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【アーティスト紹介】アンドレア・サンブラノ=ロハス(エクアドル)
修論のテーマであるフェミニスト・アート・アクティビズムのために、エクアドルのアーティストとインタビューを行った。
アーティストと活動内容
アンドレア・サンブラノ=ロハス(Andrea Zambrano Rojas)との出会いは2016年夏、私が初めてエクアドルを訪れた時だった。その後エクアドルに移住してからも仲良くしていて、お世話にもなっている大事な友達であると同時に、とても尊敬するアーティストである。エクアドルのキト出身の彼女はメキシコのグアダラハラ大学で美術を学び、FLACSOエクアドル大学(ラテンアメリカ社会学科大学エクアドル校)でジェンダー学を学ぶ(修士)。ムヘレス・デ・フレンテ(Mujeres de Frente)というフェミニストコレクティブのメンバーでもあり、環境問題やフェミニズムに関するアクティビストとしても活動している。不定期のフェミニストマガジン、Flor de Guanto(グアントの花)の制作・編集も行っている。今回は彼女が2011年に行ったプロジェクト「Calzones Parlantes」(発音:カルソネス・パルランテス、意訳:声をあげるパンツ)を中心にフェミニスト・アート・アクティヴィズムの実践を見ていく。
Calzones Parlantesは彼女がラ・ベネシア(La Venecia) という地域の女性たちの参加を得て行ったプロジェクトである。作家と女性たちは定期的に集まって、「個人的なことは政治的なこと」を体現すべく、隠しがちなことをオープンに、ジェンダー暴力について話しながらパンツに刺繍や装飾を施すワークショップを開催した。
長年エクアドルでアートとアクティビズムに携わってきた彼女に今回はたくさんお話を聞かせてもらった。
(写真提供:アンドレア・サンブラノ=ロハス)
インタビュー
Kiwama(以下 K ):「カルソネス・パルランテス」を始めたきっかけはなんですか?
Andrea(以下 A ):当時キトの南部のフェロヴィアリアという地区で子供向けのアートワークショップを開催していました。他にも近くのエリアでワークショップをできないか探るため、フェロヴェアリアの近くの「ラ・ベネシア」という地区に行ってみました。そこで、ある公共の洗濯場に出会いました。そこは地域住民が洗濯しに来る場所で、今でも利用されています。主に家に洗濯機のない住民はそこに洗濯物を持ってきて手洗いします。実際利用しているのはほぼ女性ですけどね。それを見たとき、「絶対この洗濯場で何かしたい」と強く惹かれました。
ラ・ベネシアの洗濯場と出会った直後、アル・スーリッチ(*)がコミュニティーアートプロジェクトを募集していたのを見つけました。採択された企画は小額の経済援助とサポートが与えられる内容でした。私はあの洗濯場で地域の女性たちとアートプロジェクトをするという企画で応募し、採択されました。
与えられた実施期間は3ヶ月だったので、急いでチラシを作り、参加者を募りました。また、洗濯場に通い、女性たちの家事の手伝いをしたり、話たりもしました。そうこうしている間に参加者が集まり、ワークショップを開始しました。人数は定期的に参加する15人と不定期で参加する女性で合計50人程でした。
(*アル・スーリッチ:キトで活動するコレクティブ「トランビア・セロ」が主宰する、コミュニティーとアートをテーマにした地元の芸術祭。名前はスペイン語で「南へ」という言葉と掛けていて、キトの南部地域のコミュニティーと一緒にアートを展開することが主旨である。キトは東西を山と谷に挟まれて、地形的に細長くしか街は広がれないので、旧市街を境目に街が「北」と「南」に分かれている。昔ほど極端ではないが、今でも、北はどちらかというと中流階級層より上が生活し、南は労働者階級の生活圏というイメージが定着している。)
K:ワークショップではどんなことをしましたか?
