所沢近辺の地域密着の自助会・家族会・支援者の会です。 「会える仲間、居場所、手の届く支援」を目的に、発足しました。 こちらでは、吃音の苦しみ、改善した方は改善方法などをお書きいただきました。改善方法にはいろいろなものがありますので、ご参考になさってください。 ホームページ https://peraichi.com/landing_pages/view/kitsuontokorozawa/ facebook https://www.facebook.com/groups
プロフィール:20代、男、未婚、音楽教師、北海道、難発&連発、難発が出てしまうと呼吸も出来ない、幼少期に発症、手帳はなし、ピアノ歴20年目 「”キツ”すぎる私の人生」 私が吃音を自覚し始めたのは小学校の頃。しかし、当時は「なんか吃るなぁ」程度であり、「吃音」という言葉には出会っていなかった。中3の頃、知り合いの言語聴覚士と出会い、初めて自分が吃音だと知った。それと同時に「吃音は障害者」であることを受け入れることができず、苦悩する日々が続いた。以下、私の人生の中での苦労した
22歳、男、独身、製造業、東京 難発、保育園くらいから気づいたら吃音だった。 その他の症状なし、手帳無し 自己紹介をしてって、言われるのが1番苦痛でした。奇跡的に学生の時は担任の先生が、自己紹介しないタイプの人だったので救われましたが、部活動での自己紹介はあったのでそれが苦痛でした。 自己紹介に限らず、普段言葉がすんなり話せないってこと自体が苦しいですね。 他の人は思ったことを、すぐに口に出して言えるのに自分だけ言いやすい言葉に変換してとか言えるかな?って考えてから言ったり
とみー/既婚/子供1人/発症:小1くらい/職業:営業マン/住まい:千葉 吃音歴は20年以上となり私は段階を経て改善してきました。 いろいろありましたがこれまで振り返ってみてターニングポイントはこれかなってものが3つあるのでお伝えします。 1つ目は【これ以上ない恥を経験した事】です。中学の頃、生徒会に立候補し全校生徒の前で演説⇨難発を出しながら話す⇨笑われるという経験をしました。 勿論吃ることはわかってましたが、大勢の前で話せば何かが変わるかもしれないと思って、恥をかく
私は1954年に次男として生まれました、兄と妹が居ます、吃音は私だけです、兄も妹も口下手です、父も吃音だったのが私には不運でした、母も父が吃るのが許せなかったようです、見合いの時嫌だと言ったのに親が無理やり嫁がせたと言いました、両親は酷い不仲でした、母は言ってはいけない言葉をかなり言いました、父みたいになるなと、私が吃るようになって父がうるさく叱るようになりました、だいたい6歳位に自分の喋りかたがおかしいと、気付きました、小学校で、意地悪な子供が居てまねしたり笑ったりと辛い日
年代:50代 性別:男性 未既婚:既婚 職業:会社員 お住まいの県:広島県 吃音の種類:難発 吃音の程度:軽度 発症の時期:3歳の時に「夕日が赤い」と言った時にどもったのが初め(母談) 他の症状・障害:なし 障害者手帳の有無など:なし ⦿辛かったこと、苦しかったこと、悩んだこと ・高校生1年生の時に代表委員に選ばれて、号令をかけなくてはいけなくなった。 号令をかけるときにどもってしまい、周囲からからかわれたり笑われたりした。 最終的には号令をかけるのを変わってもらった。 ・職
【お詫び】 今回、お願いしてお書きいただいた体験談(しろさんの体験談)を勘違いで削除しておりました。 あらためて掲載いたします。しろさん、大変申し訳ありませんでした。 【しろさんの体験談】 プロフィール 30代(1984年生まれ) 既婚(発症時未婚) 宮城県在住 会社員(発症時アルバイト) 難発 障害なし 症状の程度はピーク時は自力で呼吸も整えられず、常に全身に力が入った状態でした。(自力で力を抜く、リラックスすることができませんでした。) 第一声が詰まって出て