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「体罰・すべての被害者たちへ捧ぐ」第2話 ・怪談長編小説(note創作大賞2024・ミステリー小説部門応募作品)CW
廊下の怪談
「どうしよう…」と、今にも泣き出しそうな女子が呟いた。
学校祭が近づいたある日の朝、教室に入ると女子たちは深刻な顔をしていた。理由を尋ねたとたん、泣きそうだった女子の視線が私の背後に釘づけとなり、彼女は言葉を失った。私は背後に奴の気配を感じ、ゾクッとした。
「楽しみだ。実に楽しみだ。これでユートピアに一歩近づいた」
コダマがものすごい力で私の肩を押さえつけながらそう言った。指名された女子はビキニ姿で学校祭のステージに立ち、昔のアイドルの歌を歌うよう指令が出されたのだ。私はまた吐き気を覚えた。
コダマはたびたび女子と男子にこのような性的に不快な命令を下す。それは授業や学校生活とはまったく関連のない、完全に奴の趣味であろう内容だった。初めのうちは、笑顔で交わそうとする女子の姿を見てニヤニヤと喜んでいた。男子には逆に筋肉を使って何かを証明させるような、体に関係することを示唆する。生徒が苦笑いをして困っている姿を見て楽しんでいるように感じた。
ところが、コダマの要求は日に日にエスカレートしてきた。軽く断ろうとする生徒たちを執拗に責める日々が増えた。今回のビキニ姿の要求に関しては、指令という強い表現に変化したのが気がかりだった。
(あれ?)
黒縁の汚いメガネを顔に食い込ませ、不気味な笑みを浮かべているコダマの左後ろに、確かにあの女子生徒がいた。私は彼女を追いかけたい衝動に駆られた。しかし、コダマを無視すると面倒なことになるので、諦めた。
コダマの顔に目線を戻すと、挑発的な態度でこちらを見ている。まるで、「ビキニ姿の要求を断れば痛い目を見るぞ」と言っているような顔つきだった。一度ヘソを曲げると、とことん嫌がらせをしてくる。生徒たちは常にコダマの機嫌を損ねないよう、最大限に言動に気をつけていた。
「私は結構です」
どうせ殴られるのはわかっていたので、素直にそう答えた。すると、クラスの女子たちも勇気が出た様子で私に続いた。
「あたしたちも無理です」
呆気にとられたような顔を一瞬見せたコダマの顔は、みるみる赤くなり、メガネがさらに顔に食い込み、いつもの般若の顔になった。私を殴るための拳が宙に浮いていた。
コダマに殴られる時はいつも、その光景がスローモーションのように見えた。なぜかはわからないが、コダマの醜い怒りの顔と子供が泣きじゃくる顔が同時に見えるような気がするのだ。大きな体で力いっぱい殴られると、頭からつま先まで一気に衝撃が走るくらい痛かった。私は激痛で今にも泣き出しそうになるのを必死にこらえた。怒りを顔に出さないよう、平常心を無理矢理保とうとした。
「またお前のせいで僕のユートピアが崩れた」と言って、コダマが憤慨している。
コダマは私のことを特に目の敵にしていた。自分の意思を持っているところが最高に気に食わないとのことだった。入学式以降、反抗せずに従順だった女子たちを私が変えたと、しつこく言われた。
「お前さえいなければ、女子たちは僕の言いなりなのに」とも言っていた。私は小・中学校時代から教師に殴られることには慣れていたので、大人を簡単に信用してはいけないという基盤を確実に培っていた。さらに、暴力を振るう教師の前では極力泣かないよう、踏ん張る習慣がついていた。だからこそ、コダマに負けるわけにはいかないと心の奥底で思っていた。だが、それを口に出したことは一度もない。たぶん、コダマにはそんな私の信念が通じていたのだろう。この時は、ビキニ騒動が表面上おさまったように見えていた。
「ほとばしる若さとビキニ姿をこの目で見届けるチャンスだったのに。わかりますか?」
「おたくの娘さんが、僕のユートピアを壊したのですよ」
机をドンドンと叩く音とともに、コダマの大きな声が職員室に響き渡った。
「私と妻は破れ鍋に綴じ蓋なんですよ」
ひとりでひたすら喋りまくるコダマの異常さに驚く母の様子を見に、教頭らがコダマの後ろを行ったり来たりしていたそうだ。二者面談から帰宅した母の顔が硬直していたのを、私は忘れられなかった。
毎日、誰かがかわるがわる理不尽な理由でコダマに殴られていた。学校祭の準備をしながら、男子たちがコダマを訴える方法を考えていた。彼らも、私と同じく毎日殴られることに耐えられなくなっていたのだろう。ただ、この社会における教師は守られた存在である。生徒や親が個人的にどんなに訴えても、何も変わることがないことを残念ながら誰しもがわかっていた。
学校祭の準備も終盤に差しかかり、ラストスパートをかけるべくみんなは居残りをして準備に追われていた。ダンボールや廃棄物が一時的に保管されている、誰も近寄らない陰気な用具室が一階の隅にあった。私は出し物用の段ボールを何枚か適当につかみ、逃げるように用具室を出て薄暗い廊下を歩いていた。コダマが言っていたように、市内で一番かどうかは定かではないが、確かに長い廊下だ。
(あれ、なんだろ?)