A:最初から、パンツを使って女性たちに作品を制作してもらうという目的はありましたが、それがこのプロジェクトの全てというわけではありません。ワークショップは何より彼女たちが自分たちについてたっぷり考えたりできる「自分の時間と空間」を提供することが大事でした。自己発見とでも言えるかもしれません。女性たちは日々の生活の中で自分に注ぐ時間がほとんどありません。家事、育児、仕事、介護、コミュニティーのケア。そんな中、このワークショップでは女性たちが自分たちの精神衛生、娯楽、創作のための空間であることが目的でした。
一緒に軽い体操やストレッチをしたり、楽しいことをしたり、笑ったり。喋るための時間も設けました。その後に制作の時間がありました。全部が同じ日に行われるわけではありません。パンツの制作はもっとあとになってからでした。
パンツを使った作品制作は私が用意した道具や画材などを使用していただきました。刺繍用の針と糸、口紅、布用絵具、スパンコール、ビーズ、安全ピン、布用マーカーなど。それらを使って女性たちには好きにパンツをデコレーションしていただきました。
なぜパンツかというと、下着は個人的なものだから。フェミニズムには「個人的なことは政治的なこと」という信条があります。それを象徴するためにパンツをモチーフにしました。パンツは普段隠されているもの。それと一緒に隠されているのは記憶、暴力、沈黙、言葉、愛、セックス、不満などたくさんのこと。隠していることを表に出そう、声を上げようという意味が込められています。
写真の右側に見えるのが洗濯場
撮影:Nina Velasco
K:このプロジェクトのテーマを暴力にするというのは、初めから決めていたことですか?
A:はい、初めから決めていましたが、暴力をテーマとして「選んだ」というか、目の前にそれがあった、という感じでしょうか。アーティストがすることってちょっとそんな感じですかね。目の前にあるもの、事実を受け止める。そして、それを「アート」という方法で表現する。
私の前には洗濯場があった。それで何かしたかった。女性たちと何か作り上げたかった。そして「暴力」はいつも私たちの生活に在るもの。私たちの個別の既得権や経済状況などによって暴力が生活の中で現れる形に違いはあるけど、暴力とはいつも隣り合わせ。悲しいことですが、私たち女性は暴力や抑圧によってある意味、共感したり繋がることができるんです。だからフェミニストの作品には暴力がテーマとして頻繁に現れます。特にラテン・アメリカは植民地支配の歴史もあり、本当に暴力の存在が強いですから。だから女性たちも参加できたのだと思います。内容が、彼女たちからしてみて「別世界」のことではなかったから。
暴力について語り合うのは簡単なことではありません。だからまず私が自分の経験を語ることから始めました。相手が自分に近づけられるための道を開くことが大事です。だから信頼関係のある友情に発展したと思っています。
辛い経験や個人的なことをお互いに共有していくのは実はとても癒される行為です。初めてその経験を語る人も多かったです。そして二回、三回、四回と参加して、暴力の経験や負った傷を語り合っていると、心身ともにそれを消化することができる場合もありますし、自分一人の体験ではないことに気づけます。もちろん、体験自体は一人で経験されたものですが、他の人にも同じ、または似たようなことがあったと知ることで、これは集団的なことであることに気づけます。自分の所為(せい)じゃない、構造の問題である。私たちは一人じゃない。だから、「カルソネス・パルランテス」ーー声をあげるパンツーーはうまく機能したのだと思います。とてもデリケートで個人的なことだけど、そこでこそフェミニズムに直結するんです:個人的なことは政治的なこと。
K:出来上がったパンツ作品さくはワークショップ期間の最後に同じ洗濯場で展示して、ご近所さんやコミュニティーを招いて展覧会パーティーを開催したそうですね。
A:はい、洗濯場には個別の洗い場が複数あるので、一個一個に参加者の写真を飾りました。パンツは上から飾りました。みんなで食事や飲み物を用意して、とても楽しい時間でした。女性たちも、自分たちの作品を展示できてとても満足していましたし、何より自分の作品を誇りに思っていたことに私はとても喜びを感じました。
K:そして2018年にはアル・スーリッチのがキトのセントロ・デ・アルテ・コンテンポラネオ(Centro de Arte Contemporáneo、通称CAC。現代アートセンター)で開催した過去15年のプロジェクトを集めた展覧会でも、カルソネスを展示しましたね。
A:はい。だから、もうある意味この作品は完結したかな、と思います。パンツ作品も、現代アートセンターでの展示のためにいただいた展示準備予算で一枚一枚額縁に入れることができたので、私が今後も保管せず、それぞれの女性たちに返そうとも思います。
K:プロジェクトを企画、実施した作家が最終的には「作品」を所持しないことになりますね(また、参加者へ返還はコレクターが作品を所持するのとも違います)。そこでお伺いしたいのですが、このような参加型アートプロジェクトの場合、過程(プロセス)が重要ですが、作家としてこのような「アート」についてどうお考えですか?またプロセスと作品のどちらが重要だと思いますか?
