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きわダイアローグ10 手嶋英貴×向井知子 7/7

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7. 機が熟すまで待つ

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向井:わたしがやっていることの表現の総称として、現代アートみたいなものと結びつけられることがありますが、わたし自身はあまりそうは考えていません。もともとが空間のデザインを学んでいたのもありますけれど、身体的に物事を感知したり理解したりするための装置を作っているという感覚があります。そのため、自分自身が「これを伝えたい」とか「これを理解してほしい」「このことを啓蒙しなきゃいけない」といった考えからつくっているわけではないんです。芸術みたいなものも、もともとは宗教と一緒で、思想的なところで物事をどう捉えるかの表象を助けている部分が大きかったでしょうし、近代以降は個人という考え方が出てきて、個の向き合い方、表現の仕方として出てきた部分があるため、「〇〇を伝える」というように、意味を持っていることが多いと思います。先ほど手嶋さんが「押し付けがましさ」とおっしゃっていましたけれど、そういうところが芸術にもあると思っています。
いろんな人たちと「ウェルビーイングとは何か」という話になるのですが、その人のウェルビーイングの見つけ方の回路が見つかればいいのではないかということも、きわプロジェクトの考え方の一端です。さまざまな感覚機能や価値観、感覚、知覚性をもった人たちにとってのウェルビーイングは、その人にしかわかりません。でも、なんとなくみんなが手を動かすことで、その人が何かを見つけたり、発露を持てたりするための方法を見つける糸口になるかもしれないといったことは大切だという気がしています。そこには、哲学的に深いとされているような問題も関わってくると思います。一方で、「わたし自身がそれについて伝えたい」と思っても、その人が自分で何かを、表現したり感じたり、思考して組み立てたりするきっかけになることしかできないんじゃないかと思うんです。このコロナ禍において、芸術をやっていないと生きていけないという人たちもいます。また、「芸術はコロナ禍において必要なものではないか」といった議論もされています。芸術は確かに文化の一端として大切ですが、それ以上にその人の生きやすさや捉えやすさといったところに大切さがあるのかなと思うのです。なので「こういった時代だから芸術が重要だ」という主張や「芸術で政治的な発言をしたり、問題を提示したりする」方法は大切なのですが、それが全てではないと思っています。

手嶋:わたしが思う芸術に共通する条件として、五感による感受を通じた表現と、それの受け取りみたいなことがイメージとしてあります。例えば文芸作品には、ちょっと洒落た表現や新鮮味を感じる言葉の表現がありますよね。それは、声に出して読むときの音の心地よさや面白さを頭の中で想起させるような言葉で書かれているということではないでしょうか。実際、発声器官で音に出したり、耳にしたときに感じることの平面的な複写のような形で、副次的に五感を使って、文字で表現をしたり、文字で受け取ったりしている。そういった感性的なものと無縁になったら、それは新聞記事のような単なる論説文になると思うんですよ。そのように、五感を通じて、自分にとって気持ちが良かったり、有意義だと思えたりする感受の活動が、芸術を求める人たちの共通の欲求としてあるのかなと。

向井:日本にいると、「今の現代芸術のトレンドは、こういうことを扱うのが正しいし、評価される」といった息苦しさや押し付けがましさを感じるんですよね。今の現代の問題、政治的な問題、社会的な問題、環境の問題……など、さまざまなことを考えて、たくさんの議論をして、それをアートの中で扱うことはとても大切だとわたしも思います。でも、アートみたいなもののあり方も時代の中で変わっているので、今あるものが常に正しいというわけではありません。今のそういう表現領域、芸術領域には、押し付けがましさや生きにくさみたいなものを感じます。

手嶋:芸術活動ではなくても、自然の中にキャンプしに行って、夜風に吹かれたり、満天の星を見たりというのも五感を通じた面白さ、喜びですよね。人間がつくり出す芸術とは異なりますが、自然との接触は、芸術を求める人間の側のニーズを少し違う形で、満たしたり、訴えかけたりするという共通性があるのではないでしょうか。都市人にとっては、自然に触れること自体が芸術体験の代替作用を持つようになってきているのではないかという気がしています。そういう意味で、芸術は都市の生活と呼応しながら生まれたり、発展したりするものなのかなと、個人的には想像しています。
音楽がや美術や文学といったものが、五感の感受を通じた一種のウェルビーイングを生み出すものとして発展してきたことはわかりますし、それは、これからも続くと思います。一方で、ほとんどの人が都市人になっている現代では、自然は非日常の存在になっています。そのため、現代は、自然に触れることで、五感で感じるウェルビーイングがある程度達成されるような環境になっています。そのため、オンラインで遠くにいながら人と対話ができるという環境が整えば整うほど、実際にその場所に行ってしか感じられない、肉体が移動していかないと生まれない感受の価値が高まってくるのではないかなと思うんですね。ネットワーク上では達成できない、人間の肌身を通じて感じるものや、感覚器官を通じて感じるもののニーズは、いろんな形で続いていくでしょうし、それが価値をもつ時代になるんじゃないかなと。

