菖蒲(花まくら より 013)
菖蒲、あやめ、カキツバタ、この三つは良く似ている。良く似ているのだが、私の記憶に特筆して濃いのは菖蒲である。幼い日の楽しかった思い出が、菖蒲園にあるのである。
私の生まれ育った愛知県岡崎市には、東公園という広めの公園がある。名古屋市にある東山動植物園よりは全然小さい場所だが、市民の憩いの場として、昔から親しまれている。そこに、八ツ橋のかかった菖蒲園があり、五月の花盛りには菖蒲祭り、と銘打って、人々が集うお祭りが催されている。八ツ橋、というのは、水辺に杭を打って、そこに板を渡した観覧のための橋である。橋といっても直線に岸から岸にかかる渡るための橋とは違って、数歩進んではカクッと右に折れ、数歩進んではカクッと左に折れ、とジグザグになっている橋で、渡り切るのに時間がかかるような設計になっている。時には、二股に分かれ、回遊し、また、迷路のようになっているような場所もある。八ツ橋は、菖蒲を眺めながら、水辺の上をゆっくりと行き来するための、風雅な足場である。菖蒲園の水辺の水深はせいぜい二〇センチほどで、上から見た感じは、池というより沼である。そこから、スッと菖蒲の葉と茎が伸びていて、濃い紫色の花がつく。花の形は花弁は四つで、花の中心には冠のような飾りがある。立ち姿の美しい、キリリとした江戸美人型の花である。花の色は色々で、主に濃い紫、藤色、それに黄色、白色のバリエーションである。ことに紫の花弁の中央に、黄色の筋が入ったものは、補色の関係、色として反対のコントラストがあって、ひときわ鮮やかである。
東公園の菖蒲園には、伯母夫婦が連れていってくれた記憶が特に思い出深い。三歳だったころ、当時従妹を妊娠中だった伯母と、その夫の伯父が、私を菖蒲園に遊びに連れていってくれた。結婚してから五年ほど子供の出来なかった伯母夫婦は、先に生まれた姪の私のことを、ことさらに可愛がってくれていて、よくあちこちに連れていってくれた。血の繋がらない伯父の実家にも良く遊びに行き、犬山のおじいちゃん、おばあちゃん、と親しんでいたほどである。
そんな伯父が撮ってくれたホームビデオが、今も残っている。ビデオの中で私は、菖蒲園のほとりを歩いている。ずいぶんお腹の大きくなった伯母が、私のそばについている。私はカメラを持つ伯父の方を振りかえり、振り返りしながら、坂道を登っている。直接の記憶として、その光景が残っている訳ではないけれど、そのビデオを見ると、当時の気分が蘇ってくる気がする。暖かく、穏やかな気候の中、冒険のようなワクワクする気持ちで、八ツ橋を往来する。子供の背丈で菖蒲園を歩くと、菖蒲の葉の高さがちょうど目線のやや下くらいで、折れ曲がる八ツ橋の先は見通せない。立ち並んだ菖蒲の中に自分を見失ってしまうような、どこまでも緑色と紫、黄色の光景が続いているような、そんなスリルが、菖蒲園にはあった。だから私は八ツ橋を歩くのが好きだった。高台から菖蒲園を見下ろすと、満開の菖蒲が、緑色の葉の中に浮かび上がるように紫色に映えている。そこを八ツ橋が複雑に縫っている。ジグザグ、ジグザグと、菖蒲園を切り取るように、八ツ橋がかかる。高台から見た八ツ橋は、巨大な迷路のように見えた。ヨーロッパの庭園に、背丈ほどもある生垣を縦横無尽に植えて、巨大な迷路にした造りの庭があるが、日本にもああいうものがあるとすれば、それが八ツ橋だと思う。
東公園には、小さな売店がある。うどん、そば、ラーメンと言った軽食、フライドポテト、フランクフルトと言ったスナック類、それからジュースなど、そういう食べ物と、空気を入れて膨らませるビニールのおもちゃ、それに池の鯉にやるための麩菓子。
フランクフルトを食べさせてもらったことも懐かしく覚えているが、良く買ってもらったのは麩菓子だった。そこで売られている麩菓子は、とても長くて、一メートルほどの長さがあった。色は薄黄色と薄桃色、薄緑色とあって、私は決まって薄桃色の麩菓子を選んだ。ちょっとかじってみると、全然味がない。パンの味が薄く、薄く、なったような味である。これは鯉の餌であって、人間が食べるものではないから、扱いも雑で、売り場では、傘立てのようなカゴに、無造作に何本も突っ込まれていた。それを引き抜き、私は伯母がくれた百円玉を、売り場のおばさんに渡す。そして、麩菓子を振り振り、池に向かう。伯父、伯母が私の後に続く。私は、伯母が、売り場で買った麩菓子を私に渡すのではなく、私に百円玉を渡して、私が売り場で麩菓子を買うようにしてくれるのが嬉しかった。自分で買い物をする、というやり方が、三、四歳の私にとって、特別で、楽しい思い出として刻まれている。
