年金ライダーさん
私は1954年に次男として生まれました、兄と妹が居ます、吃音は私だけです、兄も妹も口下手です、父も吃音だったのが私には不運でした、母も父が吃るのが許せなかったようです、見合いの時嫌だと言ったのに親が無理やり嫁がせたと言いました、両親は酷い不仲でした、母は言ってはいけない言葉をかなり言いました、父みたいになるなと、私が吃るようになって父がうるさく叱るようになりました、だいたい6歳位に自分の喋りかたがおかしいと、気付きました、小学校で、意地悪な子供が居てまねしたり笑ったりと辛い日々でした、国語の本読みは地獄です、吃らないように練習しました、しかし中学生になった頃難発になり生活に困るようになりました、すぐ言葉が出ないのです、両親か理解かあれば、そこまで酷くならなかったと思います、私が吃る度に父が怒ります、自然と父との会話は避けます、母も無理解です、男ならしっかりしなさいとかはっきり言いなさいとか、まるで分かっていない、言友会に出会うまで理解者はいませんでした、
この吃音を治そうと必死でした、東京の矯正所に行きました、指でリズムを取って喋る方法でした、今思うと随伴運動で喋るのでいちいち手を動かすので使えない方法です、もう40年以上前です、呼吸法もやりました、言友会に出逢うまで様々な、治療を受けました、森田療法は吃音を、治さず堂々と喋りなさいと声が、出にくいから無理です、今思うと他人を頼っては駄目ですね、言友会は45歳で入会しました、吃音者ばかりなので話易いと思いました、やっと理解者に逢いました
私の両親は二人とも厳し過ぎました、少年期は楽しい事は殆どありませんでした、父が協調性が無いのか会社でケンカしてよく転職しました、生活は苦しく母が働いて生活を支えていました母の方が賃金が多いので父を馬鹿にしていたようです、そのストレスを子供にぶつけていたらしい、高校の夏休みにバイトをしました、父は生活費を出せと殆ど取りあげました、他のバイト仲間は全部自分の欲しい物を買っていました、駄目な親を持ったものです、
吃音の酷い時は呂律が、回らず滑舌も最悪でした、笑われたり無視されたり怒られたり
死にたい気分でした、高校卒業して就職の時期になり面接があります、うまく喋れてなく二回不合格でした、三回目に誰でも入れるくらいの会社にはいれました、五年頑張りましたがオイルショックで車が売れなくなり全国の販売所に営業マンとして出向する事になりました、吃音があっては営業マンは無理です、悔しい思いで退職しました、その後親戚の会社に就職できました、
吃音で一番大変なのは結婚だと思います、見合いで吃ると言えば殆ど断れます、今だったら父は結婚はできなかったと思います、幸運⁉️な事に吃音でもいいと言う女性が現れました、理解して、もらえると思っていました、見事に裏切られました、私が言葉に詰まると無視しました、我両親と、同じです、子供ができて、私はただの金のなる木でした、夫が稼ぐお金は全部自分の物だと考えていたようです、子供には何万円も使うのに私には一円でも、惜しいけしからん女です、長女でした、舅が若死して義母の家で暮らす事になり地獄の生活になりました、婿養子を認めた訳でもないのぬマスオさん状態でした、私の自由になるのは殆どありませんでした、姑の意地悪には、なかされました、挨拶の強要は嫌でした、日頃は無視するのに挨拶だけは強要する、頭にきて文句を言うとそれから会話がなくなりました、20年暮らしましたが元妻が急に離婚を切り出しました、あんた、と一緒に居ても楽しくないと、こんな可愛くない女と、一緒にいても駄目だと、思い別れました、別れる時普通お金の分配がありますが、一円もありませんでした、私の実家に戻り母と一緒に暮らしました、幸い父は亡くなっていました、母はお前が吃るから嫌われるのだといいました、あまりにも理不尽です、
その母も二年前に癌で亡くなりました、最後まではっきり言いなさいと言っていました、しかし言友会に入って少しずつ軽くなっていました、軽くなって母との口論が増えました、母は子供を、所有物と思っているのか親に逆らうなと、言う態度です、子供の人権無視です、母を亡くして自由になりました、吃音も軽くなったようです、毎日カラオケを、やっています
言友会のメンバーの中には治そうとするから重くなると言う人もいます、つまり治さず受け入れなさいと言います、吃音は軽くできると思います、事実私が一番重い時は震度7でした、今は3くらいに、なっています