床の上に、ボコッと突起している部分が見えた。それはバスケットボールほどの大きさの突起だった。恐る恐る近づいて確かめようとしたその瞬間、背中がゾクッとした。同時に、突然動けなくなった。どうやら立ったまま金縛りになったようだ。意識ははっきりしていて、両目だけは動く。左手にはガラスケースがあり、優秀な成績をおさめた卒業生のトロフィーや賞状、記念写真などがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
相変わらず体が動かない。段ボールを持ったまま立っている自分の姿が、ガラスケースに映っていた。私は目だけを動かして、それを見ていた。
(誰かいる)
ガラスケースに映る自分の左後ろに、誰かが立っているのが見えた。私は怖いというよりもホッとした。同級生の誰かが手伝いに来てくれたのかと思った。いや、そう思おうとした。だが、それが同級生ではないことがすぐにわかった。
「だれ?」
私は問いかけた。どのくらい沈黙が続いただろう。硬直したまま、ガラスケースに映る何者かの姿を黙って観察した。
(入学式の日、体育館の隅にいた女子生徒だ)
私と同じ制服を着て、髪の長さは肩まである。目が大きくてきれいな人だというのが、ガラス越しでもわかった。すると、その子が腕をスッと上げて何かを指したのが見えた。
耳の横から冷や汗が一滴、首筋に落ちた。何を指差しているのかわからなかったので戸惑ったが、部活の集合写真を指さしているような気がした。すると、突然金縛りがとけた。手の力が抜け、段ボールを足元に落としてしまった。私は急いでふり返ったが、そこにはもう誰もいなかった。
(なんだったんだろう…)
状況が飲み込めず、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。ガラスケース越しではあったが、女子生徒の顔色が異常に悪く、青白かったのが印象的だった。
階段の方から生徒たちの笑い声が聞こえてきた途端、やっと自分の体の感覚を取り戻すことができた。金縛りがとけて自由になった手足を、少しずつ確かめるように動かした。
段ボールを床に置いたままガラスケースに二、三歩近づき、女子生徒が指さしていた方向を見た。その先には、青と黄色のユニフォームを着た選手たちの集合写真があった。真ん中の女子がバスケットボールを抱えている。
(先輩たちだ)
私はバスケットボール部に所属していた。ひとりで黙々と何かに没頭することが好きな私は、小・中学校では個人競技ばかりしていた。チームプレーの経験が少なかった私に、父がボールを使ったスポーツをしておくといいと勧めてくれた。そこで、以前から興味があったバスケ部に入ることにしたのだった。
ひざを軽く曲げて姿勢を低くし、ガラスケースに顔を近づけて写真をもう一度見直した。ボールを持った選手の右横で笑う部員を見てハッとした。
(さっきの女子生徒だ)
写真の日付を確かめると、二年前だった。以前のバスケ部は今よりも断然強かったと、先輩たちから聞いたことがある。
(あの女子生徒は、バスケ部だったんだ)
「何してんの?」
不意に後ろから話しかけられ、飛び上がるほど驚いた。私は文字通り少しだけ上に飛んだ気がして、恥ずかしくなった。
「ごめん。ごめん」
振り返ると、そこには背の高い男子が申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「あの…」
私は恐る恐る声をかけた。私が段ボールを床に置いたまま中腰でずっとガラスケースを眺めているので、気になって何度か声をかけていたそうだ。金縛りにあっていたので、まったく気がつかなかったとは言えずに私は黙っていた。
「タチバナ。バナって呼んで」
彼は高校三年生で、サッカー部だと自己紹介してくれた。私は何となく気まずさを感じたが、失礼のないように手短に自己紹介をした。
「君もバスケ部なんだね。かわいそうに…」
