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小3で発達グレーと診断された娘の現在(中3)

2022年からフリーランスで事務職をスタートし、さらに2023年からは音叉でのカウンセリングを始めたわたし。自身の人生も転換期を迎えていましたが、子育ての話もわりと濃かったのでまとめてみました。


1.小学校の行き渋りからの発達検査

忘れもしません。我が家の娘は小3年の春ごろから行き渋りが始まりました。
それまで勉強は苦手そうだったものの、取り組んでいた娘でしたがとうとう限界が来たようでした。
小さい時から親の言うことがほとんど頭に入らず、自分のやりたいことに猛進する姿を見て、何かうちの子は違うなと感じていました。
元気で誰とでも話せる子という印象は明るいものでしたが、身内だけがわかるくらいの特性を持っている子でした。例えば、人との距離感がわからなかったりこだわりが強い。自分の話したいことばかり話す。急な予定変更などが受け入れられず、説得に何時間もかかる。偏食気味。
小学校に上がるにあたり、わたしのなかでは娘は公立で大人しく収まる子ではない。ならばいっそオルタナティブスクールや私立などもうっすら視野に入れてました。しかし正社員共働きでは丁寧な対応ができそうにもなかった。何より理詰めの旦那さまを感性のわたしが説き伏せられることもできず、そのまま時間は流れていき、地元の公立小学校へ。
低学年のうちからスクールカウンセラーさんに相談しながらも普通級に通っていましたが、少しずつ周りの環境に合わせることが辛くなったのか、マイペースを通すようになりました。小3で心療内科とも連携し、発達検査(WISC)を受けました。すぐに療育手帳をもらうほどの境界領域より下の値でもなく限りなくグレーゾーン。自閉症スペクトラムの傾向があると言われました。なんとなく気づいていたので、まぁ納得の結果でした。
むしろきちんと調べることで、できることは全部やる!と情報を集め、体制を整えていかねばと思えました。(これはほどほどにしないと過干渉になってしまうのですが💦)

娘を保育圏の時から知っている仲の良いママ友に話すと、「本当に発達に問題があるの?」なんて驚かれたりもしました。しかし、数字はわかりやすい。次第に周囲も理解してくれるようになりました。

2.個別支援計画と配慮で普通級で卒業

そこから、スクールカウンセラー・病院・先生の連携がとられ、個別支援計画というものを作成し、支援が始まりました。授業中の個別の配慮といっても、実際のところ普通級でできることは少なく、先生の声掛けを増やすとか席の配慮(先生の前、穏やかな子の近くにするとか)ぐらいしかなかったです。
でも、何かあれば先生に言えるという安心感があったのか、親も安定して送り出すことができました。何より、娘が普通級の楽しさ、中でも友人とのつながりを大切にできて小学校はいい感じで卒業することができました。
そのまま中学でもマイペースで行けるといいなと思っていました。

3.中学1年生の冬

中学に入り、勉強中心の毎日、一学期はヘトヘトになりながらも、通いました。部活も大好きな水泳部に入り、夏までは楽しそうでした。
しかし、秋からグッと勉強も難しくなったのか、課題を出すのも大変。プリントの整理やら細かいことが対応できなくなっていました。1時間の長さが長くなったのも嫌がっていました。

親としては手や口を出したいところですが、流石に反抗期に入っているのでなかなか直接言うのは難しくなっていました。
その代わり、学習支援の放課後デイを利用し始めました。
実は小3で学校に行き渋りが出始めた時から、塾、家庭教師、進研ゼミと色々と試して合うものはないか模索していました。学校に行かなかったとしても、自分のペースで学びは続けたほうがいいとおもっていたのです。
しかし、どれも続かなかったため、市の児童福祉課に学習習慣がつかないと悩み相談したところ、発達支援の放課後デイの中でも学習をメインにしているところがあると教えてもらいました。
そこで病院に相談し、許可をもらい(手帳がないので先生の一存)中学入学前に通い始めました。そこで様々な支援員さんに支えられ、初めての定期テストや学校の勉強の進め方など、いろいろアドバイスは受けていました。

しかし・・・中1のお正月明け、部屋(ベッド)から出れなくなりました。
昼と夜が逆転してしまい、朝全く起きれなくなりました。覇気がなくなり、起きている時は、ご飯を食べに降りてきて、また寝るという具合です。
それまでも朝起きれないことはありましたが、声をかければなんとか起きて学校に行っていました。おそらくその繰り返しで限界になっていたのだと思います。

