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自分に戻るとは

昨日、これまでの自分を振り返るような、苦しみを言語化したような記事を書いた。私の苦しみの本質が「自己愛」というものにあると気づいて、あー私はこれだったのかと腑に落ちた。でもどうもすっきりはしなくて、今日は一日仕事の合間を縫って考え込んでた。時間をかけてひも解いたら、ようやく心が晴れるような感覚を味わえた。だから今日は備忘録として、私の心の機微を書き残しておこうと思う。

「自己愛」が強くなりすぎている。それが昨日の時点での結論だったんだけど、その自己愛とやらがものすごく難しかった。そこで時系列を整理してみた。
正直もっと幼いころから予兆はあったと思うから、長きにわたって私を苦しめることになる自己愛の強さがいつから始まっていたのかはわからない。でも、自覚する限りは中学生のころからだ。私は小学生のとき、目立つのが好きで、勉強もできて、やってみたいことはどんどん手を挙げて積極的に参加するような結構アグレッシブなタイプだった。でも中学生になり、初心者として入部した部活で経験者組にマウントをとられ、自分は下手でだめなんだとつきつけられ、初めてがっつり挫折した。それまでも「なんか人づきあいがうまくいかない」ということがあったからそれも合わさって、私は自分自身に自信をなくした。自分はおかしい?このままじゃまずい?そう思って、周りに合わせよう、うまくやろうと立ち振る舞うようになった。フェーズ1、「自己の喪失」である。
そして、そうやって自己を喪失させたあと、私は自分が誰なのかよくわからなくなってしまった。そういうと記憶喪失の漫画みたいな感じになるけど、友達と話しながらトイレに行き、個室に入ってドアを閉めたとたん顔から表情が消え、「私ってなんだっけ」とか「私は誰なんだろう」というような言葉が頭に浮かんだのを今でもよく覚えている。

そうして月日は流れ、高校生になった頃には失った自己をもう一度取り戻そうと躍起になった。すっかりわからなくなった本音を見つけようと必死になって、頭の中で常に自分の言葉が渦巻いているような状態だった。授業中でもいつでも、自分の声が止まらなくなって、ノートに書くことに依存していた。その頃のノートは捨てちゃったけど、自分を責めたり、もっとできるはずだみたいな言葉と同じような悩みが延々と繰り返されてたなあ。これがフェーズ2、「自己愛が強くなっていく」時期だったと思う。
でも、そうやって自分の本音を探しながらも、自己を消して人に合わせようと頑張ってた自分にはなかなか見つけることができなくなっていた。人に合わせる、他人とうまくやる、そればかりを意識してたから、ちゃんと褒められたくて、認められたくて、自分はこれで大丈夫だと思いたくて必死だった。周りを見下して自分のほうが勝っていると優越感に浸った。失敗が怖くて、できないが怖くて、全部隠そうとした。できてるふりをして、大丈夫なふりをして、全部全部見せかけだった。そういいうときにやっと見つけたと思った本音は、いつも大体が見せかけの自分が作り出す見せかけの本音だった。私はそうやって、どんどん現実から離れていって、頭の中で完璧に理想化された自分を追い求めるようになっていった。

そして今がフェーズ3。強くなりすぎた自己愛が、理想化された自分が、私を現実世界に出さないように強く引き留めるようになっている。今の私は現実を生きていない。現実とは、変化の連続だ。変化するから現実なのだ。でも私は、現実の変化を許さず、頭の中だけで問題を解決しようとして、なんとかなった気になって、でも結局現実は何一つ変わっていないからまた振出しに戻る。そんな毎日を繰り返している。