バナ先輩は悲しそうな顔をして言った。私はどうして彼がそう言ったのか何となく察しがついたが、言葉にはできなかった。バナ先輩にそんな私の雰囲気が通じたのか、床に落ちている段ボールをまとめて拾い上げ手渡してくれた。私はお礼を言った。
「じゃ、またね」
バナ先輩はそう言って手を振ると、一段抜かしで軽々と階段を駆け上っていった。体中の力が抜け落ちる感覚がした。
(そうだ)
廊下の突起を思い出した私は、床に目線を落とした。さっきまで盛り上がっていた突起が消え、普通の平らな廊下に戻っていた。不可思議な出来事を理解することができず、長くて薄暗い廊下をただ茫然と眺めていた。出口のない憂鬱な廊下に見えた。
教室に戻った私は、待ち構えていた同級生に段ボールを渡した。男子たちは私にお礼を言うと、ニヤニヤしながら質問してきた。
「だいじょうぶ?真っ青だよ」
私は、上手に説明することができなかったので、さっき起こったことは胸の中にしまっておいた。人当たりのいいおしゃべりで明るい男子が、この学校にまつわる噂話を教えてくれた。
「廊下のボッコリの怪談、聞いたことある?」
すぐにどの廊下のことを言っているのかわかったが、知らないふりをして一通り最後まで教えてもらった。
『恋愛の悩みを苦にして自ら命を絶った女子高生の怨霊が、廊下に突起として現れる』という噂を、卓球部の先輩が教えてくれたそうだ。
私はすぐにあの女子生徒のことだと思ったが、彼には言わなかった。あの女子生徒が幽霊なのだと言うことは、疑問から確信に変わった。しかし、自死をしたというところが引っかかった。どうしてかはわからないが、なぜかそう思ったのだ。廊下のボッコリに関しても、あの女子生徒の怨霊というところに納得がいかない気がした。
とにかく、さっきの金縛りといい、あの女子生徒の存在といい、バナ先輩といい、怪談といい、一気に情報が増えたので少々パニック気味だった。
「しっー!コダマが来た」と、おしゃべりで明るい男子がみんなに警告した。
突如として、クラス内に張り詰めた空気が漂う。最近、コダマの前では極力しゃべらないようにみんなで気をつけている。今日のコダマのターゲットは男子らしく、彼らは大した理由もなく殴られていた。男子たちが机の下に隠した握り拳が小刻みに震えているのを、私は見てしまった。
みんな、コダマの横暴ぶりに限界が来ているのだ。
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地獄の部活
「くそどもが!」
女子バスケ部の顧問であるホソカワが、目を釣り上げて大声で罵り、一列に並ばせた部員をはじから順に飛び蹴りをしていた。ときどき、力を込めすぎて空振りし、そのまま床にドスーンと尻餅をついてしまう。驚く部員たちを前に、自らの失態を部員のせいにして八つ当たりをする。暴力を振るうホソカワの姿は実に滑稽で、信じられないような本当の話である。
(私の番がもうすぐやってくる)
特に機嫌が悪い日は、放課後の部活が始まってすぐに殴る蹴るの暴行が始まる。生理中にお腹を蹴られた私は、あまりの痛みで立っていることができずに床にしゃがみこんだ。ホソカワは一瞬気まずそうな顔をしたが、それを誤魔化すように他の部員に堂々と暴力を振るい続けた。
「うちらの部活は、友だちのように和気あいあいと楽しく、ボールで遊ぶ感覚だよ。初心者でも全然問題ないから安心して」
四月の部活の説明会で、二年生の大堀先輩がこう言った。初心者の私は少し不安だったが、この言葉を聞いてホッとした。
まだまだ疑問に思うことはあったが、強引に楽観的に考えることにした。後に親友となる、顔見知りだった隣のクラスの紀香が説明会に来ていたことも、安心材料になったのかもしれない。彼女も同じく初心者だった。
「ちょっとこい、こら!」
説明会の終盤、教室の外から強烈な怒鳴り声が聞こえた。背が高く猫背で、銀縁の四角いメガネをかけた教師がドアを乱暴に開け放ち、ドスドスと足音をたてて室内に入ってきた。何が起こったのかを瞬時に理解できず、みんな凍りついていた。さっきまで明るく説明していた大堀先輩の首を後ろからつかみ、教室の外に引きずり出して何やら怒鳴りつけている。
