心の隔たりがなくなるとき
今日は、澁澤さんのベトナムのお話をそのままお届けします。
ベトナムは共産主義の国で、ベトナム戦争を経験しました。
フランスや、日本の支配から独立をして、すぐにアメリカがやってきて、戦争の苦しい時代を長く経験した人たちの国です。
アメリカとのベトナム戦争の間、マングローブ林は大変な被害を受けました。
マングローブ林というのは上から見ても葉が茂っているし、ボートで中に入ろうとしても根っこが複雑に入り組んでいるので、中に人が入ることができない。その中がまさにベトコンと呼ばれるベトナムのゲリラの人たちの生活の場であり、隠れ家であったという時代が長くありました。
そのため、アメリカ軍はマングローブを全部枯らしてしまって、裸にしてしまえば、ベトコンを一斉に探し出して殺すことができると、多量のダイオキシンをまいたのです。
ダイオキシンの海の中、枯れ木の中から、ベトナムの人たちは植林をしてきました。
ベトナム戦争を率いてきたベトナムのトップは、市の名前になっている「ホーチミン」という人でした。
彼はベトナム戦争の最後を見ないでなくなるのですが、生前「自分の子供たちのために学校をつくれ、自分の孫たちのために木を植えて森をつくれ」と話していたと聞きました。
まさにアメリカ軍の空爆のさなか、夜になると、人々はマングローブの苗を植えて、マングローブ林を復活させようと努力してきました。その努力を少しでもサポートしたいということで、ベトナムのカンザーというホーチミン市から東南に行ったサイゴンデルタ、サイゴン湾の河口近くで、ミャンマーに行った仲間と一緒にマングローブ林の植林をしていました。ミャンマーに行く前にベトナムに行ったので、マングローブ林ってこんなところなんだということを初めて知りました。
マングローブって年間に1mずつ成長するとても成長が早い木なので、私が行った頃にはすでにマングローブ林が所々に復元していました。今考えればダイオキシンの海みたいなところなのですが、自然というのは強烈な復元力を持っていて、夜その川を一人で泳いでいると、マングローブ林の中の水路みたいなものがおぼろげに黒く見えるのですが、その両脇の木には蛍が無数についていて、それが点滅するのです。それは、クリスマスツリーの森の中を一人で泳いでいるという、本当に素晴らしい感覚でした。
そのころはダイオキシンといってもあまり詳しく知らなくて、枯葉剤ということでかろうじて知っていたくらい。そのうちにダイオキシンの害が盛んにテレビでいわれるようになって、当時のテレビ局の「宇宙船地球号」という番組が特集してくれることになって、私たちがフィールドにしているマングローブ林と、東京湾のダイオキシン量を比較してくれたのですが、それには本当にびっくりさせられました。なんと、その時、東京湾のダイオキシン量が、カンザー地区のダイオキシンの海だったところの100倍くらいだったのです。
東京の場合は大きい川がいくつも東京湾に流れこんでていて、その川筋川筋にごみの焼却場があったり、人間の生活があったので、東京湾というのは、そういうものがまさに凝縮された、煮詰められたようなところで、濃度が非常に高くなって流れ込む。逆に栄養分もとっても豊かな海なんですけどね。
そういう意味では私たちが行ったサイゴンデルタは、逆に外に流れ出してしまう地形なので、その辺が違うのか、それとも、その時の現地の人たちが話していたのは、森が浄化してくれているんだ、ナウシカではないけれど、この森が、人間が生んだ汚いものを浄化してくれているんだといっていました。
そんな中で私たちは植林をするのですが、確かに現地の人たちは、ホーチミンさんの思想に共鳴して植林を手伝ってくれるのですが、私たちは日本人なんですよね。かつての支配国であった日本人がやってきて植林をするわけです。ある意味、敵国の人たちが環境問題だといって木を植える。ホーおじさんの教えで共産党の若い人たちとか、思想的にはっきりしている人たちは協力してくれるのですが、一般の人たちから見ると胡散臭い。なんとか、一般の人たちに植林を受け入れてほしいなーという思いがあって、喜納庄吉さんと加藤登紀子さんの伝手をたどって二人に頼んで、みんなで一緒になれるようなコンサートをやりたいと言ったら、二人とも快くベトナムの田舎まで来てくださった。
コンサートをやるからと言って、地元の共産党の若い連中たちが初めてコンサート会場を設営した。
そんな大きいコンサート会場なんてそんなところでは初めての経験で、いざコンサートが始まると、村人たちはおそるおそるというか、何をやるんだ…という感じで来てくれた。
ところが、何曲か歌ううちに、一斉に電機が落ちてしまった。今までそんな電力を使ったことがないので、村中真っ暗になってしまったのです。みんな白熱灯一つくらいのところで暮らしていますが、それも全部なくなってしまって、当然アンプも使えない。音が全然出ない。その時、喜納庄吉さんとチャンプルズだったのですが、彼らが三線を弾き始めたのです。
全く真っ暗ななか、みんながざわざわする中で、三振の音が響いて、しんとなりました。
彼らは「花」を歌いました。実は「花」はベトナムでもヒットしていたのです。ベトナムと国境を接しているカンボジアでも、タイでも、ラオスでも「花」を歌うことができるのです。私たちの仲間の一人が、ラオス語で「花」を歌い、カンボジア語で歌い、最後にベトナム語になった時に、それまで本当にぎすぎすしていたコンサート会場の全員が、ベトナム語で「花」を歌ったのです。真っ暗な中…。
コンサートが終わって、こちらは迷惑をかけて、村の電気全部停電させてしまったわけだから、申し訳ない申し訳ないと謝ったのですが、「いやあ、俺たちは昔からアメリカの爆撃で慣れている」といって、ろうそくを持ち出してその日は帰っていきました。
その翌朝、町を歩いたら、全部の家から声がかかるのです。「朝飯を食っていけ」と。
一つになれたのです。
「マングローブって環境は大事ですよ」とか、「ホーチミンさんも言ってたでしょう」とか、それから「地球環境がどんどん悪くなっているときにみんなで木を植えてきれいな村にしましょう」とか、いくら言っても理屈で分かる人なんてほんのわずかです。それは日本も同じです。私が長く経験した70年近い中でも、理屈で人は動かない。ところが、みんなで真っ暗な中、一緒に歌をうたったら、心が動いたのです。音楽の力ってすごいなーと思いました。
結局、僕たちが社会の中で生きていくときに、ほとんど言葉による情報、あるいは目に見える情報で、すべてのことを判断しているし、それでコミュニケーションが取れているつもりになって生きていますけど、いかに目から入ってくる情報以外の、例えば匂いだとか、味だとか、言葉にならない、体が震えるような、今の言葉でいうと「非認知的」というのですが、言葉にならないものの力って、すごいなと思いました。
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