ソメイヨシノ(花まくら より 027)
桜、と聞いて、日本人が真っ先にイメージする、枝先まで満開に咲く、ごく淡い桃色の花、それがソメイヨシノだ。
私はソメイヨシノが苦手である。その理由は散り際が美しくないから。花びらが散ったあと、赤い雄しべ雌しべだけ枝先に残り、そこにまばらに葉っぱが芽吹いてくる。その姿が見苦しい、と、それが理由で、ソメイヨシノが好きじゃないんだと、思っていた。葉っぱと一緒に咲く、もう少し色の濃い、八重咲きのサトザクラやヤマザクラの方が好き。そう思っていた。
サトザクラ、ヤマザクラの方が好き、というのは、あくまで好みである。木に、桜餅のようなポンポンがたくさんついているのは、見ていてユーモラスで、楽しげだ。見ていてわくわくする面白さがある。
ソメイヨシノが嫌い、そう、私はソメイヨシノが大嫌い。大嫌いになるはずがないような、あの美しい木が、私の心に影を落とすのである。
理由は明白で、ソメイヨシノは大抵、学校の周りに植えられている。入学式、と言えば桜である。ここで言う桜とは、学校の周囲で咲いている、ソメイヨシノのことである。
私がなぜ、学校が嫌いになったか、ソメイヨシノを見るたびに、暗い気持ちになるのか、自分自身を紐解くために、振り返ってみたいと思う。
まず初めに、小学校である。私は愛知県岡崎市というところに生まれた。自動車会社のトヨタを擁する豊田市に隣接したベッドタウンで、私が生まれた頃は、まだまだ田んぼや畑の残る反面、娯楽施設や飲食店が多数ある、少し特殊な構成の、しかしまぁ一口に言えば、片田舎の街だった。
この片田舎の公立小学校に、私は入学した。同じ幼稚園に通っていた子供達の、ほとんど全てが、持ち上がりで入学する学校だったから、顔見知りは多かった。
いや、振り返るなら、小学校入学よりも、幼稚園から振り返る方が良さそうである。なぜなら、私は幼稚園も嫌いだったからである。
私は幼稚園が嫌いだった。お遊戯ごと、鼓笛隊、そういう団体行動が心底嫌いだった。お遊戯も、鼓笛隊も、そこそこのポジションをもらって、一生懸命練習していたが、真面目にやればやるほど、嫌気もさした。なぜ?という問いが、私にずーっと付きまとっていた。なぜ?こんなことをさせられているの?という問いである。
私は本が好きだった。保育園は二階建てで、二階から屋上に上がるための階段が、物置になっていた。封鎖されていたが、私はそれをくぐりぬけ、物陰に息を潜め、そこに置いてある古い絵本を読んでいた。私がたびたびいなくなるので、先生たちにしょっちゅう怒られた。教室から抜け出すたびに、屋上への階段に息を潜めているところを見つかり、私は教室へ引き戻された。
お絵かきや、積み木遊び、友達と遊ぶのは好きだった。給食の時間も、苦になったことはない。鼓笛隊もお遊戯も、同じことの繰り返しが苦手だったのだと思う。誰かがミスするたび、同じ場所を繰り返し練習する。遅々とした進行は、永遠に続くようで、全員が同じことをできるようになるまで、全員が付き合う、ということが、私には苦痛だった。どちらかと言えば、自分は何でもそれなりにできる方だったので、待つ側でいる時間が長かったのが、悪かったのだと思う。それに、全員が、同じことができる、ということについて、価値を感じにくい性質だったのだと思う。自分がしたいことなら、人と違っていても良い、と思う性格だったので、あえて全員が足並みを揃えて同じ事をする、同じ服を着る、ということに執着もなく、また意義も見いだせていなかった。
つまらないなぁ、もうできるようになったのになぁ、いつまでこれが続くんだろう、もうやめたいよ、もう終わりにしてほしいよ…
そんな風にいじけながら、グラウンドに腰をおろし、指先で砂をいじっていた。
幼稚園からそんなだったから、小学校もあまり面白くなかった。小学校の勉強は、簡単すぎた。しかし、塾に行く、ということはなかった。今思えば、もっともっと、塾で先取りして勉強していれば、まだマシだったのかもしれないと思う。テストで百点を取って喜び、九十九点で悔しがっていた。この繰り返しをしているうちに、私は狭量な視野で、勉強というものを見る癖がついてしまったと思う。本来であれば、八十点で喜び、五十点で悔しがり、くらいが望ましいと思う。小学校低学年の内は仕方がないという見方もあるが、百点を連発するようなレベルの設定は、本人のためにならないと思う。安易に百点が取れるようでは、学習のレベルと本人の能力が見合っていないのである。
私は学校が全然楽しくなかった。勉強はしないでも百点が取れるし、相変わらずお遊戯や合奏はあった。みんなと同じになるための訓練めいたことが、私にとっては苦痛だった。もっと勉強したいなぁ、というのが、私のぼんやりとした望みだった。教育大学の付属小学校というのに行けば、もっと勉強ができるらしい、と聞き、今からでもそちらに転校できないかなぁ、と思ったりした。