「何が友だちだ!何が和気あいあいだ!ちゃんと働け!」
殴られているような音が聞こえてきた。教室内にいる全員が驚いた顔をしたまま、黙って黒板を見つめていた。しばらくして、大堀先輩が真っ赤な目をこすりながら恥ずかしそうに戻ってきた。
「お前ら全員、ふざけた態度だと許さんからな」
再びドスドスと足音をたてて教室に入ってきた教師は、暗い声で「ホソカワ」と名乗った。問答無用で鍛えてやるというような内容を話していたが、恐ろしくて頭に入ってこなかった。
なぜ、ここにいる全員がこの時点で逃げずに部活に参加したのかは永遠の謎だ。後から冷静に考えると、私は既に担任のコダマから体罰を受けていたため、逃げるという選択肢が頭に浮かばなかったのかもしれない。すでに『心のモザイク』が作動していたことは間違いなかった。
その日の帰り道、私は迷う気持ちを紀香に伝えた。紀香もさっきの一連を見て少し不安に思った様子ではあったが、私ほど深くは考えていないようだった。翌日、同じクラスの菜々子にも聞いてみた。怖がってはいたが、バスケ一筋でやってきた彼女にとって、他のスポーツは考えがたいとのことだった。同じ中学出身のふたりは、私が危機感を覚えて確信をついた話をすると、なぜか興味のない様子で聞き流す節があった。
不安が頭の中で黒い塊となってグルグルと渦巻いていたが、父には相談できずにいた。ボールを使うスポーツを勧めてくれた父をがっかりさせたくなかったのだ。もしこの時、正直に両親に打ち明けていたら、何かが変化したのだろうか…。家族に相談できない羞恥心、罪悪感、後悔などを混ぜ合わせた得体の知れない感情の塊となったことを今でもよく覚えている。家族、特に父との距離が次第に広がっていったことが、心のしこりとなった。暴力を振るわれことが自分への罰であると思い込むようになっていた。
また、ホソカワは部活以外の習い事や趣味をすべて辞めるように指示を出した。部活の時間がプライベートの時間を圧迫するため、習い事を辞めざるを得なかった。しかし、自分の好きな英会話だけはできる限り通い続けていた。運の悪いことに、英会話のクラスメートの女子と部員がたまたま顔見知りだった。私が英会話に通っていることが、あっという間にホソカワの耳に入ってしまった。ホソカワはゴミを見るような目で私を睨みつけ、「くだらない習い事はすぐに辞めるように」と言った。それでも密かに隙を見つけて英会話に通い続けた。
無理矢理ポジティブに考えるようにしていた私は、かっこいいバスケットシューズを選ぶことで気を紛らわせようとしていた。しかし、どんなに良いシューズをはいても、どれだけ練習を頑張っても、どんなに明るく振る舞おうを努力しても結果は同じだった。毎日鬼の形相をしたホソカワが、猫背で首を上下に揺らしながらドカドカと体育館に入ってきて暴力を振るう。まさに地獄の空間だった。
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最悪のキャンプ
クラスの人気者たちが中心となり、夏休みのキャンプの予定を立てていた。リーダー的な存在の男子が、いくつかの難関があることをそっとみんなに打ち明けた。
「後でバレたら大変だから、放課後コダマに報告して許可をもらおうと思う」と、彼が言った。
彼のお父さんに相談した結果、担任の許可をもらうのが無難だということになったそうだ。それを条件に、彼のお父さんはすべてのキャンプ道具を快く貸す約束をしてくれたのだ。
「コダマが来ることになった。みんな、ごめん…」
リーダーが肩を落として謝っていた。彼の判断が賢明だと思い、みんなで慰めとお礼の言葉をかけた。隠してキャンプに出かけ、万が一バレた場合の恐ろしさを全員が容易に想像できたからだ。
キャンプの当日、例の変なスポーツカーにリーダーのお父さんのキャンプ道具一式を乗せたコダマが、意気揚々と登場した。口笛を吹いて、気味の悪い笑みを浮かべながらこう言った。
