【アーティスト紹介】ディアナ・ガルデネイラ(エクアドル)
修論のテーマであるフェミニスト・アート・アクティビズムのために、エクアドルのアーティストとインタビューを行った。
アーティストの紹介
ディアナ・ガルデネイラ(Diana Gardeneira)との出会いは、私が大学院を始める前まで勤めていた現代アートギャラリーで行われたトークシリーズに彼女がゲスト・アーティストとして呼ばれた時だった。それからたまたま同じグループ展に参加していたり、交流が続いた。
エクアドルの港町グアイアキル出身の彼女は生まれ故郷と中米コスタ・リカを行き来して育ち、コスタ・リカのベリタス大学でグラフィックデザインを学ぶ。卒業後はグラフィックデザイナーとして広告代理店で働くが、その後エクアドルに帰国し、グアイアキルのUniversidades de las Artes(国立芸術大学)で美術を学び、2018年に卒業。La Gallina Malcriada(ラ・ガジーナ・マルクリアーダ)というフェミニスト・コレクティブのメンバーとしても活動。美術史から排除されてきたエクアドルの女性アーティストのことをリサーチしたり、外部参加者と一緒に地元の女性アーティストのアトリエ訪問など行っている。2019年にはセクハラをテーマにした絵画作品でグアイアキルの第60回サロン・デ・フリオで大賞を受賞。女性の大賞は彼女で7人目である。現在もグアイアキルを拠点に活動している。
今回は彼女が2017年に始めたプロジェクト「Yo sí te hago todo」(ヨ・シ・テ・アゴ・トド)に注目した。2011年の国勢調査によると、国内60.6%の女性が何らかのジェンダーバイオレンスや性暴力の被害に遭っているという統計がある。これをグアイアキルの人口に当てると772,772人の女性がなんらか暴力の被害に遭っていることになる。
被害者一人一人を表す772,772個の小さな2センチ角の布切れを安全ピンで大きな布につけるというシンプルなコンセプトではあるが、実際に取り掛かるとかなりの作業量。根気強く地道にやっても一人ではあまりに時間がかかることに気づき、だったら複数の女性とおしゃべりしながらやろうじゃないか、と思いついた。こうして、グループで集まり作品制作の共同作業が始まった。
このプロジェクトを中心に、アート、アクティビズムやコミュニティープロジェクトについて話をうかがった。
[文章に出てくる「マチスモ」の意味:ジェンダーを男と女の二元(バイナリー)に捉えて、さらに男性が女性より上だとし、女性を差別すること、そのような考え。男尊女卑。「マチスタ」は言動がマチスモな人のこと。]
(写真提供:ディアナ・ガルデネイラ)
インタビュー
Kiwama(以下、K):Yo sí te hago todoを思いつたきっかけはなんですか?
Diana(以下、D):フェミニストになるきっかけがまず、女性への暴力に関しての話を周りでたくさん聞くようになり、怒りが湧いてきたからです。どうなってるんだ!と思っていろいろ自分で調べるうちに、暴力がどれだけ社会に蔓延しているかに気付き、自分も過去に被害に遭っていることに気付きました。当時は自覚がなかっただけで。周りの友達と話しても、誰もがそんな経験をしていました。それは街中での知らない人からのセクハラ、先生や上司からのセクハラ、DV、性暴力と、様々な形があります。
そんな中ある統計を目にしました。それは2011年の国勢調査のものです。その統計によると、国内で60.6%の女性が暴力に遭ったことがあるという事実があるようです。それを見て、私は信じられませんでした。
この数字、低すぎる!
