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趣味がないという人の話
会社員時代に衝撃を受けたことの一つとして、「私には趣味がありません」という同僚があまりにも多かったことがある。
確かに、博報堂生活総研の意識調査「生活定点1992-2024」によると、「自分は無趣味である」と答えた人の割合は22.5%となっており、4~5人に1人は無趣味ということになる。
無趣味と自称する人がこれほどまでに多いのは不思議だった。
「では、あなたにとって人生の楽しみは何ですか?あなたは何のために生きているのですか?」と思えてならなかった。
なんなら、「あなたの趣味は何ですか?」と尋ねることすらはばかられた。
シュミハラとでも言うべきだろうか。そこには、「趣味はあって当然のもの」という前提があるからだ。
しかし、社会人8年目になって北海道から東京へ転勤した私は、普通に生きていると趣味がなくなる理由がわかった。
先輩は会社に向かって滑っていった
私自身は「趣味は何ですか?」と訊かれたら、「登山です」と答えるようにしている。
学生時代からかれこれ15年続いている趣味だ。
特に、社会人になったと同時に配属された北海道は、最高の環境だった。
当時は勤務地であった新千歳空港の近くに住んでいたが、車で30分も走れば山へ行けるという好立地だった。
北海道はだいたいどこに住んでいても、山へのアクセスが良好である。
夏は19時を過ぎても明るい日が多く、仕事を早めに終わらせ、夕方から支笏湖周辺の山をひと登り、なんてこともできる。
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冬もしかり。
シフトで15時から勤務が開始する日もあったため、そういう日には早朝から山スキーに出かけた。
正午に下山。その後帰宅して昼食を摂り、身支度を整えて出勤した。(ちなみに自宅から職場へはドア to ドアで20分)
パウダースノーをひと浴びした後は、猛烈に仕事が捗った。
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一緒に山スキーへ行った後輩は、私が映っている写真や動画を無断でSNSに投稿し、「先輩は会社に向かって滑っていった」というコメントを付け、プチバズを獲得していたらしい。
これは私にとって、革命的だった。
登山が、「休日に丸一日費やしてやるもの」だけでなく、「仕事のある日にもできちゃうもの」にもなったからである。
こうして、趣味が限りなく日常に溶け込んでいった。
そして流刑
そんな華やかな日々にも終焉が訪れた。
極楽安寧の地たる北海道から、内地への島流しを命じられたからだ。
羽田空港に勤務することとなり、横浜に移り住んだ私は、絶望した。
人工物で覆いつくされた灰色の世界。行く先々に人・人・人。
(なんだこれ、山に行けねえ。。。)
そもそも、関東平野を脱出することすら困難だった。
首都圏在住の方はご存じだろうが、幹線道路や高速道路は週末になると必ず渋滞する。
例えば中央道の小仏峠や東名の厚木~横浜町田なんかは、日曜の夕方になると2時間も渋滞にはまる。
じゃあ電車で山に行けばいいじゃんと思うかもしれないが、高尾山や丹沢のような公共交通機関で行ける山は、アクセスの容易さゆえに登山者が多く、休日は登山道で大渋滞が起こる。
あまりにも人が多いので、もはや自分が山にいるのか下界にいるのかわからなくなってしまう。
せっかくストレスを発散しに山へ行っても、渋滞や混雑でストレスが溜まってしまうのである。
こうして、私は山に行かなくなってしまった。
山という趣味を取り上げられた私は、いつしか関東平野を巨大な強制収容所だと思うようになった。
小仏峠よりも西側(大月とか)に住もうと画策したことはあったが、会社が定める通勤圏外であることが判明し、頓挫した。
八王子ならギリ圏内だったが、小仏峠を越えなければ意味がない。
強制収容所の囚人たちには小仏峠という獄門を越えられないよう仕組まれていた。
無趣味=コスパ最強
登山に限ったことではないが、都市部の囚人(労働者)にとって、週末の外出はとにかくコスパとタイパが悪い。
割高な休日料金が設定されているくせに、混雑しているのでサービスの質は低下する。
何をするにも渋滞や行列にはまり、時間を無駄にする。リフレッシュするどころか、疲弊する。
要するに、カネと時間をかける割には満足できないのである。
