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澁澤寿一さんのこと

「キツネラジオ♯5」から、一緒にラジオを作ってくださるパートナーをご紹介します。
 澁澤寿一さんです。そう、アノ澁澤さんです。『青天を衝け』の主人公・澁澤栄一さんは、曾祖父。栄一氏の三男・正雄氏の孫にあたります。私の大好きな民俗学者・宮本常一さんのパトロネージュをされていた、澁澤敬三さんも寿一さんの父の従兄弟、栄一氏の孫です。そんなご家族にお生まれになった、澁澤寿一さんが、なんと、キツネラジオのパートナーとして一緒に番組を作ってくださることになりました。
「なんで…?」と思われている方も多いと思いますので、出会いからお話ししますね。
先週までのnoteを見ていただくとわかりますが、私が32歳で伊勢に行って、千年の森シンポジウムのお手伝いをした後、「私は何をするために生まれてきたのかなあ」と、ずーっと考えていました。
そんな時、シンポジウムでご一緒させていただいた神職さんから、「澁澤寿一さんに会ってみない?」と誘われて、ご紹介いただきました。
当時、私は34歳。澁澤寿一さんは1952年生まれですから、43歳でした。
その時の澁澤さんは、長崎の「ハウステンボス」という事業を企画から立ち上げて、役員として経営されていましたが、42歳でやめられて、「これから何をしようかな」と迷われていた時期で、レベルは違いますが、同じ状況でした。
ハウステンボスというのは、長崎県佐世保市にあるオランダの町並みを再現したテーマパークですが、実は、ただのテーマパークではありません。もともとハウステンボスの前身に長崎オランダ村があって、東京ディズニーランドのオープンと同じ年に、開園しました。その当時はテーマパークという言葉もなかったので、西海橋から長崎市内へ向かう道路に沿った土地、そこで、ドライブインを大きくしたような形でオランダ村を始めていたそうです。オランダ村を始めたのは、地元の人たちです。東京の資本でも、大手の海外の資本でもなく、地元の人たちが、地元をどうにか良くしよう、農業で生活ができない時代になっていたので、自然環境を壊さないように、地元に雇用の場を作りたいと始めた事業でした。
ハウステンボスも全く同じ思想で、今考えられる環境技術というもの、エネルギーも水も、ごみの問題もありとあらゆる世界の最先端技術を導入してつくった環境問題を解決するための町がハウステンボスのもう一つの側面です。
ずいぶん前のことですが、『ハウステンボス町に初めての赤ちゃんが生まれました』というニュースをテレビで見て、びっくりしたことを覚えています。「ハウステンボス町」ということは、入り口があって出口があるテーマパークではなくて、人の暮らしがあって、観光客も来られるようなところ、それをミックスして新しい街をつくろうというのが最初の理念だったのです。けれど、徹底的に環境に配慮したまちづくりをされたにもかかわらず、そのことをご存じの方はあまりいません。当時は(今も変わらないかもしれないけど)、「環境」で人を呼ぶことはできないと誰もが思っていました。観光客を呼んで収入を得ることと、環境をよくすることとは違う問題だと。乱暴な言い方かもしれないけど、観光で来るお客さんたちには、大量消費してもらって、ごみも捨て放題捨ててもらって、それをちゃんと環境技術で処理しますよ。そこに住む人も、どういう考えで環境を大切にしようとか、そんなことも考えなくてよいですよ…ということだったのですが、本当にそれでよいのか…と悩んでおられたそうです。特に、視察に来た発展途上国の留学生たちが絶望しているのが、ショックだったそうです。「僕らの国には金がない。仮に日本の技術を分けてもらったとしても、金がなければ、環境問題は解決できないのか」と。当時は、バブル時代の真っただ中で、地元の農家の人たちの手による事業であったにもかかわらず、3400億くらいの費用をかけてつくられたのです。澁澤さんは、ハウステンボスの役員をされていましたから、お金を稼ぐことが至上命題でした。環境をどんなに良くしても、ほめられることはなく、先輩から、
『あなたは交渉力もあるし、企画力もあるし、ちゃんと話もできるし、部下をまとめることもできて能力は申し分ないんだけど、君のやることはお金にならないね。お金にならないというのはこの世の中では仕事をしていないのと同じだよ。お金というのは、人が評価して還ってくることであって、お金を稼がない労働は仕事でも何でもないし、この世の中では意味のないことだ』といわれました。
実は自分自身でも、そうかもしれないと思っていたそうです。
これがきっかけとなって、それが本当なのか本当ではないのか、革新が持てなかったことを、会社を辞めて、もう一度昔働いていた発展途上国を見て、確認できるかなと思ってやめたのだそうです。
そうしてハウステンボスをやめたのが42歳の時。とはいっても、どうやって食べていくか…と、日々考えておられたときに、私は初めて澁澤事務所を訪ねました。
初めて伺った澁澤事務所は、旧丸の内ビルヂングにありました。
余談ですが、現在では珍しくないオフィスビルの商業施設も、日本においては丸ビルが先駆的に導入。1912年関東大震災での国内最大のビルとして誕生しました。現在の丸ビルは、2002年に立て替えられたものですが、私がうかがったのは、古い丸ビルにあったオフィスでした。
東京駅前のビジネス街を代表する石造りのビルに入ると、大きなエレベーターホールがあります。6階で降りると、たくさんの人が出入りする大きな会社の向こうに、ひっそりと一つの木のドアがありました。外側は壁の色に合わせてグレイに塗ってありましたが、ドアノブは真鍮で、そのドアを開けるともう一つ木調の重厚なドアがあり、あけると正面に大きな花火の油絵が掛けてあって、照明も少し温かみのある優しい色で、まるでイギリス映画に出てくる法律事務所のようでした。秘書の方と事務員の方、二人の女性がいて、澁澤寿一さんの大きな机の斜め前の壁には、渋沢栄一さんと正雄さんの写真がありました。ドアの向こうは、三菱マテリアルやキリンなど、大企業の大きなオフィスでスーツを着たビジネスマンたちがせわしく走り回る中、タイムスリップしたような空間がそこにはあり、座り心地の良いソファに腰かけて、澁澤さんとお話ししました。
 初めてお会いした澁澤さんは、とてもお年を召した方だと思いました。語り方がとても上品で穏やかで、私の30数年の人生で、会ったことのない種類の人でした。ずいぶん後になって、私と9年しか変わらないと知って、とても驚きましたが、あれから25年、全然変わっていらっしゃらないのが不思議です。
 その時の私は、渋沢栄一さんのことも存じませんでしたので、なんのお話をしてよいやら、世間話をしながら迷いに迷って、「私、世間師になりたいんですよね」といったのです。その瞬間、澁澤さんはびっくりされて「はぁ~」と、おっしゃったのがとても印象的でした。

澁澤寿一さん略歴

1952 年生まれ。国際協力事業団専門家としてパラグアイに赴任後、長崎オランダ村、ハウステンボスの企画、経営に携わる。全国の高校生100人が「森や海・川の名人」をたずねる「聞き書き甲子園」の事業や「なりわい塾」など、森林文化の教育、啓発を通して、人材の育成や地域づくりを手がける。岡山県真庭市では木質バイオマスを利用した地域づくり「里山資本主義」の推進に努める。明治の実業家・澁澤栄一の曾孫。農学博士。

キツネラジオ♯5

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