A:私にとって、女性たちがこの経験をできたことで、カルソネスの作品としての役割を果たしたと考えています。私にとって重要だったのは、彼女たちがアート制作と自己発見の関係を実感し、自分たちの要求を表現できて声をあげられることでした。
もしプロセスと作品とどっちが重要か選ぶとしたら、、、プロセスですね。作品があったとしても、プロセスがなければ作品の意味や意義を実証できませんから。逆に、参加型アートやコミュニティープロジェクトとか関係性の美学とかはプロセスを経て作品がなくても、プロセスで得た経験の価値は減ったり変わったりしません。
K:アーティストが作品を所持せず、プロセスや参加が重視される場合、「作者」「作家」の概念が覆されますね。アートには欠かせない「著作者」の概念についてどう思いますか?
A:実はアル・スーリッチの関連企画としてこのプロジェクトを終了した後に、フンダシオン・ムセオス(Fundación Museos:キト市内の公共文化関連施設を取りまとめている政府団体)の「メディアシオン・コムニタリア」という取組の一環として、ラ・ベネシアの同じコミュニティーで再度プロジェクトを行ったんです。その時、フンダシオンの広報は、このプロジェクトをメデイアシオン・コムニタリアの企画として発信していたので、そこで私はブログを開設し、そこにこのプロジェクトが2011年にアル・スーリッチの関連企画として始まったこと、企画の構想主、「著作者」は私であること、写真など投縞しました。
でもそれは私に注目を集めたいとかではなく、この時、権威や制度によるプロジェクトの吸収、資本化が見えたからです。ブログでは、私の名前だけではなく、手伝ってくれた友人のニーナや、参加してくれた女性たち全員の名前を書きました。誰のアイディアだったか、誰が記録係だったか、誰がパンツの制作をしたか、、、全部大事なので、役割のヒエラルキーをなくさなければなりません。
例えばニーナはこのプロジェクトに必要不可欠な存在でした。彼女は教育の専門家で、私が女性たちとゆっくりワークショップを進められるように、女性たちの子供たちの面倒を見てくれました。女性を主体とした企画には必ず託児所が必要になります。だからニーナがキッズ・スペースを担当してくれなければ女性たちは参加できなかったでしょう。キッズ・スペースのおかげで女性たちは安心して、自由に羽を伸ばして参加できました。
もちろん、ワークショップに参加し、パンツを制作してくださった女性一人一人も「作家」としてしっかり認知すべきでしょう。だって厳密に言うと、私は「作品の制作」には直接関わっていないのですから。現代アートセンターでの展覧会でも、女性たち全員を「アーティスト」として名前を表示しました。
それぞれの功労を認知することは、女性として、フェミニストとして大事なことだと思います。共同制作ならなおさら。そうしなければ女性たちはまたもや忘却へ消え去ってしまいます。象徴的、社会的資本を積み上げられずにいます。だから私はどんどん名前を表に出すこと、できるだけ多くの人の貢献を認知することが大事だと思います。そうじゃなくてもこういうプロジェクトは本人に経済的な利益なないので、存在が認知されるのは最低限のことだと思います。私はどんな参加者でも、作品に関わったなら認知していかなければいけないと毎度強く確信しています。
K:どんどん名前を出して、いろんな人を認知することで一人の作家が上に立つヒエラルキーをなくす。素晴らしい考えだと思います。天才が一人で黙々とたった一つの作品を制作するというアーティストのイメージと対抗しますね。
