きわダイアローグ04 芹沢高志×向井知子 6/6
6. 完結してしまったら、ダイナミズムは終わる
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芹沢:小さい頃からインターネットを普通に使う、Z世代 *1 と呼ばれる人たちは、多様性、ダイバーシティ、インクルージョンといったことを、自分たちの普通のセンスとして持っていると思っています。今、アメリカでは、社会主義に好意を持つ若い子たちがものすごく増えているようです。分極化が極端なまでに進みつつありますよね。さらに一番エッセンシャルな人々の労働をどんどんロボット化・自動化しようという動きも進むでしょう。彼らの労働が機械に置き換えられ、機械打ちこわし運動的なものを含めて、取り返しのつかない形で対立してしまったら、どうにもならないですよね。いかにしてソフトランディングさせていくかを、政治家や、社会的センスのある研究者がどんどん提言していかないとやばいなと感じています。世界は今、人新世という新しい地質時代に突入しています。人の活動の痕跡が、地球表面を覆い尽くした年代という意味で、全くそうだろうと思います。『現代思想』の「コロナ時代を生きるための60冊」という特集で、松田法子 *2 さんが、ジェームズ・C・スコット *3 の、『反穀物の人類史』を挙げていました。これは、われわれが、農業という形で、ある種の植物を手なずけて食糧生産をしていくうえで、土壌との関係をずっと見てきた研究者の本なんですが、松田さんはこの本を軸に「ドムス、共構築の閾」という魅力的な論考を書かれていました。先ほども言いましたが、自分一人であるものを構築できたと考えること自体、そもそもナンセンス。いろんな要素が絡み合って、たまたまそういうふうなことができている。松田さんは、その姿を「共構築」という言葉を発明して説明したわけです。「構築」という考え方のなかには、そもそも他者性というか、他者の働きがあって、当たり前に一緒につくり出しているんだと再認識しなければならない。コ・エボリューションの訳として、昔は「相互進化」が当てられました。「相互」だと、二者から考え始められる。でもわたしとあなたという関係は、他のあなたとも成立しているし、それ以外の他の二人のあなた間でも成立している。そうするとやはり「共進化」という概念になる。「共構築」もいろいろな、ほとんど無数と言っていい参加者が、相互に関係し合い、構築し合っていくわけです。
「共構築」のイメージを説明するとき、僕はいつもマウリッツ・エッシャー *4 の『描く手』を例に出します。自分の手が、自分を描いているもう一つの手を描いているような循環的な論理。それぞれが相手をつくり出していく。自分がつくりだす他者が、同時に自分自身をつくりだしているという世界の見方が重要でしょう。巨大化したり、生産性を高めたりしようとして、全部を単一化して基準化していくと、一人相撲の世界ができていく。それによって、いろんな問題が起きているんじゃないかと思うんです。そもそも世界に生きるというのは面倒臭い話で、自分の思ったとおりに実現なんかできない。相手がいて、邪魔されたり、刺激されたりするなかで、状況がどんどん変わっていく。その変わった状況に対して、自分もちゃんとアンテナを張れていれば、自分も変わっていく。それが、この前話した、精神とランドスケープ的な意味でのフィードバックだと思います。自分が変われば環境も変わるし、環境が変われば自分も変わる。その環境というのは物理、化学的な要素だけでなく、無数の生き物も参加している。ウイルスのように生命と非生命の間にあるようなものもいる。そしてそのすべてが変わっていくなかで、自分もそれに反応して、変わり続けていく。自分のものの見方、姿勢の柔軟性を担保していかねばならない。若い世代はそのあたりが結構柔軟で、すごくいいなと思っています。直線・単線的な世界の見方で、考えていくと、同じことを言っていても、全然違う結論に行き着いてしまう。あるいはアプローチを大事にしないから、結論としては同じことを言っていても、そこまでの方法や順番、何を大事にしているかが全然違ってしまいます。結果となる指標は同じに見えても、世界の彩りが消えていく。少なくとも、そういう見方に立った僕から見ると、ものすごく、魅力のない世界に見えてしまいます。自分のほうだけが正しいかどうかはわからないけれど、この歳になると、自分はこうした生き方しかできないと図々しく言える。正しいかどうかは別として、単純で単線的な世界を前提に、そこに行こうと思うこと自体がなんかすごく嫌なことに思えるんですよね。それに対する反発とか、そうではないやり方を、より一層加速していきたいと今は思っています。