麩菓子を持って、池に向かう。池の真ん中には噴水が一つあって、遠目に小さく虹が見えたものである。池につくと、桟橋があって、桟橋の先端に、東屋があった。東屋の周りにめぐらせた柵は、私の背丈より大きかったから、私は柵と柵の間から手を伸ばして、ちぎった麩菓子を池に落とした。桟橋は案外高い位置にあって、麩菓子は水面に落ちる前に、風にあおられて遠くまで飛んで行った。鯉たちは、人影で餌が来るとわかっているから、東屋の下で口を開けて、ごぼり、ごぼり、と音を立てている。錦鯉は少なくて、黒色の大きな鯉が多かった。飛んで行った麩菓子は、アヒルがめざとく見つけて、私の手を離れると同時に、追いかけて行って食べてしまう。私は、あの赤い鯉に食べてほしい、というのがあって、悔しい思いをする。ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、していると、じきに麩菓子は無くなる。私は立ち上がり、走り出す。今度は象さんに餌をやる、と言い張って、伯母の手を引っ張って、桟橋を駆け戻る。私には甥姪がいないので、その時の伯母の気分がどんなだったか、想像できない。年端のいかない子供の面倒は大変だったと思うのだが、伯母が露骨に嫌な顔をしたのを見たことがない。今に到るまで、怒られたことも、数度である。それも温和なものである、それは無いんじゃないの、というくらいのものである。伯母は長年、子供相手の教室を営んでいることもあり、元来子供好きな性格なのだと思うが、それにしても気の長い、優しい人である。
私が鯉の餌やりに飽きて、今度は象のところに走っていくと、そこには棚があって、手のひらほどの皿がならんでいる。薄黄色をした、プラスチックのぽってりとした独特の皿である。そこに、リンゴが盛られている。皮とタネがついたままのリンゴが、二、三切れ乗っている。先に着いた私が待っていると、また伯母が百円玉をくれる。そして、伯父が私を抱き上げて、無尽販売所の小銭入れに百円玉を入れさせてくれる。横長の隙間に百円玉を滑り込ませると、中から、チャン、と小銭の落ちる音がする。私はリンゴの乗った皿を一つ取り、象の方へ歩いていく。象がいる動物園は全国にたくさんあるが、無料で入場できる動物園で、象が見られる場所は、岡崎市にあるここと、他に数カ所しかないそうである。無料で象が見られるという幸運を知らないまま、幼い私は象に親しんでいた。象の名前はふじこ、と言う。ふじこは、私がリンゴを持っていることを知っている。とても賢い象なのだ。私は、投入口からリンゴをレールの上にポトリ、と落とす。すると、ふじこは、象舎の方に伸びたレールを、鼻で器用に回す。リンゴはレールの上に乗って、ふじこの元へ向かっていく。がらがら、じゃらじゃら、レールが鳴るたび、リンゴが進む。こういう象の餌やりをする仕掛けは、全国的なものだろうか?他の場所でも見た覚えがあるが、京都の動物園には設置されていない。子供には楽しい仕掛けだが、何頭も象がいる動物園では、設置するのが難しいのかもしれない。
私はリンゴがついに象の元に届いて、象が鼻先でリンゴをつまみ、口に運ぶのをじっと見つめる。あの太い鼻で、よく器用に小さなリンゴをつまめるものである。本当なら、丸ごとのリンゴ一個でも小さすぎるくらいだろうに、一切れでは物足りないだろうなぁ、などと思う。それを二回三回繰り返して、それで、東公園でやるお決まりの遊びはおしまいである。本当は、鹿に人参をあげることもできるのだが、あれは怖いのである。棒状に切られた人参が五、六本乗った皿も百円で売られていて、いつも、伯父か伯母に、鹿にも餌をやるかい?と勧めてもらうのだが、尻込みしてしまう。鹿の餌やりは、棒状の人参の端を持って、フェンスの隙間から鹿に直接差し出すようになっている。鹿は何頭もいるから、我先にと寄ってきて、一番大きい雄鹿がぐいぐいと割り込んで来る。それがまず怖い。そして人参の先に鹿が食いつくと、すごい力で引っ張って来る。ボリボリと人参をかじる鹿の歯が見える。それも怖い。あわてて手を引っ込めると、人参がポトリ、と落ちてしまう。フェンスの向こう側に落ちれば、鹿が勝手に食べてくれるが、こちら側におちると、鹿は必死になって、長い舌を伸ばして拾おうとする。それがまた不気味である。私が人参を差し出す、鹿が人参にくいつく、引っ張られる、歯が見える、半分までがんばって我慢する、手を離す、その一連の流れが、ちょっと怖すぎるのである。
こうして私の菖蒲園での一日は過ぎていき、帰路では必ず車の中で寝てしまう。幼かった日の、楽しかった思い出。今も菖蒲を見るたび、懐かしく思い出す。
さて、次のお話は…
一つ前のお話は…
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