A:まだ考えはまとまっていませんが、フェミニズム的倫理があると思います。ムヘレス・デ・フレンテで活動していてとても実感するのは、代弁ではなく、他の女性が自分の声を見つけて、発言できるように寄り添ったり手伝ったりすることの大切さです。そこではフェミニストアーティストとして重要な役割を果たせると思います。もしかしたら「偉大なアーティスト」になる道ではないかもしれない。でも自分がやっていることの価値を自分で発見する大切さがあります。自分がやっていることが好きであること。
だって、女性たちだって自分たちが作ったパンツ作品をとても気にっていました。出来上がった自分の作品を見て「これすごく好き」と言っていました。そういう対話を生み出すための役割を果たせることは大切なことだと思います。他の女性が自分の声を見つけ、自分の言葉で語るための手助けや環境を整えること。
そういう意味では私たちは美術館で発表するための作品を作っているわけではありません。「作品」の完成が目標ではないし、この場合、プロジェクトの意義はプロセス自体でもありません。もちろんそれも大事という話はさっきしましたが。私たちが目指すのは人間としての開放だと思います。自分が人間であることを確かめること。いろんなことができて、頼れる仲間がいること。人間であることを実感できること。
K:公共空間でのワークショップや展示の経験についてお話しいただけますか?公共空間を使用することで感じたこと、ご感想など。
A:先ほどちょっと話した、フンダシオンのバックアップで開催された第二弾ですが、その時私は前回参加した女性たちと連絡を取り、第二弾をするからまた一緒に制作しようと誘いました。その際、二人以外は第二弾のために戻ってきてくれました。戻ってこなかった二人に話を聞いてみたら、コミュニティーの一部から言われた言葉を気にしていたようです。例えば「あー、あなたあの、脱がれたパンツの」みたいなことを街中で言われたらしいです。特に攻撃的というわけではありませんが、軽蔑的で事実を曲げた言い方ですよね。驚きではないですが。女性が社会や自分たちのコミュニティーで起きている暴力について声をあげると、それを抑制しようとする力が働く。彼女たちも「そんな大したことではないんだけどね...」と言っていましたが、そういう差別に遭ったので第二弾には参加しませんでした。参加してくださった女性たちもそのようなことがあったと言っていました。近所の人の中には自分たちがカルソネス・パルランテスに参加した女性だと後ろ指を差す人もいたらしいです。
もう少し大きなスケールで考えると、国家や市場(しじょう)はそもそも人々が集まることを恐れています。歴史的に見ると、特に女性が集まることを阻止したり妨害してきました。一つの方法は女性を「家庭」をという「私的」な空間に社会的に閉じ込めることです。それで黙らせてきました。だから私たち女性が洗濯場で洗濯物を洗うという指定された仕事ではなく、女性が考え、共有し、声をあげ、開放されるために利用し、その場所を変化させることは重要だったと思います。
K:リタ・セガートの公共圏とジェンダーについての論考(過去note記事)を思い出しますね。私が怒りを感じるのは、からかったりする方も、どこかでわかっているんですよね、さじ加減を。女性たちは襲われたり、身体的に傷つけられたわけじゃない。言われた方は「ちょっと嫌なことを言われただけでやめるなんて」ってむしろ自分を恥ずかしく思ったり責めたりするかもしれません。でもそれが狙いなんですよね。言う方はそうやって、自分たちには返ってこない程度に、女性が声をあげるのをやめさせるちょうどいい具合の言葉を放つ。家父長制にとって不都合な女性はそうやって生きづらいように抑制される。
アンドレアさんにとって、アクティビズム、及びアートアクティビズムとは何ですか?ソーシャリーエンゲージドアートとの違いはあると思いますか?
