教育を図る定規
今日は教育について考えたいと思います。
―澁澤
中尾さんらしからぬテーマですね(笑)。
―中尾
澁澤さんは反抗期ってありました?
―澁澤
なかったと思います。
私は一人っ子なんですよ。結局一人で遊んでいることが圧倒的に多かったので、相手が困るような濃い人間関係はなくて、私のまわりは犬であったり猫であったり、植物だったり…というのが私の人生のほとんどの相手でした。
―中尾
学校ではどんなお子さんでしたか?
―澁澤
学校では、私はよくわからないですが、成績は良かったです。その横に先生がいつも書いてあるコメントは、「情緒不安定。もう少しまじめに一生懸命授業を受けましょう」と書かれていましたし、小学校5~6年生の時には、後で聞いた話ですが、進路面談で親と先生との面接のときに、「この子をこのまま放っておくと、詐欺師かなんかになって刑務所に入ることになる。まあ詐欺師になるか大経営者になるかどちらかですねえ」と。それくらいいい加減な奴だといわれて、親は頭を抱えたと言っていました。
適合できなくはないけど、適合することにあまり興味がなかったですね。
―中尾
ほんとですか(笑)
それは小学生?中学生?
―澁澤
小学校ですね。中学になって生徒会活動をしたり、運動部に入ったりして、少し集団にあわせたりとか。
―中尾
言葉があっているかどうかわからないですが、それって野放し状態ですよね?
―澁澤
そうですね。
―中尾
ということは澁澤さん的には好きにできて、自由で、ストレスはないわけですよね?
―澁澤
私は、ストレスは全くなかったですね。
―中尾
私も、意味は違いますが、全くストレスなく生きていたんですよ。学校にいたくない時は勝手にフラッと学校を抜けて梅田なり心斎橋なりで勝手に映画見て帰ってしまったり、不良ではないので目立たないし、とがめられないし、親も放任主義で知らないし、怒られたことがないのです。
―澁澤
で、そんな二人が教育を語って良いのですか?(笑)
―中尾
確かに(笑)。だけど、これって、意外と大事かもと思ったりして。
お子さんには困ったことはなかったですか?
びっくりされたこととかあります?
―澁澤
いろいろ問題はありましたね。上の女の子は、ある日髪の色が突然オレンジ色になっていました、高校生くらいだったかな。下の男の子は、かみさんの指輪を好きな女の子にあげてしまったり…それは小学校の時かな。学校に呼び出されて、大変ですよと言われたことはありますが、まあうちの親もそうだったろうなと思っていたので、こっちもあんまり意識しないですね。「別に大したことじゃないですよ」って感じ。
―中尾
「別に…」って感じで放っておくと、またそれなりに生きていくってことですよね?!
澁澤さんはお子さんたちに、何もおっしゃいませんよね?
-澁澤
あんまり言わなかったですね。
―中尾
言わないのが、大事なのかな。それは「信頼」ですか?
―澁澤
自分自身に置き換えると、言っても聞かなかったろうなと思ったことが大きかったと思います。後から聞くと、上の女の子は、言われなかったから自分の好きなことを自分のペースでやれたと肯定的にとらえているけど、下の男の子は、もっとちゃんと言ってほしかったと言いますね。要するに、その方が楽だった。親の要求を言ってくれたらそれに合わせればよかったけど、放任されたがために、自分で考えなければいけなかった。彼の場合は私の時代と違ってゲームが盛んになっていたので、ゲームに逃げ込むことができた。ずーっとゲームに入っていってほとんどの時間をゲームに費やしてしまった。今から思えば、あの時もっといろんな人に触れたり、本を読んでいたら、今の人生にもっとプラスになっていただろうと思うことがあると。人生に無駄はないと思うけど、あの時もっと親が止めてくれればよかったのにといわれることがありますね。
―中尾
なるほど。
なぜ、そんなことを聴くかというと、実は、私の友人の3番目の子が髪を染めて困っているというのです。どうしてよいかわからないと。
で、それって何かなあと考えてみたのですが、自己主張ですよね?