小学三年生の時、私は学校を抜け出し、家に帰った。学校が嫌で嫌で、家に帰りたかった。それだけだった。正門から出ると、見つかってしまうので、焼却炉のある学校の角のフェンスをよじのぼって外に出た。そして歩いて家に帰った。
家に着くと、祖母が花の手入れをしていて、あら、どうしたの、と言った。私は学校がつまらないから、家に帰ってきた、と答えた。一時間くらいして、学校から電話が来て、私が家にいることを祖母が告げた。学校が終わる時間になり、私のランドセルを友達が持って帰ってきてくれた。友達は「帰るならランドセルも持って帰ってよ」と言った。私はごめん、と謝り、次はそうしよう、と思った。
それからも、何度か、私は学校を抜け出し、今度はランドセルもちゃんと忘れず背負って、家へ戻った。家には祖母がいたから、誰もいない、ということは無かった。もしいなかったとしても、裏庭の戸は大抵開いていたから、家に入ることは出来た。
家に帰って、じゃあ、何をする、ということはない。本を読んだり、宿題をしたり、テレビを見たりするだけである。ただ、あの忌まわしい学校という拘束から、逃れたいという衝動だけで、学校から逃げ出していた。息がつまりそうだった。
不思議と、友達は多かった。そこだけ見れば、私は特段何の問題もない生徒だった。明るい子も、控えめな子も、満遍なく。男女も問わず、それなりに人付き合いはしていた。近所に住んでいる特定の仲の良い子もいて、お互いの家に遊びに行ったり、来たりで、仲良くやっていた。私が学校に置いて帰ったランドセルを持って来てくれたのも、この女の子だ。
私は学校の中では、問題児の方だったと思う。しかし、成績は良かったから、放ったらかしだった。何かしらおかしな子だという認識は、先生の間でもあったと思うが、明らかに勉強ができない、ついていけていない、という問題以外は、先生も対処のしようがなく、また、対処することも職務に含まれていないのではないだろうか。時折、家に帰ってしまう、というのも、片田舎のこと、生きてさえいれば、それほど大ごとにもならない、瑣末なことだったのかもしれない。私は、ずいぶん先生にも周りの子供達にも迷惑をかけたと思う。ただただ、私が学校が嫌いだったから、そういうことになったのだ。我慢が足りなかった、と言ってしまえばそれだけなのだが、根本的には、学力のレベルが合ってなかったんだろうなぁ、と思う。私だって、一生懸命勉強しても、なかなか難しい、というくらいの状況だったら、もう少し、学校での生活に、身が入ったんじゃないかと思う。
あなたみたいなのを、落ちこぼれ、に対して、浮きこぼれ、というんだよ、と後年、知能指数に関する専門家の人に言われた。
落ちこぼれをフォローする仕組みはあっても、浮きこぼれをフォローする仕組みは、日本の学校教育にはないからね、とその人は言っていた。海外では、飛び級制度があって、能力の高い生徒は一つ上の学年に入る。また、アメリカでは、ギフテッドという考え方があり、特別に知能が高く生まれた子供は、それに見合った教育を幼い頃から受けることができる環境を与えられる。たまに海外で十五歳で大学に入学した、というニュースが日本に流れることがあるが、あれがそういう子供達なのだという。
どんなに知能を高く生まれ持っても、画一的な教育を受けている間は、頭一つ飛び抜けることはできない。
中学校に進学するころには、私はすっかり腐っていた。また、運が悪いことに、私が進学した公立中学校は、その地域でもっとも荒れて、評判の悪い中学校だった。どれだけ荒れていたか、というと、授業中に廊下を自転車で走り回る不良がいる。三階から牛乳が一ケース落とされる。深夜に工作室からシンナーが盗まれる。タバコ、茶飯事。暴力、茶飯事。髪留めを理由に不良に絡まれる。授業妨害、たびたび。
これらのことを、まともに締め上げることのできない教師たちに、私は呆れてしまった。もっと警察に介入してもらって、厳しく処罰すればいいのに、と思っていた。何かあるたびに、全校集会で愚痴愚痴とお説教をする。もちろん、それを聞くのは大多数の無関係の生徒たちである。
そんな中学校生活も、時間の流れる速さは同じで、ある日、終わりは来た。ソメイヨシノの蕾がほころび始めた三月のある日、卒業式が行われた。私は合唱の歌詞を覚えるのも曖昧なまま、卒業式に出た。うだうだとしている間に卒業式は終わり、みんな散り散りに泣いたり、写真を取ったりしながら、別れを惜しんでいた。
そう言った訳で、私はソメイヨシノが苦手である。ソメイヨシノには全然罪がないのだが、見ると、学校時代の嫌だった事が、思い出されるからである。
できれば、これからは、ソメイヨシノを好きになっていけたらいいな、と思う。そのチャンスは、あると思う。今度は自分の息子や娘が小学校に入学し、卒業し、という経験をする中で、違う目線からソメイヨシノを見上げることが、あると思うから。それを通じて、徐々に、ソメイヨシノの悪いイメージを、払拭していけたら、良いなぁ、と思う。
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