「体罰・すべての被害者たちへ捧ぐ」 第3話・怪談長編小説(note創作大賞2024・ミステリー小説部門応募作品)CW
ゴミ屋敷訪問
まだ残暑が厳しい新学期、帰りの長いホームルームが始まった。コダマは相変わらず成績の悪い生徒を見下し、名指しで叱りつけていた。ただの腹いせでこんなことを繰り返していることに、みんなとっくに気がついていた。数学が苦手な私は少々苦戦していたが、英語と国語が得意科目だったため、総合的に見るとそこまで成績は悪くなかった。
「お前なんか、いい点を取れるはずがない」
コダマはそう言って、私の成績一覧が印刷された細長い紙を教壇からヒラヒラと床に落とした。私は思わずコダマを睨みつけたが、奴はニヤニヤと笑いながら私を蔑んでいた。床に落ちた成績表を拾おうとした私の指を、コダマはわざと踏みつけた。
「いたっ!」
慌てて手を引っ込めた私を見て、コダマはゲラゲラと笑っていた。急いで成績表を拾い上げて席に戻った。菜々子が私の肩をポンポンとたたいてくれた。改めてその成績表を見ると、そこには数学と科学以外は、悪くない成績のデータが並んでいた。
(やっぱり、点数で差別しているんじゃないんだ)
私はそう確信したが、どういう基準で体罰をしているのかは全く検討がつかなかった。昨日までかわいがり褒めていたかと思えば、今日はひどくなじるということもあった。結局、自分の気分でターゲットをコロコロと変えているだけなのだろう。
高校生にもなって、担任がこんなにも生徒の生活に介入して支配してくることに違和感を抱く普通の感覚が、日に日に麻痺してくる。時折、コダマが赤い舌をチロチロと出して毒を撒き散らす大蛇に見えることがあった。
「というわけで、僕が数学の補習を行う」
数学の成績がコダマの基準に達していない生徒は、奴の自宅で補習を受けるよう命令された。生物の教師であるコダマが、なぜ数学の成績に関与するのか。私は納得がいかなかった。コダマは、数学教師とは友達だと主張し、生徒の管理を任されているとデタラメなことを言っていた。その友達とは、風俗通いが唯一の趣味だという噂のある意地悪な数学教師だった。そんな教師とコダマが『トモダチ』関係にあることは、妙に説得力があった。
(最悪…)
ターゲットにされた生徒たちの名前が読み上げられた。私の名前もその中にあった。私はコダマの自宅には行きたくない一心で、親戚の集まりがあると嘘をついた。しかし、コダマはすぐに私の家に直接電話して確認したため、嘘がバレてしまった。案の定、私は平手打ちを食らい、土曜日にコダマの家に行くことが確定した。
当日、お土産を持参しなければまた文句を言われると思い、みんなで少しずつお金を出し合い、お菓子を購入してからコダマの自宅を訪れた。みんなの足取りは心に比例して重かった。
「あっ、ここだ」と、おしゃべりで明るい男子が教えてくれた。
目の前の家を見上げ、一同は愕然とした。今にも崩れ落ちそうなおどろおどろしい一軒家が、かろうじてそこに建っていた。その家はどう見ても幽霊屋敷にしか見えなかった。至る所に蜘蛛の巣がはり巡らされ、玄関前にはゴミが散乱している。ドアの周りには、手入れされずに伸び切った植物のツタが無秩序に垂れ下がっていた。みんなでいっせいに息をのんだ。
『コダマ』
そう書かれたボロボロの表札に、奥さんと思しき女性の名前も刻まれていた。
(奥さん、本当にいるんだ)
あんな性格の悪い夫と一緒に生活している奥さんは、一体どんな人なのだろうと、怖いもの見たさで少々興味がわいた。しかし、そんな興味はすぐに消え去った。
玄関のチャイムを誰が押すかで多少もめた。実際、誰ひとりとしてこの場にいたくなかった。「休日にコダマの顔を見るなんて」ここにいる全員、同じことを考えていたに違いない。
「遅れたら、また殴られるだろうから」
そう言って、おしゃべりで明るい男子が、思い切ってチャイムを押した。みんな口を閉ざし、ドアが開くのを待った。
ギーッ。
耳障りなきしむ音とともに、ドアが開いた。
「ようこそ、我が家へ」
うんざりするその顔が、ドアの隙間からひょっこりと現れた。相変わらずの汚れた黒縁のメガネが、顔に食い込んでいる。休日だというのに、学校と変わらぬシワシワのシャツの袖を乱暴にまくり上げ、くすんだベージュのしわくちゃのズボンをはいているのを見て、また吐き気がした。ただ、いつになく機嫌が良さそうだったのでホッとした。
昼間とは思えないほど異様に暗い玄関。明らかに電球が切れている。廊下の床や階段にはゴミや段ボールが山積みだった。足の踏み場すら見当たらない。玄関の横にある下駄箱の上には、明らかな不用品がびっしり置かれている。私たちの靴を置く場所がないくらい、ボロボロの汚い靴で玄関は埋め尽くされていた。
(いったい、何人家族なんだろう?)