何かに反抗していて、それが家の中なのか、外なのか、もしかしたら、そうでないならば誰かにやらされていて、それを知ってほしいのか…
―澁澤
だけどね、困ったのはその子の髪の色が変わったことではなくて、洗面所の流し台の色が変わることの方がよっぽど困るんですよ。(笑)
その程度のことですよ。
―中尾
その程度のことですよね(笑)。長く見た方が良いですよね。
と、私も思います。だけど、その時はこれじゃあだめだってほとんどの親は思います。
―澁澤
たぶん、親よりも自分が思うんでしょう。自分を変えたいのでしょうね。
―中尾
「まともって何?」ってことですよね。
―澁澤
そうですね。
だけど、教育って、今までの教育がどちらかというと社会の統一感みたいなもの、それをどう作っていくかということが重要だと思っていて、できればそれは教えるのではなくて、学校という場でクラスの中の人間関係の中でそういう大切さを身につけてほしいという教育が重要だとしてきたから、先生方は校則を厳しくしたり、そういうことを気づけるように導こうとしてきたのだと思います。
―中尾
校則をつくることで、わかりやすくしているだけですよね。
―澁澤
そうです。要するに多様性がそれだけあるので、校則というものでタガをかけないと、頑張ろうというだけではそれぞれの子供たちの頑張ろうが違いますから。
―中尾
「多様性」は、今は推奨していますよね?
これからの教育は変わっていく可能性がありますか?
―澁澤
今は、「多様性」を推奨しています。
教育は、これからはものすごく変わりますが、「これから」がいつからかというのは微妙で、少なくとも今の先生方は、前の時代の価値観の教育を受けていますから、急に変えることはできません。それから、やはり教育って、自分と似たような人をつくろうとします。自分しか定規がありませんから。
―中尾
先生の幅が狭いのですね…
―澁澤
それは先生だけじゃなくて、大人ってそういうものなんじゃないですか?
中尾さんだってそうですよね。人を見るときに、やはり自分の定規ですよ。私はあの時こんな苦労をした、だからそれができている彼はえらいとか、私は学校なんかに縛られない、もっと自由だったけど、あの人はどうしてそんなに縛られるのかしら…と。
やはり、みんな定規は自分なのです。それが正しいか正しくないかは別として。その定規を教育というのは必ず持つことになる。たぶんこれからは、先生は子供自身がその定規をいろんな社会の接点の中で見つけていく、それを調節してあげたり、ある時は手を貸してあげる。それぐらいの役になってくると思います。
―中尾
先生の意味が変わってきますね。
―澁澤
変わってきます。先生が子供に教えるということは限りなく少なくなって、コンピューターが教えるか友達が教える。それもソーシャルネットワークを通して。教え合うということはそれで済むようになって、先生よりもはるかにたくさんの知識をコンピューターがもっていますから。
―中尾
ということは、知識ということに関してはコンピューターに教えてもらった方が良いということですね?
―澁澤
子供たちはどの知識に正しくアクセスできるかという能力が、能力になる。
―中尾
知識はAIに教えてもらうとなると、先生は『人』を見るようになるのですね?
―澁澤
先生は、この子はこの辺のバランスが崩れているかもしれないな、将来自分を閉じ込めちゃうなと思ったら、そこから引きずり出したりとか、またある時は心が折れそうになっている子を支えてあげたりとか、一人一人のその時の状態をどう的確に、愛情をもって自分で感じることができるか…それは数値で表されることではないので、感性としてそれを感じられるかということが重要ですが、教員の教職課程の中でそういうことを教えるということはあまりないのです。
―中尾
先生はそう変わっていくだろうということはわかりました。では、親子の関係はどうなっていくのでしょう?
―澁澤
親と子の関係は、いろいろな関係がありますよね。
一概にこうだというふうに、今までの話の流れの中で語ることは難しいけど、当然子供の多様性を認めていくことでしょうね。
例えば、今の小学生に将来なりたい職業を聞くと、「ユーチューバー」という子が一番多いです。ところが、親の世代から見ると、「お前何を考えているんだ!」という話になる。ユーチューバーという職業は、親の時代には存在しなかった訳です。今はそういう時、時代が変わる、あるいはまたユーチューブから、違う媒体が出てくるかもしれないけど、そういうようなものをどう使いこなすかということが、文房具をどう扱うのかということと同じ感覚だ、くらいに親が思えるかどうかということでしょうね。
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