私が、自分の苦しみの根源が自己愛の強さにあると気づいたのは、まさに「変化を嫌う自分」に気付いたからだ。いい方向に転がりそうと思うとき、心が快方に向かうとき、私はいつも変化することが怖くなる。うまくできなかったらどうしようとかじゃなくて、変化そのものがどうしようもなく怖いのだ。変化によって、「自分が消えてしまうんじゃないか」という強い恐怖を抱いていた。それってなんか不自然だよな、そう思っていろいろ検索して、やっと答えになり得る記事を見つけた。それが昨日のことだ。
自分が消えてしまうって感覚、あんまり抱く人いないのかな。高校、大学の頃ももっとぼんやりとだけどその感じは味わってて、どうしてそう思うのか全然わからなかったけどなんか変だよなって、おかしいよなって思ってて、本を読んだり検索したりしてみてたけど一向に見つからなかった。検索の仕方が間違ってたのかな。(笑)

この「自己愛」について、最終的には「行き過ぎた自己愛を弱めよう」みたいなことが書かれてたんだけど、私はこれがなかなかぴんとこなくて。自己愛を弱めたら自分なんて完全にいなくなってしまうんじゃないかって思った。何をされても何をしても感じ方がわからなくなるんじゃないか、みたいな。人に流されまくりで何も思えなくなる人生になっちゃうんじゃないかって。でも、自分で自分の時系列を振り返ってみて、ちゃんと分かった。自己を喪失させる前、「私」は確かにいた。無邪気で、いろんなことに興味があって、よく手を挙げて発表して、公園で木に登ったりして遊びまわって。そんな風に素直で、無邪気な自分が確かにいた。そっか、自己愛を弱めるというのは、一度失った自分に戻ることなのか…ってわかった。つまり、自己愛=自己認識を弱めると本来の自分が出てくる→今の自己愛による認識(自分という存在)は他社と合わせるため、褒められるため認められるために作り出した空想の産物であって、現実世界を生きることのできる本来の自分ではないのだ。自分という認識はあるけど、それはあくまでも「意図的に作り上げた自己認識」に過ぎないのだ。

私が恐怖を抱いた変化は、例えば、仕事で携わったマーケティングの分野でもっといろんなことができないかとか、そういう挑戦とか、「現実に基づく変化」は今までの私の自己認識を変えてしまう。理想化された自分からは離れてしまう。私はとにかく他人に認められたいし褒められたかったからなのか、芸能界で生きることをずっと夢見てた。そういうところで大成して、有名になって、みんなを見返したかった。私は特別な人間なんだぞ、馬鹿にしていい存在じゃないんだぞ、もっと私をうらやましがれ、ずっとそんな風に思っていた。思えるようになりたかった。この理想化された自分は、他者と合わせるために生まれた私の自己愛の強さの表れだ。長年そんなことを空想しながら、現実を見ないように、平凡な人生であることを直視しないようにしてきた。でも、今の仕事の延長線上にあるような仕事を一生懸命やってしまったら、私の自己認識はただの空想に過ぎないものになってしまう。自己認識が変わり、空想が空想のままでいられなくなって崩れ、自己認識、つまり「自分だと思い込んでいたもの」が消えてしまう。他者に合わせ、褒められるために作り上げた自分が消えてしまう。まるで一人格を失ってしまうような、そんな恐怖感。自分が自分じゃなくなるような感覚。だから私はものすごく怖かった。たとえいい方向だったとしても、変化して、自分の世界が崩れ、自分が消えてしまうことが。
これが悪い方向への変化ならなんてことはなかった。より苦しみ、より空想の自分の存在を強めるだけだ。そんな風にただずっと苦しみ続けて、現実を変えずにいることの方がずっと安全で楽だった。

私はもともとちゃんと私で、その私が持つ自己愛が本来の定量だったのだ、きっと。なのに自己を喪失させたことにより、私は自己愛を必要以上に持たなくてはならなくなった。
だから、やっぱり正確に言えば、自己愛を弱めることは自分が消えることではない。自分だと思い込んでいたもの、認識していたものが消えるだけであって、私自身はちゃんと残るのだ。過去にはちゃんと存在していた本来の自分に戻るだけ。