K:被害届を出せない人、声を上げられない人、ディアナさんも言ったように、被害の自覚がない人を考慮したら実際はもっといるはずですもんね。
D:そうです。だから私は自分でアンケート調査をしました。規模は小さく、200人程の回答を元にですが、そのアンケート結果では90%以上の女性が被害に遭ったと回答していました。でもそっちの方が現実に近い数字だと思います。こんなにも大勢の女性が日常的に暴力の被害に遭っていることを誰もが理解できるようにどうにかして表現したいと思いました。そこでおもいついたのがこのYo sí te hago todo。2011年の国勢調査の「60.6%」という数字を私の住むグアイアキルの人口で計算すると772,772人になります。その数字を視覚的に表すために、カーテンのような大きな布に772,772個の小さな色とりどりの1〜2センチ角の布切れを安全ピンで付けることにしました。数字だと実感が沸かないので、それを可視化して数字が何を意味するのか、人々が立ち止まって考え、理解する機会を与える作品を作ることが目的でした。
(撮影:Ana Cristina Vazquez)
K:作品のタイトル「Yo sí te hago todo」についてですが、これはストリートハラスメントの場面などでよく言われるフレーズだそうですね。なぜこのフレーズをタイトルに付けようと思ったのですか?(Yo sí te hago todo は訳すと「なんでもしてあげるよ」だが、性的な嫌がらせの意味で使われる)
D:さっき話した私の暴力調査アンケートにはいくつか質問がありましたが、その中の質問の一つは「ストリート・ハラスメントで言われた一番衝撃的な言葉はなんですか?」でした。その質問に対しての回答の一つが「Yo sí te hago todo」でした。信じられませんでした。あまりのひどさ、気持ち悪さ。骨の髄までそれが届きました。私も街に出るとしょっちゅう言葉のハラスメントを受けますが、こんなひどいことを言われたことはないです。
このフレーズは、聞いたり目にしたりして人を不快な気分にさせるものです。もしかしたら過激とも言えるかもしれません。でもこれが女性の生きる現実なんです。暴力の被害に遭うのは不快どころではありません。私たちは日常生活の中でこのような居心地悪い状況におかされています。だからその不快さをわかってもらうためにタイトルにしました。「これが現実だ」と。
K:一人で作るのは現実的ではないとお気づきになってから、どのようなプロセスを経てコミュニティー参加型プロジェクトへと変化したのですか?
D:このプロジェクトには3つのステージあります。始めた瞬間に、これは一人じゃ無理だ!って気づいて、友達や家族の協力を得ることにしました。それがステージ1です。そこで私たちは自分の経験をお互いに共有しました。最初は「特に話すようなエピソードはないかな」って感じでも、お互ちょっとづつ話をしたり、聞いているうちに「そういえば私もそんな経験あったかも」という感じにどんどん話が増えていきました。ある友達は姉が暴力的な彼氏との関係をなかなか断ち切れない話をしてくれたり、年配の女性は離婚できないまま夫からの暴力に耐えながら夫婦生活を送っていた話、また別の女性は、DV夫と離婚できて人生をやり直せた話をしてくれました。私たちはこうして時間と空間と経験を共有しながら小さい布切れを安全ピンで大きな一枚の布に付けていった。「大丈夫、あなたのお姉さんもきっと抜け出せる」と励まし合いながら。ここで私はこのプロジェクトの進め方を確信しました。
プロジェクトの規模を拡大させるため、また、必要な物を揃えるため、私はミニステリオ・デ・ラ・クルトゥーラ(エクアドルの文化庁)の助成金に応募して、まさかの展開でなんと1万ドルもらえました(公募の最上限額、ちなみにエクアドルの通貨は米ドル)。これで必要な資金が集まり、ステージ2が始まりました。
2018年に始動したステージ2では街中の広場などの公共空間と、文化センターや収容所など、決まった場所に作品を持って行ってそれぞれの場所にいる人たちにも参加してもらうという企画でした。街の広場だと、いろんな人がいて、参加者を女性に限定するのは難しいのでジェンダー問わず誰でも参加できる方式でした。私が当時通っていた美大のキャンパスのすぐ外の広場でやっていると、結構男子学生が寄ってくれたりしました。
広場でプロジェクトを展開していたある日、一人の男子学生が参加してくれました。彼は「僕も暴力に遭ったことがあるけどどうすればいいのかわからなくて何もできなかった」と言って、私が用意していた布切れではなく自分の着ていたパーカーの端を一部切って、安全ピンで大きな布に加えました。暴力の被害者は女性だけではないことを改めて実感しました。声を上げらない男性もたくさんいて、声をあげられない理由の中には「弱く見えるのは良くないから」というジェンダー規範も関係している場合もありますよね、きっと。
ステージ2では、10代の女の子が生活している収容所に行きました。彼女たちはみんなとても積極的に参加してくれて、作業しているうちにたくさんお話もしてくれました。彼女たちは麻薬の密売をさせられたりと、暴力と隣り合わせの過去を経験していました。ベネズエラ人の子も何人かいました。収容所の外に、小さな子供をおいてきた子も数名。帰り際には「材料を置いて行って!私たちで一枚全部完成させたい」とお願いされました。私は二枚分の材料をおいていき、後日取りに行くことにしました。彼女たちは約束通り、二枚とも完成させてくれました。そこには布切れをハートの形にしたり、同じく布切れで自分たちの子供の名前や「ベネズエラ」という言葉が散りばめられていました。
ミニステリオ(文化庁)の助成金の実施期間はステージ2で終わりましたが、その後、別の団体から小額の支援をいただき、2019年にステージ3も行いました。ステージ3では同じ収容所を含め、合計4ヵ所に行きました。また、支援のおかげでプロジェクトの短いドキュメンタリーも制作するこどができました。(英語字幕あり)
(撮影:Ana Cristian Vazquez)
K:参加者はみんな自分たちの感性をもって、作品を作り上げたんですね。参加型やコミュニティーアートって、アーティストの意思が全て通るわけではないですよね。また、一人の「天才」がアトリエで黙々と制作する、いわゆる一般的な「孤高なアーティスト」「芸術家」のイメージとは違いますね。
D:はい、こういう作品では、参加者が作品をある意味自分の作品として扱ってもいい、その権利があると思います。特に、このプロジェクトでは参加者にストレスを発散したり、表現してもらうことが目的ですから。私にとってアートは多くの人に参加してもらうある種のツールだとも思っています。話すのが難しいテーマと心身ともに繋がる方法でもあります。アートにはそういう繋がりを導くのに適しています。
K:アートとアクティビズムの関係はどのようにお考えですか?
