きわダイアローグ10 手嶋英貴×向井知子 3/7
3. 都市生活と内面の探求
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手嶋:インドでは、死んでもなお自分のアイデンティティは残ると考えます。苦悩を抱えたまま死んだ場合、霊魂としてのアイデンティティが残るから苦悩し続ける。だから、苦悩から逃れるためには、自殺は全く意味がありません。生きて、苦悩を滅するための修行をして、涅槃に到達することが大事なんです。そのためには、こういった修行の方法があって、それをもとに、ある考え方を理解して生きていく・修練していくのが大事だということを、体系的に考えて教えたのがお釈迦さまでした。それを弟子たちが広めていくにあたり、ある程度社会に浸透させなければなりません。でも、出家者は修行するために肉体を維持し、自分で生産活動をしないため、環境を整えるには「檀那」とよばれる支援者が必要です。支援者など、出家して修行する立場にない在家向けにも教えを説くなかで、「在家の人たちにも有意義なように」と、方便と位置付けられるものがどんどん充実していきます。それによって、一般的な神さまの信仰と結びつけた仏教の教義が生まれたりもしました。
向井:インドのもともとの宗教があったなか、ある時代にお釈迦さまが説いた法が、客観的に別の文明、文化から見たときに仏教という宗教として捉えられています。その前のインドはどういう感じだったのでしょうか。いわゆるインド学と言われているものは何ですか。
手嶋:インド学は、日本学や中国学と同じように、ある地域の研究をするひとまとまりを指す言葉ですから、インドの古代思想を近代的な学問として研究するものです。対象になっているもの自体は特にインド学とは言いません。もし言うとすれば、古代インドの宗教とか思想とか、文化になるでしょう。
古代インドでは梵我一如的な考え方が主流でした。そういう考え方があったなかで、梵のほうはあまり見ず、自分(我)のあり方を突き詰めて考えようとしたところから仏教が発展していったのでしょう。
向井:言語的にも「インド・ヨーロッパ語」というように、派生している言語、要は、頭の構造が似ているといえます。しかし、仏教では「すべては自分の認識の中にあり、アイデンティティは一つである」と考えるのに対し、西洋は完全に二元論ですよね。同じ言語体系の中で、ずいぶん違うものが生まれているような気がしているんです。手嶋さんが留学される以前から、ドイツでインド学が盛んだったと伺って驚いたのですが、言語的な派生が似ているから捉えやすかったのでしょうか。
手嶋:インド・ヨーロッパ語族といわれている言葉は、もとはおそらく同じ言語から派生した兄弟語なんですね。言葉には、つくった人たちの脳の個性もある程度反映されているとは思いますが、どちらかというと、言葉自体が思考の鋳型をつくっているようなところもあります。例えば、ある対象を表す言葉がなかったら、その対象を考えることは難しいですよね。何か新しいことを考えようとしたときに、新しい言語をつくらないといけないということも当然あって、言葉と思考はすごく本質的に結びついています。そういう意味では、インド・ヨーロッパ語族の人たちは、DNA的な親縁関係というより、同系の言葉を使って、言語・思考活動を行なっていることの影響力が大きいのではないかと思います。
西洋では、紀元後になってキリスト教が非常に浸透しました。そのため、キリスト教的な考え方が大きな影響を与えています。キリスト教自体はセム語族の宗教なので、インド・ヨーロッパ語族から出てきたものではありません。そのため、キリスト教と結びついたあとの西洋の考え方や世界観、人間観は、もともとは近かったインドの考え方から離れていったという面があると思います。特に一神教という考え方はそうでしょう。一神教が入ってくる前の、例えばローマやギリシャの宗教は、それこそインドと同じように多神教でした。祭祀という神さまへの供儀や供物、儀礼などで、神さまの行為を引き出して利益を得ることが日常生活の中で根付いてましたから、その頃は、インドもローマもギリシャも大きく変わらない世界観、人間観をもっていただろうと思います。
向井:思考的に一緒だった人たちが、ずいぶんと違う発展の仕方をしていますね。