A:ソーシャリーエンゲージドアートがなんなのかいまいちわかりませんが、私は自分の実践を説明する時は「アクティビズト」という言葉を使います。それには政治的な姿勢を意味するのかと思います。自分がどのような姿勢で行っているのかを参加者や協力者が理解できること。私の作品は資本主義、家父長制、植民地主義やネオ植民地支配などに対して批判的な姿勢をとっていると言えます。権力と権威にのヒエラルキーに基づく関係性に対して批判的で政治的な姿勢があります。また、方法論にも関わると思います。それは、どういうやり方でどういう関係性を構築していきながら作品やプロジェクトを完成させていくか。
アートとアクティビズムは私が選んだ道でもありますが、やらなければいけなかったという面もあります。このコロナ禍で改めて実感したことは、私たちは一人では生きていけないことです。生きていくには支え合っていかなければならない。支え合わずには生きていけない。
だから私にとって、アクティビズムは共同体として生きていくことと関係しています。
現代アートセンターでの展示の様子
K:アート・アクティビズムへの批判というか自問でもあるんですが、なんでわざわざ「アート」を通して活動するのかと聞かれたらどう答えますか?「なんでもっと『役に立つ』方法でしないんだ?」という疑問も向けられますよね。
A:社会科学の分野で未だに理解されていないと感じるのが象徴的(または表象的)な領域の重要さだと思います。身体やパフォーマンス、視感についての研究は少しづつされていて、そこからアートの大切さが少し議論されていますが、「客観的」というとやはり「言葉(言語)」や書き言葉に重きが置かれます。でも「言葉」は最も覇権によって支配されている物ではないしょうか。私たちはもっと自分たちの先住民のルーツやアビャ・ヤラ(*)の起源を基に表現したいと思ったら、植民地支配されていない分野から攻めるしかありません。それは例えば音や身体性などの表現方法。そこからアートの価値を確かめることができると思います。
(*アビャ・ヤラ:スペインなどヨーロッパからの征服者が大陸を「アメリカ大陸」と名付ける前から南米の先住民の間でこの地を表すために使われていた言葉。)
ムヘレス・デ・フレンテでの活動をしている時も、この「役に立つ」という概念といつも個人的にぶつかっています。ムヘレスでは今、食糧などの物資提供をしたり、健康面の支援をしたりしています。それは誰が見ても「役に立つ」働きでしょう。私もその活動の大切さは理解していますし、もちろん否定などしません。私だって日々そのために努力してるのですから。
でも自分の声を見つけることも大事です。
アートアクティビズムやアクティビズムに関わるアーティストは「アート」の価値を常に確かめていて、別の環境や分野で活動している人たちにもそれがわかるように示してると思います。私たちが戦っているのは日々の糧、健康、教育のためだけではない。これは象徴的なことを含め、どうやってそれを求めるか、なぜ求めるのかを理解するための戦いなのです。
だから、アートは役に立つし、私たちにとって必要な物だと思います。
私も昔はアートって必要なのか悩んだことがあります。だって、食べることとか健康であることの方が優先順位が高いですし。でもアートってその「健康維持」に必要ですよね。健康って、周りと十分な関係性を保ったり、一緒に生活している人たちといて喜びを感じられることも含まれていると思います。アートはコミュニケーションを可能にします。要求を表現することができます。だからアートは必要だと思います。まだ自分でも考えはまとまっていませんが、ボリビアのアイマラ族の学者シルビア・リベラ=クシカンキ、メキシコのアート・アクティビストのロレナ・ウルファーやモニカ・メイヤーなどもそういう話をしています。彼女たちはエリートたちが嗜むアートの話をしているのではありません。生きていくために一緒に闘うこと、そして自分たちがやっていることを見せたり発表するんだ、と話しています。だからアートアクティビズムは役に立つし、必要だと思います。うまく説明はできないですが、やっぱり大事だと毎回強く確信しています。
K:アート・アクティビズムの効果は数字などでは測れない価値がありますね。
A:はい。それに、「成功」「失敗」と言う枠組みで考えたくもありません。そういう西洋的な二分化ーー「身体/魂(または精神)」「客観的/主観的」「成功/失敗」ーーは、研究とかには一応役立つのかもしれませんが、実生活とはかけ離れている考え方だと思います。
アクティビズムやこうしたアート活動の効果に繋がる話ですが、パフォーマンスアートについて少し触れたいと思います。
私はジェンダーとパフォーマンスアートについて修論を書きました。その中で考えていたのは、個々の身体、社会的身体、共同体としての身体についてです。個々で構成された一つの大きなもの。