D:フェミニストになってから、アートを通してフェミニズムを表現したいと思いました。私たちが日常的に経験している差別やマチスモの存在、また女性が様々な空間から排除され歴史に残されない事実をみんなで一緒に理解するにはアートとフェミニズムを組み合わせるしかない!って思ったからです。私はアーティストであり、フェミニストである。そのロジックから行くと、一番適している方法はアクティビズムだった。
アートはアクティビズムになります。一緒に考え方を変えたり、新しいことに気づいたりさせてくれます。アートはこのメッセージを届ける鍵でした。私にとってこの作品のメッセージは開放と自由です。
私にとってまず「気づくこと」が大切です。自分も、例えば暴力の現実に「気づく」ことがフェミニストになるきっかけになり、フェミニストになってからもたくさんのことに気づいてきました。ジェンダー差別のこと、暴力のこと。キリスト教の権力がエクアドルにどのような影響を与えてるのか。人種差別のこと。女性やジェンダーマイノリティーが意図的にこの国の歴史から排除されてきたこと。でもどれも簡単に説明できて一発で理解できたりすることではありません。そういう時にアートの力を感じます。作品(布)を作りながらだと、難しいとか、複雑だと思ってたことが格段と話しやすくなります。
安全ピンで布をつける行為がとても療法的であることに気付きました。知らないうちになんだか癒されていく。そして自然と話すことができる。アートセラピー的な要素があるのでしょうか。私はこの作品の癒し効果なんて全く考えていませんでした。だって、ただ小さい布切れを安全ピンでくっつけるだけのことだったから。でもその小さな行為には強い効果がありました。それはグループ全体に変化を及ぼすほどでした。
K:この癒しの要素もアクティビズムになると思いますか?
D:もちろんです。個人的なことは政治的なこと。だから私たちの言動は全て政治的な行為。それはアクティビズムになります。存在しているだけで何かを提起してる。女性は外を歩くだけで政治的な存在。そんな政治的な生き物が集まって、些細なことから暴力まで、日常的に悩まされてることについて語り合い、癒されるだけでもう変化は起きています。
(撮影:Alexandra Delgado)
K:この作品はプロセスと、仕上がった作品という二つの面があります。アクティビズムである面、プロセスが大事だと思いますが、アートである面、作品も重要かと思います。特に、この作品は統計の可視化が目的でもあったので、作品として残ることもにも意義を感じます。ディアナさんの中ではどのようにお考えですか?また、美学的要素(aesthetic)の重要性はどうお考えですか?