手嶋:お互いに直接の関係はないのですが、紀元前の500年から300年にかけて、例えば孔子やソクラテス、プラトン、アリストテレス、それから、お釈迦さん、ジャイナ教の開祖のヴァルダマーナが現れました。多神教で、神さまに供物を捧げて利益を得たり、人が悩みや苦労を抱えていたら神様に解決をお願いしたりする日本の神道と近い感じの宗教みたいなものが中心だった世界に、宗教信仰から離れて、自分の内面を捉え直す運動が高まった時期が同じ頃に世界史のなかで現れました。カール・ヤスパースがその時期を「枢軸時代」と名づけています。小さな集団で生産や経済を行なっていた状況から、やがて都市が生まれ、そこを中心とする広域の経済圏が生まれたことと関係があるのではないかと近年言われています。農村的な暮らしが相対化されて、それ以外の生き方を考えたり求めたりする意欲があったため、思想家が登場したのではないかということですね。小さな村で生産活動を行なっていると、人が共同して密に関わって、農作業をしたり、自然災害に対応したりしないといけません。そうすると、人間がコントロールできない自然の動きにも左右されます。そこに神さまみたいなものを設定すると「嵐がひどくならないように」「洪水が治まるように」と、祭祀が発展していきやすいわけです。しかし都市が生まれると、みんなで協力しなくても、個人が自分の生き方を選択できるようになります。家族や親族から自立して、自分の考えに基づいた自由な考えができる領域が広がるのです。そういった都市を中心にした広域の経済がちょうどこの頃発展したことで、自分の内面を考える環境が整ったのではないかと考えられています。
今では都市に住んでいる人間のほうが多く、小さな村の中だけで自給自足の生産活動や経済を行い、毎日、家族や親族としか顔を合わせないという世界に住んでいるという人はほとんどいません。お釈迦さんたちの時代から見たら、みんなが都市人だといえます。
出家もある意味で都市的な生き方といえます。個人の志で出家者を支えるだけの経済的な活動をしている人たちがいる。インドで、庇護者になった人たちはだいたいが都市の活動をしている商人や王族です。そうやって経済活動をしている人たちが生まれたからこそ、仏教を含め多くの人が出家して、世間と隔絶して修行をすることができるようになったわけです。
向井:人間の生活圏や行動圏が広くなって、生活基盤を自分で整えなくても済む人たちが出てきたということですね。
手嶋:そうです。だから、家族や親族だけでがんじがらめになっているのは、それが当たり前の時代にしても息苦しいものなんです。そこから新しい個人として、自由な思想をもって生きる世界の領域が生まれたのが、紀元前500年から300年くらい。つまり、お釈迦さんも自由思想家の一人なわけです。そのときは、真新しかった都市世界が、今は世の中のスタンダードになっている。そのスタンダードの中で生きている、生まれながらの都市人がわたしたちで、その都市人たちはむしろ農村的な、人や自然との関わりというものに新しい生き方を求めるようになっています。そういう意味では、仏教などが生まれた枢軸の時代にスタートしたものが、行くところまで行っている段階にわたしたちがいるという捉え方もできるかなと思います。
向井:この先はどうなるのでしょうか。
手嶋:都市には基本的には自由がありますから、がんじがらめになっていた人たちからしたら、閉塞環境から広いところに出て、非常に気持ちの良い空間だろうと思います。しかしそこが自由だと捉えられるのは、がんじがらめにある環境がスタンダードだからこそです。都市が当たり前になると、むしろ孤独を感じる人のほうが多くなります。自由じゃないのが当たり前だった時代の仏教にとっては、孤独になるというのはものすごく贅沢なことでした。だから、孤独になって、関わりを絶って生きるというのは、お釈迦さんが教えを説いた当時のインドの人たちにとっては、憧れの世界にもなり得たわけです。現代は、時代も環境も当時と大きく変わりました。お釈迦さんと同じことを言っても、「それが幸せなのか?」と思う人のほうが多くなるのはしょうがないことだと思います。
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