「お前たち、僕抜きで楽しもうだなんて、百年早いですよ」
みんな無言でコダマの車からキャンプ道具を降ろした。コダマはもちろん手伝わずに、その辺の草をむしって口にくわえながら、自分の大学時代の自慢話をしていた。
一通り準備を終えた私たちは、それぞれ水着に着替えて湖へと向かった。どんなに嫌なことがあっても、気持ちを切り替えて遊ぶことができるのが若者の取り柄だ。みんなで楽しく湖水浴をしていると、
「キャーッ」
クラスの女子が悲鳴をあげて、震えながら友だちの腕にしがみついていた。コダマだ。ピチピチの海水パンツをはいて湖に潜り、こっそり彼女に近づき足を引っ張ったのだ。水面に浮かび上がってきたコダマの顔は、妖怪のように見えた。驚く彼女を見てゲラゲラと笑い、鼻水でぐちゃぐちゃに濡れた顔を手で拭いながら、彼女の体に偶然を装って触った。上手く理由をつけて、女子全員で彼女を囲うようにして奴から遠ざけた。
夕飯の支度も当然のように手伝わず、コダマはずっと自慢話をしていた。クラスの男子を小馬鹿にしながら、彼らの頭を拾った枝でドラムのように叩いて笑っていた。全員分の配膳を待たず、みんなが作ったカレーライスを「いただきます」も言わずに一番先に食べ始めた。
「まあまあだな」と言ったコダマは、まだ一杯目があたってない人もいるというのに横入りをして、二杯目にがっついた。
夕食後、普段はクールで物静かな男子が、得意のギターと歌を披露しくれた。彼の意外な一面に驚いたみんなは、素敵な歌声に聴き入っていた。
パチ、パチ、パチ。
コダマが歌の途中で大きな拍手をして演奏を止めたので、その場が凍りつき、それまでの楽しい雰囲気が一変した。
「なかなかの腕前だな。申し訳ないが、ここからは僕の時間です」
コダマはそう言うと、クールな男子の大切なギターを奪い取り、コードをごまかしながらギターを弾き始めた。テレビの特集で見たことがある、かなり昔の曲を大声で歌っている。もちろん、下手くそだった。私は内心うんざりしながら、歌を聴いているふりをしていた。
「一緒に花火しない?」
近くにいた大学生らしき男性たちが話しかけてきた。花火という言葉に惹かれはしたが、知らない大学生と遊ぶのは怖いので適当に断っていた。
「パーティーは終わりだ!」と怒り散らし、例のごとく般若の形相で、コダマがギターを振り回しながらこっちに走ってくる。
「何あいつ?」
大学生たちは驚いて小さな声で囁いた。菜々子は担任が無理矢理キャンプについてきたことを手短に説明した。私たちを気の毒に思ったのか、大学生たちは同情の言葉を投げかけて足早に立ち去った。コダマはギターで威嚇し、大学生に向かって暴言を吐いている。
「男に媚を売りやがって!」と、コダマが叫びながら、私と菜々子を思い切り殴ってきた。
「大学生なんかガキだ。大人の男の方がいいに決まってる。あんな奴ら…」
私と菜々子は、大学生の誘いはきちんと断ったことを説明しようとしたが、興奮している奴に何を言っても無駄だと悟った。一旦般若の形相になると、しばらく収拾がつかない。私は心の中でため息をついた。
「お前、今、反抗したな」と言って、コダマは私をもう一度殴った。
「就寝時間だ」
時計は午後九時をまわったばかりだったが、コダマはキャンプファイヤーに水をかけて強制的に終了した。ギターがやっとクールな男子の手元に返却された。彼は自分の大切なギターに傷がついていないかどうか、慎重に確かめていた。私は気の毒に思い、しばらく彼がチューニングする姿を眺めていた。すると、コダマが彼に向かって、ギターをしまうのが遅いと馬鹿にした。
奴は自分のテントの中から顔だけ出して怒鳴っている。同級生同士で話したいことがたくさんあったが、仕方なくそれぞれのテントに入ることにした。テント内でヒソヒソと好きな人の話で盛り上がる女子たちの会話に、私は耳を傾けていた。
すると突然、テントのジッパーが外から開く音がした。みんな息をのんだ。暗闇の中で黒縁のメガネがきらりと光った。