パフォーマンスは物質的な、有形な作品としては残りません。パフォーマンスが終わったらそれが存在した証拠は消えます(記録用の写真や映像は別として)。唯一、観た者一人一人の主観性(subjectivity)の中に残るのです。私はそれが良さだと思います。パフォーマンスはそれを目撃して、経験した人の時間と主観性に残る。そこに宿る。資本主義はモノの交換をしたり、蓄積して富を増やすために、「物質性」に価値を置きます。でもパフォーマンスはその仕組みから逃れることができ、尚且つ人の主観性の中に残ることができる。主観性は誰にも奪われることはありません。美術館に作品を残すという方法もありますが、「カルソネス・パルランテス」は経験として女性たちの中に残ること、私の中に残ること、集団の意識に残ることが大事だと思います。なんでそれに価値があるのかというと、例えばその後ストライキがなんかがある時、そこでみんなで食事を作る時、すでに共有している「コミュニティー意識」があるから。コミュニティーとして機能するための参考になる経験、感情、知識がみんなの意識の中にすでに存在するから。
K:アクティビズムは何か社会的、または政治的な「変化」を求めて行う活動ですが、アンドレアさんは「変化」をどう定義しますか?集団的な主観性や意識という考えと繋がりそうですが。
A:そうですね。例えば、資本主義を変えることはちょっと難しいというか、大きすぎてどこから始めればって気が遠くなりますが、私のコミュニティーや周りにいる女性、私の友達や家族、そして私自身を変えることはできると思います。それだけでかなりの変化です。尊いと思います。
周りにいるフェミニスト・アーティスト同士で話し合ったり、いろんなことを一緒にやったり、モノを書いたり、展覧会をしたり、社会の中で少しづつ亀裂を作ることが大事です。
ほんの小さな亀裂かもしれません。でもそんな小さな亀裂が女性の人生を大きく導くのです。ムヘレス・デ・フレンテは最初15人のネットワークでしたが、今は女性60人以上のネットワークに広がりました。それでも世界の人口に比べたら全然大した人数ではないですが、一人一人の人生を考えるととても大きく、大変価値があります。私たちは自分の人生やコミュニティーで変化を起こせれば、もうそれは大きなことです。それでその世界は変わっているんです。だって、人間一人、それはもう一つの世界です。
だからそれをしっかり認知することも大事だと思います。「私たち、ちゃんとやれてる」と。
K:人一人はもう、一つの世界。先日ディアナさんとインタビューした時、彼女も同じようなことをおっしゃっていました。小さい行為でももう変化は起こっている、と。アクティビズムって聞くと、なんかたくさんの人を巻き込んだ大きな行動や社会運動をイメージしますが、人一人が変わることの大きさというのもありますね。最後に何かお考えのことはありますか?
A:このインタビューのどこかで「Potencia(ポテンシア)」という言葉が出てきて、気になっていました。
(Potencia:何かを実施する、または成し遂げる力。効力。)
ポテンシアって、元々は物理用語ですよね。例えばゴムを引っ張って離す時の力。それで何かを飛ばすことができる。張力で生まれる緊張感がポテンシア。
コレクティブ、共同体として何かを一緒にすることにはポテンシアがある。それは、みんなそれぞれ違うのでたくさんの張力や緊張感があること。いろんな立ち位置があって、いろんな思想や主義がある。全体で共有されていることがあれば、各自で異なるものもある。それぞれ違うし、不均等であるかもしれないけどそれでも一緒に何かしようと思って、目的に向かうこと。
フェミニスト・アートやコレクティブとして何かをすることのポテンシアはまさにこの多様性だと思います。多様で均質ではないと、たくさんの緊張感が生まれますが、これによってインパクトも大きくなります。みんな違う場所からきているので、結果もそれだけ広範囲に渡るのです。いろんな「言語」で対話しているならーー例えば技術者、大工、画家、社会学者ーー共通言語がないだけに、緊張感が生まれますが、それはポテンシアを生みます。だから自らをその多様性と不均等の中に放り込み、もっと効力を生むためにも緊張感を恐れず、やりたいことがもっと力強いものになるために一緒に行動するのです。
アートはその緊張を生むためのゴムではないでしょうか。なぜならいろんな分野の人が集まってできることだから。必ずしも均等だったり平等だったりはしない、いろんなバックグラウンドやアイデンティティーの人を集めることができます。それがアートの「ポテンシア」だと私は思っています。
K:「多様性」というと、いろんな人がみんな和気あいあいと、という漠然としたイメージが浮かぶ人も多いと思いますが、実際多様な人が集まると、確かに緊張感がむしろ先に生まれますよね。でもそれを原動力や強みに変えるためのアートですね。
アンドレアさん、本日はお忙しい中ありがとうございました。