だったらもう、どこにも行かず家の中でYoutubeやネトフリ見てた方がいいよね、ってなる。
もちろん、動画視聴にオタクレベルの強い熱意を持っていれば、それは立派な趣味といえる。
しかし、たいていの場合はそうはならず、消費して「はい、おしまい」ではないだろうか。
とにかく時間を搾取されている囚人は、平日は通勤と仕事でほぼ一日が終わる。
そして休日はどこにも行かず、だらだらと過ごす。
こうして趣味のない人間が出来上がるのである。
そう、これは何を隠そう、山という唯一の楽しみを剥奪された私自身であった。
魂を北海道に置き去りにした私は、上司の指示で自動的に動くただの抜け殻になっていた。
そりゃ会社員やっていれば、趣味なんてなくなりますわ。
どうすれば趣味が見つかるか
ある新しいことをした瞬間に、「これは趣味になる!!」と感じられるものなんてほとんどなく、趣味とは自然と見つかるものではない。(本能的にビビッとくるものもあるかもしれないが、そういうのは稀)
むしろ趣味とは、あることに何度も挑戦したり、試行錯誤を重ねたり、時には面倒な事務作業をこなしたりした後に、結果が出たり、成長を実感したことで認定されるものではないだろうか。
となると必然的に、趣味を見つけるためには、多かれ少なかれ時間や金銭、労力を費やすことが条件となる。
どんなことも取っ掛かりは大変だ。
学ばなければならないことは多いし、初期投資も必要である。
対人や協調が必要なことであれば、長い弱者期間を耐え抜かねばならない。
この弱者期間を超えられるかどうかは極めて重要で、そもそもの前提として意志と忍耐が要求される。
何事もある程度のレベルに達するまでは、面白味がわからないものである。
得意なことが趣味になりやすいのは、レベルの高い状態からスタートできることや、上達速度が早いことにより、弱者期間を短くできるからだ。
しかし、ここに囚人のジレンマがある。
自我消耗というワードをご存じだろうか。
自我消耗とは、意志力や自制心などの精神エネルギーの消耗が上限を超えると、セルフコントロールができなくなる状態のことである。
つまり人間にとって、意志力や忍耐力は有限のリソースなのである。
そして、我慢していると自制が効かなくなり、人間は楽な方へ逃げるようになる。
空腹の学生に焼きたてのクッキーの香りが広がる部屋に入ってもらい、一部の学生にはクッキーを食べてもよいと伝え、残りの学生にはラディッシュ(ハツカダイコン)しか食べてはならないと指示した。ラディッシュしか食べられない学生はクッキーの誘惑と戦いながらも、何とかクッキーを口にする誘惑に逆らうことができた。
その後、学生たちは別の部屋に連れて行かれ、図形パズルを解くように指示された。このパズルは絶対に解けないようにつくられており、このテストの目的は、パズルを解くのを諦めるまでの時間を測るというものだった。
その結果、クッキーを食べられた学生たちはおよそ20分間パズルに取り組んだが、ラディッシュしか食べられなかったグループはたった8分間でパズルを解くのをやめてしまった。クッキーの誘惑に逆らうために意志力を使ってしまったため、パズルに取り組むエネルギーが減ってしまったのである。
我慢強く仕事をしていると、ものすごく自我消耗する。そして、意志と忍耐が失われる。
日々の生活に消耗 → 興味のあることを発掘したり、継続することが億劫になる → リフレッシュできずさらに消耗 → 以下、反復...
こうしてめでたく、趣味のない人間が完成するのである。
一方、趣味が充実している人はまったく逆のループで、
日々の消耗を抑える → 興味のあることを発掘したり、継続する → リフレッシュして日々の消耗もさらに減る → 以下、反復...
「よく働き、よく遊ぶ」という、仕事と趣味をハイレベルで両立しているズルい人がどこの世界にもいるのは、必然のことなのだ。
趣味とは本来、活力をもたらすものである。
そして、「趣味がない」というのは、置かれている環境が合っていなかったり、働きすぎである可能性が高い。
趣味を見つけるためには、自身の日常を疑い、生き方(住む場所や働き方など)を見直さなければならない。
これは非常に苦しいことである。
趣味を見つけようとするのは案外覚悟のいることであり、すでに趣味があるという人はかなり恵まれている人なのだ。
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