奥さんの話はよく聞かされていたが、家族構成は耳にしたことがなかった。汚い玄関を見ていると、知りたくもない情報が目に飛び込んでくる。おそらく家族の人数より多いであろう、壊れた傘が何本も床に転がっている。その周りには出前のチラシが散乱していた。
(もう帰りたい)
埃アレルギーの私は、鼻がムズムズしてすでに気分が悪かった。玄関だけでアレルギー症状が起こるのに十分な量の埃を吸い込んだ。廊下の突き当たりの部屋のすりガラスのドアをコダマが乱暴に開けると、再びホラー映画に出てくる幽霊屋敷のようなドアのきしむ音がした。
ギーッ。
同級生たちは、恐る恐るコダマの後をついてゾロゾロと部屋に入っていった。私も意を決し、部屋に入ろうとした。その時、階段の上からものすごく不気味な気配を感じた。その気配は憎悪に似た感情だとわかった。その途端、誰かが立っているのを感じた。ハッキリと姿は見えなかった。しかし、暗闇の中に光る女性の目元が見えた。鳥肌がたち、早くみんなのいる場所に行きたいと思った。
「おじゃまします」
せっかくの休日に生徒たちが来るなんて、奥さんも大変だろうと思いながら、その姿をキョロキョロと探したが、見当たらない。同級生たちはどんどん中に進んでいった。
壁一面に、大きな食器棚や本棚がぎゅうぎゅうに並んでいた。その中には、干からびた食べ物がのった皿が見えた。食器棚なのに、帽子や雑貨などよくわからないものが詰め込まれていた。全ての食器の上には、埃がこんもりと積もっていた。
(ハッ!)
思わず声を出しそうになったが、必死で我慢した。本棚と食器棚の隙間に、お腹の大きな女性がうつむいて挟まっているのが目に入ったのだ。
(えっ?奥さん?)