向井:そうなんですよね。きわプロジェクトでは、もちろん映像と音楽の空間もつくりたいんですが、それも断片の一つにすぎない。だから、今回も、本公演、ワークショップ、公開トークなどと銘打ってはいますが、ダイアローグも含めて全部がプロセスになっている。どこに向かうのかはわからないですが、その相互的な動きのなかに、何かが浮かび上がってくればいいなと思っています。
芹沢:最終目的地を設定して、そこに向かってガーッと無理してでも行く。それで完成した、完璧な作品っていうのはあまりにもそこに縛られている気がします。芸術に関しても、作品が命というか、どんな変なやつが描いていたとしても、この絵そのものが価値なんだという捉え方があります。もちろん生み出したアートワークは、すごく重要なものではあるけれど、それも一つでしかない。みんな、完成形や到達点をあまりに大事に思いすぎると思うんです。画家だってそうでしょうが、一枚描いて、それに対して嫌になってしまって、これをもっとこういうふうにしたいと考えたり、あるいはこんなのどうしようもない絵だとか罵詈雑言言われたり、それから、好きな女の人にものすごく素敵だとか言われて、いいかどうかを考えたり。とにかく巻き込まれて巻き込まれて、変わっていってしまうものだと思います。だから、僕は、別の違うものを生み出すプロジェクトが、やっぱりいいプロジェクトなんだと思います。そういうふうに転がって転がって、エボリューションして、一箇所に止まらない。でも、いつまでも転がっているだけでは疲れてしまうから、ときどき、こんなものができたと見せたらいい。作品として切り取って見せるなら、一番いいものにするという努力は惜しむべきではありません。でもそれって実は、ザーッと流れているなかで、瞬間的に生み出されたフィルムの1コマのようなもの、つまり、一断面ではないかなと思っています。それは別に終わりや完成形という話ではなく、生きている限り、作品ということを離れても、自分の生き方自体がアートと同じようなことだと考えればいい。立ち止まって見せたからといって、それが最終形でも何でもない。生きることは変わることに他ならないわけですから。変わるというのは、一方的に変われるわけではなくて、外部との無限の呼応によって起き続ける。そういうなかでアートと人生みたいなものが、僕のなかではものすごく一体に考えられるんですね。
向井:とても無責任な話ですけれど、芹沢さんもお話くださって、わたしも話して、お互いがお互いの言った言葉の何かに引きずられて、勝手に自分で妄想しているのが面白いんだと思います。完結していないのが面白いというか……。
芹沢:完結してしまったらそこでダイナミズムは終わるし、面白くない。文章としては読みやすくなるだろうけどね。
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*1 Z世代
ジェネレーションZとも言われ、スマートフォンやソーシャルメディアが存在する時代に生まれた世代を指す(1996年~2010年生まれを指すことが多い)。
*2 松田法子(まつだのりこ、1978年〜)
1978年生まれ、東京都出身の都市史・建築史研究者。都市と自然の歴史的な結びつきに関心をもち、近年は建築や集住体のフィールドワークや、地形・地質・水系・地域史などを複合した広域な地域の研究を行う。京都府立大学大学院 生命環境科学研究科准教授を務め、著書に『絵はがきの別府』『危機と都市』など。
*3 ジェームズ・C・スコット(James C. Scott、1936年〜)
アメリカ出身の政治学者、人類学者。全米芸術科学アカデミーのフェローであり、自宅で農業・養蜂も営む。東南アジアでのフィールドワークを通じて、地主や国家の権力への農民の日常的抵抗論を展開している。ほかの著書に『ゾミア――脱国家の世界史』など。
*4 マウリッツ・エッシャー(Maurits C. Escher、1898年〜1972年)
オランダ出身の画家。幾何学的なパターンから構成されたり、建築できない建築物が描かれたりといった「だまし絵」の手法を使った木版画やリトグラフの作品で知られる。
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