1週間ほどした時、「これはどれだけかかるかわからないけど休ませるしかない。」と覚悟を決めました。
普通のおうちでしたら、これはまずいと思って解決法を探すのかもしれませんが、それまでも何度か危ない橋を渡ってきたわたしたち親子でしたので、逆に、これはいよいよだなと肝を据えることになったのです。
それまでの自分だったら、どうして学校に行けれないんだろうねと娘に寄り添うふりをして追い詰めたりしていたと思います。
しかし、そのやり方はもう手放さなければ変われないと思いました。
この状況を認める。受け入れる。
とにかく誰も悪くない、誰も責めないと決め、心身の健康を取り戻すために好きなように過ごすことにしました。
娘の動向が気になる時も、フォーカスしすぎず、そんなときは自分の写し鏡だとおもうことにし、自分の内省をすることにしました。
娘のおかげで自分の過去のトラウマや課題に向き合うことができたことは感謝しきれません。

その後、病院でカウンセリングを受け、血圧は低めで、上が100を切ります。と伝えると、そりゃしんどいし起立性調節障害かもと言われ、夜寝付けるメラトニンを促進するお薬(といっても軽いもの)と朝血圧を少し上げるお薬をもらい飲むことにしました。
三食昼寝付きでのんびりと3学期を過ごしました。

その頃わたしは会社員を辞めフリーランスを始めていたから、家で付かず離れずの距離感で様子を見ることができて本当によかったです。

2月が終わりに近づいた頃、少し元気が戻ってきたので、三者で話し合いを設け、2年生はどのようにしたいかについて話し合うことになりました。
なんで学校に行きたくないのか聞いても本人は「わからない」の一点張り。
(これはほとんどの不登校のお子さんがそうだと思います。行きたくないから行かない、それだけなのです。)
いきたくないし休みたい。という本音を隠して生きてきた結果、体調を崩してしまったことでやっと自分のいたい世界を手に入れた感じでした。
話し合いを続けるも「普通級に戻ることはない」とはっきりしている娘。
そこでいくつかの選択肢を考えました。
一つは、特別支援級に編入する
一つは、学習支援の放課後ディに昼間から通い、そこでの学習時間を出席単位として認めてもらうようにする
一つは、通信制の中学に入り、家での学習時間を出席単位として認めてもらうようにする

しかし、どの選択肢も部活、クラスの友人と離れることになるため人間関係は続けたいという娘のややこしい要望に応えることができない内容でした。

4.不登校支援室「ふらっとルーム」の存在

そこで先生たちが、提案してくれたのが市が開設した不登校支援ルームというものでした。
それは娘が入った年に新設され、同じ中学の中にある別室という仕組みでした。そんな場所があるとは聞いたことがなかったので驚きました。授業はないので好きなことをしていていも良く、支援員さんが常駐しているので、和やかな雰囲気で過ごすことができるというものでした。先生たちも授業の合間に覗いてくれるとのこと。早速教室を見に行き、居心地良さそうなソファもあったり、楽器があったりで娘もここなら来られそう。と納得してくれ、次の週から少しずつ通うことになりました。

その年からできたという不登校支援ルームに行けたのは本当にありがたい気持ちでいっぱいでした。その後、教室には、休み時間に仲のいい友人のクラスの廊下で話したり、下校時間だけ一緒に帰ったりと娘なりに交流は続けました。野外学習や修学旅行は満喫するというなんとも美味しいところどりの学校生活となったのでした。部活も仲が良い雰囲気だったので、先輩からも関可愛がってもらい、今でも地元のスイミングスクールには高校生になってもきているメンバーもいて、関係が続いています。

中2の後半からは、朝11:00前に重役出勤し、のんびり日向ぼっこしながら学校のパソコンで好きなものを調べたりして給食を食べ、部活がなければ帰ってくるという生活が安定し、学年を超えた友情が生まれ、担任の先生にも褒められ(苦笑)支援員さんにも可愛がられ、学校へ行くことが定着していきました。ここがポイントで、自分が決めた時間にはちゃんと起きて行くことで自己肯定感が上がっていきました。
わたしできるじゃん。だんだんと顔にも笑顔が戻り、血色も良くなっていきました。
そして、以前は、意見を尋ねても答えることはなくずっと黙っていましたが、この頃から自分の考えをポロポロと口にしてくれるようになりました。