床に座っているので、正確な体型はわからなかった。体が大きく、ボサボサの長い髪で、コダマと同じく汚い黒縁のメガネをかけている。冬用の黒いコーデュロイのマタニティードレスを着て、グレーの毛玉だらけのタイツをはき、床の上で編み物をしていた。
(赤ちゃん用の靴下かな)
「こんにちは」
私はもう一度声をかけた。奥では同級生たちがコダマの自慢話を聞かされているようだ。みんな居心地悪そうに立っているのが見えた。奥さんは下を向いたまま何も言わない。
「すみません。おじゃまします」と、私は再び挨拶した。
休日をつぶされて奥さんは機嫌が悪いのだろうと思った。手に持っていた差し入れのドーナツを手渡そうとしたその瞬間、
「何をたらたらやってるんだ、お前は」
イライラした様子で私に話しかけてきたコダマに、奥さんが受け取らなかったドーナツを渡した。
「たまにはお前も気がきくな」
みんなからの差し入れであることを伝えると、コダマの機嫌が少し良くなったような気がした。次の瞬間、
ボンッ。
床に座っている奥さんの頭をドーナツの箱でこづいた。そして、その箱を戸棚の中の干からびた食べ物の横に乱暴に置いた。私は奥さんの頭を叩いたコダマの行動を見逃さなかった。同級生たちは奥の部屋にいて、気づいていなかった。
「お礼くらい言え」
コダマが低い声でそう言うと、奥さんが私に向かって初めて軽く頭を下げた。私はそんな奥さんを気の毒に思った。
(奥さんも、殴られてるんだ)
私には帰る家があるが、この奥さんには逃げる場所がないのだと思うと、ものすごい悲しみがこみ上げてきた。
(ダメだ。この家の雰囲気に飲み込まれそうだ)
こんなところに何時間もいたら気持ちが沈んで苦しくなると思った。早く勉強を終えて帰るしかないと覚悟を決め、みんながいる隣の部屋へと逃げ込んだ。
そこには、この人数でどうやってノートと教科書を広げるのだろうと思うほど小さな子供用の低いテーブルが、狭い部屋の真ん中にひとつ置いてあった。みんな何か言いたそうな顔で、黙ってコダマの自慢話を聞いていた。
ゴホッ、ゴホッ。
私は埃で咳が止まらなくなっていた。数時間ここにいれば、間違いなく喘息になると確信していた。
(マスクを持ってくるべきだった)
とりあえず汗を拭うふりをして、ハンカチで口もとを抑えながら、勉強道具を取り出して膝の上に置いた。何度聞いたかわからない大学時代の話をする上機嫌のコダマを見ているうちに、実は初めから勉強なんかするつもりはなかったのだと気づいてしまった。
「だいじょうぶ?」
おしゃべりで明るい男子が埃アレルギーを心配してくれた。彼も埃が苦手らしく、私たちは目配せしながらなんとか我慢していた。
「お茶のひとつも出せないのか?」
コダマが奥さんに向かって暴言を吐く。私はあの埃だらけの食器でお茶など飲みたくないと思ったため、
「おかまいなく」と、とっさに言った。
すると、同級生たちが私に続いた。運よく、お茶は出てこなかった。ホッとしたのも束の間、コダマは勉強などそっちのけで、隣の部屋のレコードコレクションを披露してやると意気込んでいた。
「先生、勉強を教えてください」と言った男子たちを、コダマは殴った。
勉強会で勉強を教えて欲しいとお願いする生徒を殴る教師、もう支離滅裂だ。改めて言っておくが、これは作り話でも、ふざけているわけでもない。私たちの現実だ。
「見ろ。僕の宝物だ」
最終的に、私たちは隣の部屋に詰め込まれた。おそらく四畳半くらいの狭い部屋の床にびっしり並ぶ古いレコードコレクションを見ることになった。ザッと数えて三千枚くらいはありそうだ。そのレコードの重さで、古い家の畳の床がへこんでいた。そのレコードの上にも埃がたっぷりと積もっていた。
ゴホッ、ゴホッ。
コダマは古い埃まみれのアコースティックギターを壁から手にとった。テレビの特別番組で聞いたことがあるような『あの頃…』的なフォークソングを歌い出した。下手くそな演奏と歌声を聴かされる苦痛の時間は、永遠のように感じる。間奏の時に、何やら古い写真がひとりの男子に手渡された。
(どうせ、自分の写真だろうな)