D:美学的な要素。そうですね、大事だと思います。少なくとも、この作品では、仰った様に、まず統計を可視化したいというコンセプトがあったので、作品としての魅力は大事でした。例えば、土台となる大きな布はそれぞれいろんな人間の肌の色をイメージして選びました。
K:なるほど、作品は「ジェンダー暴力」というとても身体的なテーマだけど、身体がモチーフとして現れていないと思っていたましたが、ちゃんと「身体」が表現されていますね。
D:はい。また、小さい布切れも、被害者の多様性を表すため、色とりどりにしました。本当は全部モザイクのようになるように想像していて、一枚の布の面積に小さな布切れは縦何個、横何個って計算したんですが、さっきも話したように、いろんな人が参加するとなると、そこまで細かく指導できませんし、参加者の主体性を否定してはこのようなプロジェクトは意味がありません。なので、自分の中にあったデザインは素早く手放して、あとは参加者に皆さんにお任せしました。そしたら自分が想像できなかった深みのある作品になりました。参加者が思い思いに表現できて良かったと思います。
プロセスと最終的に出来上がった作品、どっちが大事か選べと言われたら、私は「プロセス」だと思います。一番人々の変化を感じたのはそこですから。
しかし、この作品は、美術作品としてのインパクトも十分あると思います。2019年にアルゼンチンのビエンナーレ・スールで展示した時、とても理想的な環境と展示方法で見せることができました。理想的な状況が揃えば、この作品は全部合わせて縦2.5メートル、横はなんと10メートルになります。来場者には作品の説明を読んでいただき、その前に立ち止まって観る時に、暴力の現実を受け止めて、考え、少しでもその人の中で変化が起これば嬉しいです。些細なことでも。
でもやっぱり私は参加者と話をしながら制作するプロセスがこのプロジェクトでは一番思い出深いですね。
撮影:ビエンナーレ・スール 会場:セントロ・クルトゥラル・コルドバ 展示された布は合計25枚
K:ディアナさんは2019年のサロン・デ・フリオで大賞を受賞しましたね。おめでとうございます。以前ギャラリーでトークをなさった時、同じラ・ガジーナ・マルクリアーダのメンバーでご友人のロラさんが別のコンクール、サロン・デ・オクトゥブレに応募したものの、後から聞いた話だと審査員たちは彼女の作品を審査する際、梱包を全部取ることすらしなかったとお話ししていましたね。私たちが女性であるアーティストとして、制度、機関、組織、権威と向き合う方法、またどういう姿勢で関係に挑むべきだと思いますか?または女性やマイノリティーへの差別がない全く別の自律空間も作るか。ただ、そうなると、組織などとの関係を模索しながら別の空間を維持するという二重の労働が発生しますよね。女性はそうじゃなくてもジェンダーがゆえいろいろハードルがあるのに(賃金格差など)。
D:組織や権威との関係ですね。難しいですね。実は私、サロン・デ・フリオにはこれまでに6、7回応募しているんですよね。それでようやく昨年受賞。しかも今回受賞した作品はむしろ絶対受賞できないと思いながらの応募でした。
これは全く私の憶測ですが、今回受賞できたのは、選考委員会に私の作品をよく知る女性がいたからだと思います。ビッキー・バスティダスというアーティストなんですけど、その方が選考委員の一人でした。私が活動しているコレクティブ「ラ・ガジーナ・マルクリアーダ」の活動の一つが、外部参加者と一緒に地元の女性アーティストのアトリエ見学に行くことです。こうやって、たくさんの女性アーティストの活動を知り、「女性アーティストがそもそもいない」なんてふざけたことをアート界に言わせないために、彼女たちの活動を発信することが目的です。そのアトリエ見学で一度ビッキーのアトリエにお邪魔したこともあるんですよ。私が受賞したサロンは、第一段階の選考会があって、ビッキーはその中でたった一人の女性選考員でした。選考会の後にそれとは別に、大賞を決める最終審査会があります。私が受賞した時の審査委員会は全員男性でした。
もしかしたら、ビッキーがいて、選考会で私の作品を推してくれたから、次の審査会まで進めて、今回の受賞が可能になったのかな、って思ったりもします。もし選考会も男性委員ばかりだったら、、、私の作品を一眼見て「はい、次」って終わったかもしれません。ビッキーがプッシュしてくれたのかな、って、、、それでも最終的に決定権のある最終審査会は男性しかいなかったので、この作品が選ばれたことはやはり驚きですけどね。
だから、大変だけど、両方に力を注ぐのが必要なのかもしれません。ガジーナみたいな、組織や権威と関わりのない自律した活動は、完全にただ働きですし、すぐに成果が見れるわけでもありません。でも今回のビッキーのことみたいに、もしかしたらその活動があったから権威的なサロンで受賞できたのかもしれません。また、ビッキーみたいにもっと女性が選考委員会とか決定権がある立場にそもそもいたことも大事です。アート界の組織や権威はマイノリティーにとって全く公平な場所ではありません。それを変えるには時間と努力が必要ですが、達成するためにはもっと女性などマイノリティーが中から変えていくこと、また、組織の外でも自分たちの空間を作り、活動することが大事だと思います。