3年生になり、周囲は学習に拍車がかかり受験を迎えますが、娘はこれもマイペースでした。
別記事に書こうと思いますが、放課後デイの先生や病院の先生に支えていただき、とても良い経験をさせてもらえました。
受験がない分、半年前から高校生活に向けて通信制でコツコツ勉強を続けられるような習慣をつける練習を放課後デイや支援室で進めてきました。
今は好きなことができる喜びに囲まれて、安心できるいくつかの場所で楽しく前に進むことができています。

5.学校との向き合い方とわたしの変化

学校も昔と違って、本人や親の意向を尊重してくれます。なので、親は子供の一番居心地のいいところを見つけつつ、子供が「どうしたいか」が出てくるまで粘り強く待ち、学校などに伝えることで理解を得られます。
学校側も、決して学校にこさせてください。というような言葉はなく、いつも尊重してくれました。逆に言うとこちらの要望がないと、何もしてくれないと言うことにもなりますが・・・・💦

子供は全て知っていて、わたしは教えてもらっているなと思うことばかりでした。むしろ自分の人生の中で役に立っていることは、これからの時代には無益なことも多く、こちらがどんどん学ばせてもらって、自分も次の時代に一緒に行けたらいいなと思います。

なにより、わたしが思っていたよりも世界は優しいのかもしれない。
わたしが子供だった頃は厳し目の人が現れては自分のやりたいことを潰していきました。
だから子供達にも、将来社会に出たら生きていけないからと言って価値観を押し付けていたと思います。
しかし望めば、求めれば、その世界は自然と現れるんだと思いました。
そして、娘の周りには優しい人が自然とそばにいてくれることにも気がつきました。
と言うことは娘は優しい人なのか!
その頃から、娘の本質にやっと気がつき接し方も変わっていきました。

常識という鎖を外し、未来の姿だけを想像していたら、ちゃんとそこに行けるルートが見えてきました。こうやったらうまくいくなんてものはないからこそ現在があると思います。それを教えてくれた娘には感謝しかありませんし、これからも続く人生を楽しみたいなと思います。

6.最近の娘

娘は、現在、多少のこだわりはあるけれど、時間が守れるようになり、周りの言うことも聞いてくれるまで成長してきました。あと、動物好きなのですが我が家の猫のお世話には目を見張るものがあります。忘れっぽいと思っていたけど、トイレ掃除や爪切りやグルーミングをせっせとしています。家族の中で猫の信頼を一番獲得している気がします。最近は頼もしいなと思う発言も増えました。周りを困らせていた、こだわり・わがままは、「やりたいことは周りを説得してでも絶対やる」と言う信念に変わってきました。ネット上の友人もできたり、アニメのキャラの推しがいたり、イベントに出かけたりと行動の幅も広がっています。
どんな人も成長していくのだと今はその子なりのペースを大切にしたいと心から思います。

7.まとめ

発達障害のグレーの場合、親からも気づかれず、支援の手からこぼれ落ちてしまうこともあります。我が家のように、行き渋りだったり朝が起きれないとかなんとなく困ったなと思ったら、市の児童福祉課にどういう悩みがあってどうしたいのかを相談すると道が開けることもあります。
そのちょっとした親の勇気が、大事だと思います。
気のせいかな。とか様子を見て、などと思っているとあっという間に大きくなるのが子どもです。気づいた時には、話が聞き入れてもらえない年齢になっていることもあるでしょう。
そうなっては、正直もう親の出番はないし自身で気づき解決するのを見守るしかなります。それはそれでいいかもしれませんが、困っているのであれば手を差し伸べて協力するのが家族だとわたしは思います。
わたしは、支援の輪に入ったことで同じような悩みを抱えている親御さんと出会い、親同士交流できるのも大事だと思います。
たまにですが集まって「わかっているけどさー。きいてー・・・」なんて愚痴を言い合いながら励まし合いまた家に戻っていくと言うような場所、人間関係も嫌じゃないです。

地方自治体や教育委員会の方針の違いなどで、このお話が必ずしも当てはまるとは思いません。しかし、健常者さんの道だけが子供の成長・親道の正解でないことをお分かりいただけると嬉しいです。
親が視野を広げ、子供に学び、共に進む道を楽しんで模索し、親子が追い込まれず一番居心地のいいルートを見つけられれば良いのかなと思います。

長文ありがとうございました。

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かのえみ(旧みよまい)
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