見る前からうんざりしていた。
「若い!」
決してかっこいいとは言えないので、女子たちが無理に言葉を選んでコメントしていた。私は写真に「こっちに来るな』と呪文をかけた。しかし、写真のエネルギーの方が強かったようで、手垢だらけの曲がった古い写真が私の手の平にのった。写真すらも埃っぽかった。
そこには、相変わらず汚い黒縁のメガネをかけ、あぐらをかき、変なセーターを着て、ギターを弾きながら上を向いて歌っている若かりし頃のコダマが写っていた。
「歌手の〇〇みたい」
褒め言葉風のコメントはすでに出尽くしていたので、私は必死に言葉を探した。記憶の中にある、歌の上手い有名なフォークシンガーの名前を出した。私の中では精一杯のお世辞だった。それを聞いた同級生は、
「本当だ!そっくり!」
そう言って誰かが援護してくれた。すると、突然うるさいギターの音が止まり、また般若のような顔をしたコダマが私に向かって拳を振り下ろしているのが、スローモーションで見えた。
「どこが似てるんだ!」
ものすごく痛かった。よほど気に食わなかったのであろう。私に賛同した同級生も同じく殴られていた。
ゴホッ。ゴホッ。
私は一刻も早くこのゴミ屋敷から逃げ出したかった。
「ブーン」と言う不気味な声と共に、埃だらけのラジコン飛行機が私の肩にとまった。コダマが自分で作ったラジコンをお披露目しているのだ。
(やっぱり)
コダマが般若のような顔をして暴力を振るう時、同時に見える泣きじゃくる子供の顔は、コダマ自身の幼児性だと私は確信した。大きな毒蛇の中に潜んでいるのは、気が小さくて自信のない子どもだったのだ。私は決してこのことに触れてはいけないと、自分に強く言い聞かせた。
ゴホッ。ゴホッ。
「お前は、さっきからうるさいな」
(しまった。気づかれた)
「埃アレルギーと喘息もちだから、許してやってください」
私を庇うつもりで言ってくれた、おしゃべりで明るい男子の言葉が裏目に出た。
「埃だと?」
彼と私は案の定殴られた。この家に来た同級生は、ひとり残さず全員殴られた。休日に、補習という嘘の理由で自宅に呼びつけられたあげく、一度も教科書を開くことはなかった。汚い家で埃まみれのコレクションを見せつけられ、下手くそな歌とギターを聴かされただけだった。さらに、奥さんへの暴力も目の当たりにした。門限があるからと嘘をつき、私たちは逃げるようにゴミ屋敷を飛び出した。奥さんは、とうとう最後まで言葉を発さなかった。
「おじゃましました」
誰からも返事が返ってくるわけがないのを誰しもがわかっていたが、一応ていねいに挨拶をした。
ゴミだらけの玄関で靴をはいていると、再び階段の上の方から鋭い視線と深い憎悪を感じた。私は意地でもその階段の先にあるものを見るまいと思い、目の焦点を合わせないように斜め下を見ながらドアを閉めた。
これは自己流の単なる気休めだが、見たくないものや知りたくないことを感じてしまった時、息を止めて目線をそらす。そうすることで、『こっち』が気づいたことを『あっち』に気づかせないためのおまじないになる気がしていた。
(やっと、解放された)
決して大げさではなく、無実の罪で監獄に長い間囚われていた自分たちが晴れて釈放されたような、そんな気持ちになった。文字通り疲労困憊だった。
逢魔が時、藍色に染まった住宅街に、ひぐらしの鳴き声だけが響き渡っていた。
恋愛禁止
教室ではコダマから、部活ではホソカワから体罰を受けるという、ダブル体罰の日々が相変わらず続いていた。
『人生は自分次第で変えられる』といった言葉を用いて、苦しい現状に陥っている人を鼓舞する者がいる。『自分次第』という言葉は、いじめや体罰、暴力でがんじがらめになっている人にはまったく響かない言葉だと思う。見えないチェーンで拘束されている最中は、どうあがいても逃げ出せない。つまり、自分ではどうにもならないこともあるのだ。ましてや、未成年にはなおさら理不尽な励ましの言葉に聞こえるだろう。