私はずっと、本来の自分じゃないから、誰かとちゃんとつながれた実感がなくてさみしいし、変に気を使いまくるから疲れるし、孤独だった。ずっとずっとずっとさみしくて、悲しかった。どうにもできない現実が悲しかった。楽しくなかった。
ここまでひも解いても、やっぱり変化することは怖い。問題が解決していく、いい方向に転がるというのは怖いのだ。明確な変化だから。今日とは違う明日がくると嫌でもわかるから。長年そうしてきたように、苦しみ続けている方がよっぽど楽なのだ。現実を直視しないで済むから。理想化された自分はそこにはいないし、空想の中の自分は素敵でのびのびしてるのに、現実では理想とのギャップに苦しむことになる。現実で傷つくくらいなら、空想で苦しむ方が楽だったんだ。

でも、私はもう、そんな毎日に疲れ果てた。空想の中で苦しみ続けることの方が、つらくて悲しくてさみしくていやになった。

私は芸能人ではない。キラキラしてないし、周りの人を見返せるほどすごい何かがあるわけでもない。全部全部平凡で、ただのOLで、ただの人間。受けれがたい現実を、逃げ続けてきた現実の中で、私は私のまま、本来の自分として生きていくことに決めた。
この世界で、長い宇宙の歴史の中のほんの少しの時間を過ごす。そう思うと、なんか自分の人生に特別もそうじゃないもなんもない気がして、どうでもよくなって笑えそうになった。
私はただ、この世界におじゃまさせてもらってるだけ。ほんのわずかな数十年を過ごさせてもらうだけ。この世界の中で。だから、別に何も頑張らなくていいのだ。ただ、現実を生きればいいだけなんだ。生きるというのは、きっとそういう至極シンプルで、簡単なことなのだ。

生きるハードルが下がってきた頃、頭の中に一つの光景が浮かんだ。川のほとりか…、私は一人でキャンプでもしているようで、朝、ゆっくりとテントの中から這い出してきた。山の向こうから朝日が昇り、あたりを包み込んでいくのを笑った顔をしながら眺めている。
そして、そんな私をもっと後ろの方で、私が見つめている。

そんな光景を見て、すっと、肩の力が抜けた。

ああ、私は私だ。他の何物でもなく。
ただ楽しく、幸せに生きる。
無邪気だったあの頃のように。
押さえつけず、我慢せず、ただ楽しく、幸せに。
嫌なものは嫌でいい。嫌なことをされたり、言われたりしたら、なんでそんなことするのって怒ってもいい。そんな感情持つべきじゃない、自分が悪いんだなんて思わなくていい。思おうとしなくていい。
私自身と、現実の、その両方の変化を当たり前に享受し、素直に、まっすぐに生きる。笑う。
これから先、私はなりたい方に変化していってもいいんだ。
私は自由だ、最初っから。
本当はずっと自由だった。自分が諦めていただけで。
笑っていいよ、幸せでいい。
大丈夫、誰も責めないから。

後ろから見つめていた私を、朝日を眺めている自分に重ねてみる。
後ろの端で愛想笑いをすることを選んだ自分を、あの頃の、目立ちたがり屋で無邪気な自分に重ねてみる。空想の自分に押さえつけられた自分が、本当は戻りたいと苦しそうな顔で睨みつけていた、過去の自分。

重ねたら、今度は、虚勢を張りさみしさも孤独も苦しさも全部強がって、周りをみんな的だと思って、自分一人でも強がることしかできなかった仏頂面の自分が楽しそうな笑顔に変わったような気がした。
固く閉ざしていた心の扉が開く。周りを睨みつけ、口をぎゅっと結んでいた今にも泣きだしそうな顔が、徐々に笑顔になり、大きな口をあけて笑う。無邪気に、素直に、他人に甘えたり、そんなことをしたかったんだ。私はこれまでもずっと、誰かといっしょに笑いあい、甘えて、幸せになりたかった。

これまで、耐えてくれてありがとう。
これからは笑って現実を生きよう。空想の理想化された自分じゃなくて、ダメなところの方が多いようなろくでもない自分のままで。

また、戻ってしまうかもしれない。でも今日みたいに、また何度でも朝日を見て、楽しそうに笑う自分に自分を重ねて、周りを睨みつける泣きそうな顔を笑わせて、そうやって何度でも現実に帰ってきたい。
私のままで、生きられるようになるまで。


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