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仲正昌樹『人はなぜ「自由」から逃走するのか エーリヒ・フロムと共に考える』

 仲正昌樹『人はなぜ「自由」から逃走するのか エーリヒ・フロムと共に考える』(KKベストセラーズ,2020)を読んだ。

概要

 西欧近代の自由主義が、封建的な絆を解体し、「消極的自由」の制度的な実現にはある程度成功した。しかし、大衆が「自由」の重荷に耐えられなくなり、全ての問題を解決してくれる「権威」を求める傾向は、社会の宗教・共同体的な構造の解体と引き換えに近代化を成し遂げた全ての国家が潜在的に抱える問題である。

 人が合理的・自立的に思考するのに従って、共同体からの「(消極的)自由」が達成された。しかし、自分がなりたいものになるための「積極的自由」は自発的な努力によって獲得しなければならない。そして古い絆からは解放されても、増大した選択肢に見合うだけの自己実現の環境は整っていない。そのため「消極的自由」は開放感以上に不安をもたらす。

  フロムによると、自発的活動を行うことが積極的自由につながるという。個人が抱える孤独と無力感を解消するための社会全体の合理的組織化と、個人が自発的に他者との関係を築き、自発性を発揮しやすい分権化を組み合わせることで、自由ゆえの不安と全体主義の誘惑の両極に陥らないようにすることができると考えた。

ぼやき

 うちの子供達がYouTubeで好んで見ている「学生あるある動画」では、いかに学校のルールを掻い潜るか、宿題その他のタスクから逃れるかというネタでいっぱいである。
 小学生の彼らにしたら、中学から上の学校は未知の世界であるにもかかわらず、大笑いしながら鑑賞している。細かいことは抜きにして、共感できるテーマなのだろう。

 しかしこれは「消極的自由」の一つの形である。本文にあったアニメのミッキーマウスのように、相手に真正面から向き合わずに逃げ回っているうちに、偶然によって自由が得られる(あるいは捕まってひどい目に遭う)という展開は、結局「学校」というシステムからは自由になれないという前提を共有している現れだろうか。

 もし、自分の意思で「学校」に向かい合うことが「積極的自由」であるとしたら、それを継続するための「戦略的撤退」は「消極的自由」ではないと思いたい。

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