バスターミナルまで続くポプラ並木が、緑から黄色にすっかり衣替えをした。校門の右手にある自転車置き場の横を通り過ぎると、ポプラ並木の大通りに出る。また、自転車置き場とは反対方向に歩いて五分くらいの場所にもバス停がある。時間に余裕がある時は、ターミナルまで十五分くらいかけてゆっくり歩く。私は、西行きと東行きの二種類のバスがターミナルにやってくるのを、待合所から眺めるのが好きだった。始発のため、好きな席に座ることができるのも魅力的だ。行き先が異なるカップルが、別れを惜しんでいる光景も素敵だった。
「いいなぁ」
朝晩の気温がグッと下がり、肌寒く感じるようになったせいか、女子たちは彼氏がほしいと部室で騒いでいた。不良がやりたい放題暴れていた、おぞましい中学校生活とは正反対の高校生活に、私は多少慣れてきた。しかし、恋愛話で盛り上がる女子たちに囲まれる生活には、まだ違和感があった。
「付き合っちゃえば?」
積極的に男子と交流するのが得意なマキは、彼氏彼女のいない女子と男子を引き合わせている。
ある日、マキと紀香がコソコソと相談しているのを偶然目撃した。サッカー部の男子と紀香の仲をマキがとり持っているようだった。紀香は急に大人びて、なんとなく秘密めいて見えた。しばらくして、紀香は無事にその男子と付き合うことになった。その実績から、マキの周りは彼氏を紹介してほしいと願う女子で常に賑わっていた。
(あっ)
窓の外に、あの女子生徒の幽霊が見えた気がした。彼女のことを幽霊と呼ぶのは気がひける。なぜなら、私には彼女の姿がハッキリと見えるからだ。彼女は美しい容姿を持ち、きちんと手足がある。女子たちの話に興味があるのか、そちらをジーッと見つめている様子だった。すると突然、彼女は私の方に目線を向け、静かに頷いた。次の瞬間、長い髪が彼女の体を静かに包みこみ、スッと消えた。
何か言いたげな表情だったが、なぜ私を見て頷いたのかわからなかった。ただ、女子生徒の幽霊は、私が見えていることを確実に気づいている様子だった。
「ダラダラするな!」
ホソカワが廊下で叫んでいる。蜘蛛の子を散らすように、みんな荷物を抱え、急いで廊下に飛び出した。
「男の話なんかして。チャラチャラするな」ホソカワは、壁を蹴りながらそう言った。
部室の女子の会話をホソカワが逐一把握しているのは怪しいと思っていた。部室は二重構造になっていて、奥の部屋を利用していれば、廊下に声が漏れることは考えられなかった。警戒していた私たちは、あえて奥のシャワー室のある部室を使用するようにしていた。そこで話している会話がどうしてホソカワの耳に入るのかが甚だ疑問だった。どうやら、部室内の情報をホソカワに密告している部員がいるようだ。
ホソカワには、強豪チームになるべく、普段から掲げている次のようなへんてこなルールがあった。
・男女交際厳禁
・部員は全員ショートヘアにすべし
・女性ホルモンを刺激するようなことはすべて禁ずる
部活後のミーティングで、目をつり上げ唾を飛ばしながら、憑きものがついたように、毎日このくだらないルールを繰り返す。
「いつになったら髪を切るんだ」
ショートヘアにすることを拒んでいる部員が泣いていた。癖毛の彼女がショートにすれば、手入れが大変だということはよく考えなくても誰にでもわかる。ホソカワは見せしめで言っているのだ。先輩もホソカワに同調している。だが、彼女は決して髪の毛を切ると宣言しなかった。彼女を罵倒するホソカワの声が薄暗い廊下に響き渡っていた。
他の部活動の生徒たちが次々に帰宅し、部室の明かりが一つずつ消えていく。この時間が私にとっていちばん心細い瞬間であった。部活を終え、リフレッシュした笑顔の生徒たちは、帰りに何を食べて帰るか楽しそうに意見交換している。彼らが私たちのミーティングの後ろを通る時は、さっきまでの爽やかな笑顔が完全に消え去る。揉め事に巻き込まれないよう、彼らは細心の注意を払ってホソカワに挨拶をする。そんな彼らにホソカワは器が大きい大人を装って気前よく挨拶をする。ひとたび彼らが通り過ぎると、途端に鬼の形相に戻り、私たちに暴力を振い出す。他の部活の生徒たちは、こちらを決して振り返らない。たとえ、女子バスケ部に彼らの彼女がいようとも、まるで別の次元に入ったかのように私たちの側から足早に去っていく。私は彼らの後ろ姿を見るのがいつも苦痛だった。
