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きわダイアローグ10 手嶋英貴×向井知子 1/7

1. 人間が中心の仏教

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向井:前回のきわダイアローグの際、手嶋さんは「仏教は人間が中心の宗教ですから」とおっしゃっていました。仏さまが、インドの自然と関連する神さまや日本の自然信仰とも関わっているせいか、仏教に対しても自然を扱っているような気がしていましたが、それは人間からの目線なのかなと思ったんです。それから以前「関係性のなかの自分」「現象世界の一部としての自分を認識する」というお話もされていましたよね。今、世界がこれだけ複雑になり、「自己がどうやって世界を捉えているのか」を考え直す機会が出てきました。手嶋さんは仏教、インド学、日本の自然宗教などの、重なりつつも少しずつずれていることを学ばれたなかで、複合的にどういうものの見方をされているのか、自分と世界の関係をどうお考えなのか、今回伺いたいと思っています。

手嶋:実は自然に対して、崇拝したり、親近性を感じて祭りをしたりといった自然信仰的なことは、基本的にインド発祥の仏教自体にはありません。自然の中で山岳修行をするなどの要素は、日本に入ってきて日本的な感覚と結びついた結果です。もともとの仏教では、外部の自然環境が考え方の中心にはありません。外部環境云々ではなく、「人の苦悩はなぜ生まれるのか」という探求から入っている。つまり、苦悩の解決をどうやって生み出すかが出発点なんです。
当時の仏教も含めた、インドの苦悩に対する解決策の探索というものは、自分の内面世界をどう変えていくかに主眼を置いていました。体を動かしたり、経験を多くしたりすればするほど、苦悩が生まれるリスクが大きい。とはいえ、何もしないでただ寝ていても頭の中で色々なことを考えてしまう。そこで、ヨーガや、日本的に言えば座禅みたいなことをやって、身体の調節機能を活かしながら、内面を静かにしていくことを考えていました。

向井:仏教の話をしていると、自然との関わりについて非常に話しにくいのはそれが原因なのかもしれません。

手嶋:そうですね。自然との関わりと、仏教の教義的な教えはあまり親和性がないですから。
「世界をどのように整理して、理解するか」を考えるとき、インドの仏教外の思想、たとえば「サーンキヤ」とよばれる哲学思想では、純質・暗質・激質という根源的要素があり、さらにそこから派生する地水火風空といった、いくつかの主要な元素の組み合わせで世界が成り立っていると考えます。人間の肉体や心理現象についても、物質的に構成されているものと根源的には同じです。いくつかの要素が組み合わさって、それらがさまざまな動きを生み出すことで心的な作用もあると考えるわけです。そのように、外部世界と自分の現象的なあり方を同じ要素に還元して考えるのが、サーンキヤの考え方です。それに対して、たとえば仏教の「唯識」という思想では、外部にあるものは自分の思考の産物であると考えます。かつて養老孟司さんが『唯脳論』という本で「外部世界はあるように見えているけれど、脳がつくり出していると言っても矛盾はない」といったことを述べていましたが、そういう考え方にかなり近いんです。要するに、「基本的には自分の内面がすべてであり、外部にも何かはあるかもしれないけれども、自分という認識主体がなかったら存在しないのと同じ」という、非常にラディカルな考え方です。日本は、仏教のそういった考えが入ってきても、あまりピンとこない文化圏だったのでしょう。自分の苦悩に対する解決策を一生懸命考えるという基本姿勢は維持しつつも、「それをどう解決するか」、そして、「解決するための理論として何を構築したか」について、おおかたの日本の仏教はほとんど受け継ぎませんでした。日本の仏教というのは、非常に「日本化」されており、理屈っぽかったり、観念的過ぎたりするものは根付かないんですね。
仏教では、「人間の本質は認識である」という構えがあって、そのうえで、どうすれば自分の苦悩や生きづらさを解決できるかを考える。もともとの仏教では自然と人間の間には区別がないんです。「自分と別である」という前提があるから「仲良くする」という発想が生まれうる。だから、苦悩を抱えているときに、人と交流したり、お互いの思いを聞き合ったりすることで解決していくという考え方はありません。むしろもともとは、人とはなるべく離れて、瞑想するという方向性です。

01_唯脳論
養老孟司
1998年、筑摩書房

向井:今「つながりましょう」みたいなことがしきりに言われているのとは、反対の方向性なんですね。

手嶋:そうです。おおもとの仏教では出家することが大前提にあり、通常の人間関係を断ち切るわけですね。そうして修行をすることでしか、内面に思考を修練させたり、苦悩を抑えたりすることができないからです。ただしそうした修練中心の生活は、同志の人と協力して営むことでうまくいくことも多いですから、僧団や僧院といった仕組みは発展していきました。日本でいえば禅寺の僧堂がそれにあたります。
こういうことを言うとお坊さんに怒られるかもしれないですが、もともとの仏教にはあんまり広い意味での社会性がなかったんです。社会の仕組みやその構成員である個人をどうしたらいいとかといったことに対して、積極的に考えることはないですから。ある意味ではドライだと思われるようなものから出発していると言えますね。