私は今回受賞したからと言って「サロン・デ・フリオ、最高!」ってサロンを称賛したりはしません。サロンが男性優位でマチスタな組織であることに変わりはないです。一回だけ、セクハラをテーマにした女性アーティストを大賞に選んだからってこれまでの男尊女卑の過去が許されるわけではありません。権威はうまく利用すればいいと思います。だからこの有名な賞をもらうことで得た注目を利用して、私はサロンに視線が向けられるように発言してきました。なんで何十年もの歴史があるサロンなのに女性受賞者数は一桁なんだ?サロンが誇るように、このコンクールは国内の美術史を刻んでいるなら、それはどんな歴史のつもりだ?それが受賞した私の責任だと思います。
第60回サロン・デ・フリオ受賞作
Cojuda, acepta mi halago (2019)
280 cm X 280 cm(8枚のパネル)
K:2017年にアメリカのハマー・ミュージアムで最初に開催され、その後ブルックリン・ミュージアムとブラジルのサンパウロ州立美術館ピナコテカへ巡回した展覧会「ラディカル・ウィメン:ラテンアメリカンアート1960〜1985年」はかなり注目を集めましたね。ラテンアメリカと北米チカーナアーティストの作品がのグループ展ですが、エクアドルのアーティストは一人もいなかったのは、非常に残念でしたね。実は、あの展覧会の2人のメインキュレーターたちはキュレーション調査のため、エクアドルを訪れているんですよね。二人とも来たのか、一人だったのかちょっと確信はないですが、とにかく来たんですよ。そこで、ここでは有名な美術史家でキュレーターのロドルフォ・クロンフレ(男性)と、国内で一番有名なコレクター(男性)に展覧会のコンセプトを説明し、それに合う女性アーティストを探していると相談したところ、二人とも「いない」と答えたらしいです。せめて「自分は知らない、詳しくない」と言えばいいところを。エクアドルの作家が展覧会にいなかったのはそれだけが原因とは言えませんが、あまりにひどい話ですよね。
D:そうだったんですか?!私も、なんでエクアドルの作家が一人もいないんだろうとは疑問に思っていましたが、まさかそんなことがあったとは、、、あのクロンフレ氏のことだから「僕がマチスタというわけじゃなくて、ただそういう女性作家がいないんだよ」みたなことを言ったんでしょうね。彼の中での「アーティスト像」に当てはまらない女性アーティストは、きっと頭の片隅にすら置いていないんだと思います。
K:彼がマチスタなのはみんな知っていますけどね(笑)この「ラディカル・ウィメン」の件は、クロンフレ氏のそういった発言ももちろん問題ですが、クロンフレ氏が(自分が認めた以外の)女性アーティストやフェミニスト ・アーティストなんてどうでもいいにしろ、最終的にはアメリカの国内外で高く評価された展覧会にエクアドルの作家の存在がなかったのは、結果的に彼のようなエクアドルのアート界のビッグプレーヤーにとってだって不都合なはずですよね。だから彼のような人はエクアドルの女性アーティストを「エクアドルの美術・芸術」として認識していないんだろうな、って私は思いました。また、もしかしたら彼はキュレーションのコンセプトを聞いた時にこの展覧会がまさかここまで評価され、巡回するとになるとは思っていなかったかもしれません。
D:私たちが(地元の)アート界に入れてもらえないのは私たちが何をやっているのかが理解されていないからですね。「共感」の欠如だと思います。そして、その多様な人間への共感の欠如は、歴史にその多様性が反映されてこなかったからです。例えば、もっと女性アーティストが美術界で取り上げられていれば、それだけいろんな経験が語られることになりますよね。黒人のアーティストとか、先住民のアーティストとか、地元のアートシーンでもっと多様な表現が見れれば、人々は観者として、人間として、もっと社会の全体像が見えてくるはずですよね。でもそれがないと、結局同じ白人系メスティソ、ヘテロ男性の視点や関心ごとが繰り返される悪循環に陥ってしまう。こんなにも大勢の人を歴史から排除していいわけない。
K:だから先ほどおっしゃったように、組織や権威の内側と外側、両方からプレッシャーをかけたり、システムを変えないといけませんね。できることはなんでもやる。今後の活動のご予定は?
D:実は今年、本当はアイスランドにアートレジデンシーに行くはずだったんです。でもコロナウィルスで、、、予定としては、Yo sí te hago todo をアイスランドでも展開するつもりでした。アイスランドって、いい話しか聞かないじゃないですか?なんかジェンダー暴力なんてなさそうな。でも調べてみるとアイスランドもそれなりにジェンダー暴力問題があるんです。だから現地に行って実態を調査しながらアイスランドの人たちにも大きな布を囲んで一緒に作業しながら話をしようと思ったのですが、どうなるんでしょうね。今年は無理ですが、来年行けそうだったら、行きたいと思います。
K:アイスランド、来年は行けるといいですね。ディアナさん、今日はお付き合いいただきありがとうございます。これからも応援しています。
D:こちらこそ修論に入れてくれてありがとうございます。私たちの歴史は私たちで書かないといけませんね。グアイアキルに来る時はいつでも声をかけてください。
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