。手を合わせたくなる人が出てくるかもしれないし、違和感をもつ人もいるのかもしれないけれども、その人が自分にとって何がいいのかを、考えたり、行動選択をしたりする材料を一つ、二つ足すことにはつながるわけですよね。だから、わたし自身が何か特定のメッセージを伝えるよりは、それを受け取れるプロセスというか、場を提供するという意味合いが、比叡山に連れて行くことにはあると思うんです。メッセージは、そのまま受け入れられなかったとしても、存在する意味があります。それがいいとか悪いとか、関心が持てるとか持てないとか反応することによって、受け取る側の人たちが自分の中の価値観や生き方みたいなものを更新するきっかけになりますから。大学という場が、そこで見たり触れたり聞いたりすることすべてによって、そこに来て学ぶ立場の人たちの人生が前に進んだと思えるようなきっかけをたくさん得られる場所になってくれればいいんじゃないかなと思っています。

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八王子山奥宮から下る険しい山道
(2020年)
向井知子
比叡山、滋賀県

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