向井:それは、あるんじゃないかなと思います。現代では社会的問題を解決していくことと、感受の問題を扱っていくことが、乖離しているのかもしれません。かつては社会生活を送ることと、自然の恵みや自分の心の問題、感受に関わることは分け隔てなかったはずです。人々の多くが都市人になることで、問題が乖離し、非日常になったことで表面化してきたことがあると思います。きわプロジェクトでも、さまざまな感覚機能を扱うことと、社会の中での問題を、同じ土台に持っていきたいと考えています。
先ほど手嶋さんは大学でスキルを教えているとおっしゃっていましたが、学生さんたちが社会生活を送るための回路をつなぐファシリテーションをされているのではないでしょうか?

手嶋:自分が何を言いたいか、何を良しと思っているのかは、自分でもよくわかっていないのが普通なんです。それを、自分でわかったり納得したりするために、言葉で表現してみる。すると、ちょっと違うなあとか、書いているうちにしっくりいったなとわかるようになります。自分が言いたいことや考えたいことを見つける作業と、つながるところがあるんですね。自覚しているかどうかは別にして、人それぞれ、何がいいとか、何が気持ちいいとか、何が嬉しいといった方向性はあるはずです。それを、自分なりに言葉で整理して、わかるようになることの手助けをしている部分はあると思います。

向井:先ほど芸術という言葉を使ってしまいましたけれど、もっと大きく、「自分」を一人ひとりがつないでいけるための方法が、とても今大切になっているのかなとは思います。

手嶋:芸術の中には社会的なメッセージを発するという目的意識を持ったものもあるということですよね。

向井:きっとそうでしょうね。いわゆる芸術領域では、ストーリーのある構成を持ったものが良いとされています。けれど、わたしは、ストーリーは、発する側にあるのではなく、受け取る側に構築されればいいものだと思っています。

手嶋:芸術には、発する側の社会的なメッセージというか、「これをわかってほしい」「これを伝えたい」というメッセージを伝える道具としての表現もあるということでしょうか。

向井:はい、むしろ今はそれが強いと思います。環境や戦争、貧困、差別といった社会的問題が実世界に多いと、どうしても、そういったところを解決するために発するメッセージが必要になります。芸術の役割もそういう部分で大きく求められている部分があると思っています。頭での理解を促したり、衝撃を与えたりすることも、役割の一つではあると思いますが、その後、受け取る側の能動的な何かを引き出すことはとても難しい。受け取った側の自発的な思考や発言、行動が変わっているかというと、そうでもないんじゃないかなと。

手嶋:社会的にメッセージがあった場合、それを一番効率的に伝えるのは言葉としてわかりやすく表現して主張することだと思うんです。論説というか、オピニオンとして、言語によって思考を提示するということですね。ただそうやって言葉で伝えると、論争になったり、あるいは、イエス/ノー、受け取る/受け取らない、賛成する/賛成しないという形で決めないといけなかったりする。すぐに態度を決めさせる、ということが起きてしまうと思うんです。そういったメッセージをあえて芸術という方法をとる意味というのは、何かを伝えることはもちろんですが、少しの間忘れることも含めて、どう受け取るかを本人の中で熟成させるという意味合いがあるのかなという気がするのですが……。

向井:積極的にはそうだと思います。ただ、さっきも感受の問題でもありましたように、今人々には熟成させる時間がないのかもしれません。その場で何かを見て、社会的背景まで踏み込んで、論ずることを求められている。それは「解決」と結びついて、社会的に良くしていかなくてはならない、社会的に真剣に扱っていかなくてはいけないという危機感が、社会の中にあふれているからだと思うんです。そういう意味で、熟するとか、解決できることを最終目的にはしないということが、しにくくなっているかもしれません。

手嶋:芸術の中にも方便の姿勢みたいなものがあるのかなと思うんです。方便は、何かを考えられるように、本人の中で機が熟するのを促すみたいなことですから。

向井:方便の考え方にあるように、その人に落とし込んで熟すまで待っていられる時間、環境の持ち方っていうのが、今の社会ではものすごくしにくくなっているんじゃないかなと思いますね。

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