「この石で暖をとれ」
コダマはそう言って、水をかけて冷めきったバーベキューの石をがさつに差し出してきた。思わず断ると、その大きな石をテントの中に放り投げてきた。冷たい石で暖をとれと真顔で言うコダマが、ますます気色悪く感じた。そんな私の気持ちを察知したかのように再び殴ってきた。
「僕の言うことを聞かないからこうなるんです」と、コダマはドスをきかせた冷酷な声色で言った。時折、敬語で陰湿な喋り方をするコダマが、私は特に苦手だった。
悔しくてなかなか眠れない。せっかく楽しいキャンプに来て、何度も殴られるなんて納得がいかなかった。
翌朝、私はひとりで湖を眺めていた。美しい湖の水面は静まり返っていて、その数センチ上にはうっすらと靄がかかり、幻想的な雰囲気が漂っていた。アメンボがスイスイと泳ぎ寄り、その優雅な動きで静寂を優しく破った。アメンボが作り出した波紋は、少しずつ広がっていった。
『大きな窪地』という意味合いがあるこの湖は、その温厚な様子とは裏腹に、一度沈んだ死体は二度と上がってこないという噂がある。湖の底には、数えきれないほどの死体が水草や藻にからまっているらしい。心霊スポットとして有名なこの湖を、私は恐ろしいと思ったことはない。この美しすぎる、吸い込まれそうなほど透明な湖を怖いとは思えないのだ。
入学式で見かけた、体育館の隅にいた女子生徒の姿がふと脳裏によぎった。しかし、そう思ったのも束の間、私の穏やかな時間はコダマの怒鳴り声によって打ち消された。
「男子、全員並べ!」
再び般若の形相で怒鳴り散らし、男子たちを一列に並ばせ、端から順番にひとりずつ平手打ちを繰り返していた。女子風呂を覗いた疑いをかけられた男子たちは言い訳もせず、ただコダマに黙って殴られていた。
(奴はどうやって気がついたんだろう…)
男子たちが女子風呂を覗いてふざけていたのが真実だとすれば、それは間違いなく悪いことだ。しかし、なぜコダマがそれを知っているのかが気になる。もしかして、コダマ自身も覗いていたのではないかと、私は心の中で思った。
「お前たちはやっぱりできそこないです」
コダマは、リーダーのお父さんから借りた全てのキャンプ道具を放置して、一人でスポーツカーに乗り込んだ。私たちの前でエンジンを吹かし、窓を開けて暴言を吐き、睨みつけながら去っていった。
「アイツ、キモすぎる」と、普段はひょうきんな男子が真顔で言った。
誰もが深いため息をついた。ろくな食事もできなかったので、一先ず腹ごしらえをすることにした。重いキャンプ道具を各自が持ち、バスを待っている間はみんな無言だった。ここにいる誰もが、バスでキャンプに来るような経験がないことは、確認しなくても明らかだった。
この世に存在するすべての音が蝉の鳴き声だけになったかのように、一生懸命に鳴いていた。
バスの中で何を話したかは覚えていないが、沈黙の時間が私たちの心情を如実に表していた。
後日、相当腹を立てたリーダーのお父さんが、他の父兄と共に学校に抗議してくれた。ところが、学校側は特に対応しなかった。コダマは、私たちになんの力もないことを知って安心したのか、ほくそ笑んでいた。それどころか、キャンプの話を持ち出しては、私たちを定期的にからかった。しかし、その笑顔の裏で奴が何を考えているのか、私は少なからず疑っていた。
さらに、コダマは覗きの話を誇張して、他のクラスで笑い話にしていた。ギターを横取りされた男子に対しても、決して謝らず、自分のギターの技術の方が高いとひけらかしていた。その言動から、コダマは常に何らかの劣等感に苛まれると同時に、奇妙な優越感に浸っているのではないかと感じた。
みんなの顔から、だんだん、そして確実に笑顔が薄れていく。
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第3話へ続く
Kitsune-Kaidan
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