この高校には定時制があるため、夜の授業が始まる音が上の階から聞こえてくる。定時制のクラスには、私の中学校時代の同級生がひとりいた。偶然、彼と廊下ですれ違ったことがある。彼は不良だったが、小学校からの同級生で気心が知れている。彼から攻撃されることはなく、安全な存在だった。
「なにあれ、ダサい」
ある日、見覚えがある不良女子の先輩ふたりが校内にいた。どうやら、補修工事作業員として働いているようで、真っ赤な長袖シャツを着て、ショッキングピンクの作業ズボンをはいていた。いまだに不良のスタイルを維持している彼女たちを見て、生徒たちはクスクスと笑っていた。
私が中学一年生の時、まったく話したこともない彼女らに、気に入らないという理由で「ヤキを入れる」と言われたことがあった。『ヤキ』とは、いわゆるリンチや暴行のことである。結局、毎日欠かさずに挨拶をすれば許してやると言われ、暴行はまぬがれた。
「こんにちは、です」
私はふたりの前に立ち、当時指定された挨拶の仕方で、足を止め深々と一礼をして挨拶をした。金髪のふたりは顔が真っ赤になって下を向き、
「ウス」と、小さな声で言った。
「なんでお辞儀してんの?」
不思議そうに聞いてくる紀香に、私はふたりに聞こえるように大声で言った。
「こうしないと、ヤキが入るから」
ふたりは恥ずかしそうに、大きな体を小さくして、壁の方を向いて作業するふりをしていた。私はその瞬間、不良からの酷い仕打ちに耐えた日々が少しだけ報われた気がした。もちろん、それはあくまでも一瞬のことだったが。
ある日、なぜかマキが私に風変わりな男子を紹介してきた。私と彼が合うわけがないことを第一印象からわかっていたのに、また私の心のモザイクが作動したのだ。
案の定、彼とはまったく話が合わなかったし、合わせる気もなかった。ところが、彼からおかしな電話がかかってくるようになった。ひたすら自慢話をする彼の話を聞いているふりをしながら、私は女子生徒の幽霊のことを考えていた。
(あの子に会うには、どうすればいいんだろう)
私はあの幽霊の女子生徒にかなり興味があった。学校祭の日、廊下で金縛りにあって以来、彼女は私の目の前に頻繁に現れるようになった。バナ先輩とも校舎で偶然すれ違うことが増えていった。
部活終わりに、部員に語りたいことがあると突然呼び出された。彼女は、マキが私に紹介してきた風変わりな男子と付き合うことになったと、泣きながら打ち明けてきた。もう苦痛な電話をしなくてよいと思った私は内心ホッとした。ただ、あえて深刻な顔をして、ふたりを応援すると慎重に伝えた。嬉しそうな彼女を見て、私は安堵した。
ところがその日の夜、風変わりな男子は何ごともなかったように電話をかけてきた。彼女と付き合っているのを知っていることを伝えると、同時進行でも問題ないと言ってきた。鳥肌がたったと同時に、心のモザイクが一瞬で消え去ったのがわかった。もう二度と電話してこないよう釘を刺した。
「男といちゃついているから、たるむんだ」
ホソカワがそう叫びながら、体育館で暴れていた。すぐ隣のコートでは、男子バスケットボール部の顧問と部員が練習をしている。女子バスケ部との間にまるで防音の壁でもあるかのように、彼らは必死で知らないふりをし続けていた。隣で女子が殴られていようが蹴られていようが、我関せずの男子部員と顧問のことを、私は好きにはなれなかった。
彼氏と歩いているところを見られた先輩が、ものすごい勢いで殴られた。突然こちらをふり向いたホソカワが、笑いながら私たちにこう言った。
「一年、よく聞け。お前らも男にこびたらこうなる」
みせしめのように顔面をバスケットボールで殴りつけられた先輩は、よろけて床に倒れた。慌てて別の先輩が助けに入ると、ホソカワはその先輩も蹴り飛ばした。
(鬼だ)
私はそう思いながら恐ろしい光景を眺めていると、ホソカワの真上に気配を感じた。
(あの子だ!)