向井:仏教は、インド・ヨーロッパ語族の言語の性質に影響をうけているとお話しされていましたよね。具体的に仏教以外のインドの思想を、どういう考え方で、どうやって概念化・言語化していったのですか。

手嶋:基本的には一元論です。世界には人間も含め多様な現象が発生しているけれど、根源的にはもともと一つのものであったと考えます。亀も手足をひっこめたら、一個の丸い物になるというような例えがあるのですが、世界も派生しているけれどシューッともとの状態に収縮すれば、一つになるというような考え方です。この根源をブラフマンと呼んだりもします。つまり亀が甲羅だけで丸くなった状態が世界の根源であり、もともと名前も形状もなく、観念的な根源実在みたいなものだと考えます。個人の存在もブラフマンに吸収されるということです。これは、仏教外のインドの伝統思想では、ウパニシャッド *1などに出てくる考え方の一つである「梵我一如」という言葉で説明されています。そこでは、人間の思考といったものも、もともとは区別のない、観念的なアートマン(我)と呼ばれるものに還元されると考えられています。

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手嶋英貴、講演会『仏教が日本にもたらした「インド的世界観」』
DAAD友の会 2019年度総会 資料より

向井:ブラフマンとアートマンは何が違うんですか。

手嶋:ブラフマンは外在的な世界の根源実在、アートマンは人間存在の根源実在です。ただ、究極的には、世界の根源実在と人間存在の根源実在は同じであるという考え方をします。宇宙で例えるなら、ビックバンによって宇宙が発生して、さまざまな銀河系や惑星が生まれた。そのなかの世界で生き物が生まれて……と派生していきますが、もともとは混沌としたなんらかのもとだったわけですよね。それと同じように、かつてはすべてがブラフマンであり、それが派生しているだけだということです。
人間の根源実在であるアートマンには、瞑想やヨーガといった精神的な修練を通じて根源に到達することができると考えます。そのため、インドでは苦行やさまざまな修行が生まれました。悟りというのは、平たく言えば、根源的な状態に戻って区別がなくなる状態を指します。仏教は特に、個人存在を本来的な平静の状態、つまり「涅槃(ねはん)」に戻すことに関心を集中させているため、外在世界がいくつかにわかれていて、それがどうこう………という教義は、もともとはありません。ただ後代になると、仏教外の思想と結びついて、ブラフマン論を取り入れた考え方を導入するものも生まれてきます。密教などがそうですね。密教のお寺で法要の際、5つの元素(地水火風空)を表す五色幕をお堂にかけるのは、その考え方を取り入れているからだと言えるでしょう。
インドでは、ブラフマン的な根源実在からまずいくつかの元素が生まれて、それがまたさまざまな現象を生んで……という派生系統図みたいなものを想定します。それに対して、もともとの仏教では、自分というものに関心を向けていくので、基本的には自分と外の関係にあまり関心がありません。ところが仏教でも、唯識という学問では同じように派生想定図を考えました。唯識も色々と派生しているのですが、もともとには阿頼耶識(あらやしき)といわれる、区別のない認識の一番の根源的な状態になる。区別のない純粋な認識の根源みたいなものから全てが生まれているため、外にあると思っているものも、元をたどれば、自分の認識であるという考え方をします。自分のアイデンティティが認識であるという考え方は、ある意味で事実といっても矛盾はないんですね。

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*1 ウパニシャッド
古代インドにおいてサンスクリット語で書かれた哲学書の総称。紀元前500年頃から10世紀以後に記されたものなど、書かれた時代はさまざまであり、また内容も多岐にわたる。

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手嶋英貴(てしまひでき)
1967年東京生まれ、中学卒業後、比叡山で小僧生活を送りながら定時制高校を卒業し、駒澤大学仏教学部でインドの思想文化を学ぶ。東京大学大学院修士課程(インド文学・仏教学)を経てベルリン自由大学博士課程(インド文献学)を修了、Dr.phil.。現在、龍谷大学法学部教授。

向井知子(むかいともこ)
きわプロジェクト・クリエイティブディレクター、映像空間演出
日々の暮らしの延長上に、思索の空間づくりを展開。国内外の歴史文化的拠点での映像空間演出、美術館等の映像展示デザイン、舞台の映像制作等に従事。公共空間の演出に、東京国立博物館、谷中「柏湯通り」、防府天満宮、一の坂川(山口)、聖ゲルトゥルトゥ教会(ドイツ)他。

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