体育館の上には窓があり、人がぎりぎりひとり通れるようなスペースがある。窓際には暗幕用の紫色のカーテンが天井からぶら下がっている。幽霊の女子生徒は、そのカーテンの横から顔を出してホソカワを見下ろしていた。彼女は私が見ているのに気づくと、二年生の大堀先輩の方を指さしてきた。
(なるほど)
もともと薄っすらと頭の中にあった疑念が、彼女の指差し行動で確信に変わった。
(ホソカワのスパイだ)
彼氏がいる女子部員をホソカワにリークしているのは、大堀先輩だ。部活の説明会で和気あいあいとしたチームだと偽った時から、彼女の調子の良さに何となく不信感を抱いていた。
再び見上げると、幽霊の女子生徒は消えていた。その日のホソカワは虫のいどころが悪かったらしい。彼氏のいる先輩たちに、ひたすら殴る蹴るの暴行を加えた。練習後、鋭い目つきをしたホソカワが、女性ホルモンの活性化がスポーツ選手に及ぼす悪影響について熱弁していた。幸い、職員会議のためにいつもより早めにミーティングが終了した。
私と紀香は、ほとんど誰もいなくなった体育館でモップがけをしていた。隣のコートでは数名の男子がシュートの練習をしている。
「バレるのも時間の問題かな」と、紀香が無表情で言った。
紀香はボールを勢いよく掴むと、遠くのゴールに向かってシュートした。サッカー部の彼との付き合いをつらぬくつもりなのだろう。私は彼女の味方だ。リングに当たったボールが、隣のコートまで飛んでいった。
私は小さな賭けをしてみようと思った。
(これが入ったら彼氏ができる!)
まったく何の予定もないのに、願かけをして遠くからシュートを放った。ボールは高く上昇し、きれいな放物線を描いた。そしてゆっくりとゴールに向かって落下していった。ボールを拾い、戻ってきた紀香はその光景をボーッと眺めていた。
ゴールネットにボールがストンと落ち、シュッという音が確かにした。得意げになった私が、紀香に両手でピースサインを向けようとしたその瞬間、
ゴンッ。何やら鈍い音がした。
(やばいっ)
外練習を終えたサッカー部員たちが、体育館の二階にある一年生用の部室に着替えに戻ってきた時だった。疲れた顔をした部員たちが、ゾロゾロとバスケットゴールの下を歩いていた。運悪く、ちょうど信玄が真下を通った時に、私のボールが彼の頭に直撃したのだ。私は一瞬凍りついたが、すぐに彼に駆け寄って声をかけた。
「ごめんなさい!だいじょうぶ?」
信玄は片手で頭を押さえて無理やり笑顔を作り、だいじょうぶと言ってくれた。私は彼が部室に入るまで何度も謝った。彼は同じく何度もだいじょうぶだと言ってくれた。紀香の彼の親友の信玄は、背が高くてかっこいい。彼はサッカーが上手で、一年生なのに先輩よりも評価が高く、既に試合に出ているらしい。
ショックだった。よりによって信玄に当たるとは。私は密かに彼に憧れていたので、その思いが打ち砕かれたように感じた。憧れと言っても、たまに廊下で見かける彼の姿を見て嬉しくなる程度で十分だった。ホソカワの男女交際禁止のルールを破って罰を受けている先輩たちを見ていると、自分がルールを破る勇気など出ないのが正直な気持ちだった。かといって、ホソカワに忠誠心があるわけでもない私は、自分の密かな楽しみが打ち砕かれたような気がして気が滅入った。
第4話へ続く
Kitsune-Kaidan
第4話はこちら
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