見出し画像

些細なこと で イマがある

夕飯は豚カツ。地元の街中にある老夫婦で営んでいるフツーの豚カツ屋さん。
外からチラリと覗いたらそれ程客席埋まってなかったから入ったのだけど、おっちゃん達忙しそう。あれ?と思ったら、カウンターに持ち帰り用のお弁当がメインが揚がるのを待ってダーッと並んでる。あらら。座ってるお客さんのもまだ出てない。なるほど。ちょうど夕飯時ラッシュだったか。ま、いっかと注文してカウンターに座りゆっくり待つ。
その後もお客さんが入ってきたりお弁当の注文入ったり。「ふぅ~」というおっちゃんのため息が聞こえる。そだね、身体疲れるよね。

まったりお茶を飲みながら、おっちゃんとおばちゃんの流れるような作業姿を見つめる。見事な連携プレー。永年この地で営んでいる夫婦だからこその空気。
今回の自粛やらで街中は一変してる。昔から営んでいた個人の店は幾つも姿を消した。仕事の帰りがけこの店の前を通る時、フルオープンになっている入り口から、ガランとお客さんの居ない店内奥でおっちゃんがボーッと座っているのを何度も見かけた。だから、今日のおっちゃんの「ふぅ~」というため息を耳にして「良かったねぇ」と思ってしまう。お客さん沢山戻って来てくれてよかったね。カウンターに並びきれない位のお弁当注文が入ってよかったね。身体はキツイよね。大事にしてね。


画像1


普段あまり豚サンは突進してまで食べない。でも今日は終業前に「夕飯どうするかなー」となった時に思い浮かんだのが豚の生姜焼だった。じゃあ明日のお弁当も含めてそれ作るかーと、駅前のスーパーで豚肉を選びつつ、普段あまりスーパーも使わないからついついお総菜にも目が行き「こっち夕飯にして生姜焼はお弁当でいっか」と買う。豚カツ屋は夕飯どうしよかと考えた時に思い浮かんでた。でもお総菜も買ったし今日はナシだなーと思いながらお店の前を通り過ぎようとした時、ふと足が止まる。
「ん?」となり。「いや、でも食べるもの今日はあるからー」となり。それでも「ナンカ」なので空を仰ぐ。うーん、よくわかんないけど豚カツなのか?材料買っちゃったぞ?
うーん、と5秒くらい空っぽになって「よくわかんないけどまっいっか。」と店に入った。

美味しく頂いてご機嫌さんで帰宅し、もうお腹満たされちゃってるからお弁当作る気もなくなり、コーヒー飲んでまったりしてたら。


画像2


"美味しかったでしょう?"

・・・。うん、美味しかった。豚サン、食べれないのもあるのにあそこのは食べれる。久しぶりに食べて美味しかったー。

"そうでしょう? シェフは街中に沢山いるのですから、プロに任せればいいのです。全部自分でやろうとしなくてもいいのです。分かりますか?"

うーん、いまいちよく分からない。

"豚肉を食べたいと思った時、初めから「自分で作る」ことを前提に買い物ルートとか考えていたでしょう? それが生活パターンでの癖だと分かりますか?"
"豚カツ屋の事も思い浮かんだのに、作る前提で行動してるのでそれしか範囲がありません。お総菜を買ったからと更に上書きしようとしてました。買ったお総菜を食べる又は生姜焼を自分で作って食べた時と、あの豚カツ屋で食べたのと、どちらが自分が喜んだでしょう?"

・・・。そりゃー豚カツ屋さんだよね。帰ってお総菜しまう時、「これ食べようと思ってたのかあ」とか思っちゃったもん。お総菜は悪くないのだけど。

"ですよね? あなたが食べたかったのは「豚肉」です。でも今日は自分が作った生姜焼にそれ程魅力を感じてなかった。でも「作る」前提だから、その通りに買い物をしました。
何をないがしろにしたか分かりますか? あなたの「食べたい」とせっかく湧いてきたものを、普段の生活習慣から「これでいいか」にいつの間にか変換されているのが分かりますか?
もうひとつ、あなたは「今日はご飯作りたくない」というのがありました。それも押さえ込んで「でもお弁当もあるし、作らなきゃ」と。"

なーんだか「豚肉食べたい」がエライことになってきたぞ。でも言ってることは分かる。そう、明日は金曜だし本当はお弁当作るのも夕飯作るのも面倒だった。

"こんなちっちゃいことで、と思わないでください。その「ちっちゃいこと」を毎瞬重ねて「日常」となり「生活」となり「今までの人生」となっているのではありませんか? 
その今までの生活の習慣や思考癖から無意識に動いてると分かりますか? 今日あなたが動いたように。せっかく湧いた「やりたい」という想いを、その中で自分が一番喜ぶ事を選ばずに、生活習慣パターンで無意識に変換してしまっているのです。その方が都合がいいとかお金がかからないとかそんな理由で。その理由すら無意識レベルでの生活習慣クセです。"

ぐうの音も出ない。

"視点を変えると言うよりも、意識の持ち方を変えてください。その身体という枠内で「考えよう」としないで。自分は生活習慣パターンで無意識に行動してるかもしれないと、疑問に思ってください。変えたいのであれば。
落ち着いてる時に幾ら広がった意識にあっても、日々日常が以前のままであれば何も変わりません。変わったとしても部分のみ、ものすごく緩やかです。
今回のように「やりたい」が湧いて来たとき、それ迄の日常行動パターンに当てはめて考えず、もっと引いて広く捉えてください。または「安心感」の中に戻ってください。「こんな些細なこと」としないで、些細なことだからこそちょっと立ち止まってパターンに飲まれないようにしてみてください。少しずつ少しずつクセを変えていくのです。意識の向く先を固定しないで、自由に広げてください。
些細なことだからこそ大した不安もなく出来るのですから。そして、その些細な瞬間の集積が今のあなたを形創っていることはもう分かるでしょう?"

お茶飲んでたのになあー。なんだかいっぱい飛んできた。そして、おっしゃる通りです!。
ふぅ。 で、どなたなんでしょ?


画像3


これを例え話やらで文章化するのがメンドウで、今回は会話形式でそのまんまで。
ニュアンス的なものもあるから付け加えると。

ひとつは、その時ジブンが感じた事を別のもので覆い隠すなと。そして、その「やりたい」をジブンのその時一番喜ぶ事でやりなさいと。
もうひとつは、その覆い隠したりしてるものが、普段無意識でやっている日常の習慣や生活パターン、思考パターンで自動的にやってるということに気付きなさいと。
今回の私の事で言えば、ちゃんと事前に「豚カツ屋さん」が浮かんできてたでしょう?と。今日の私の「豚肉食べたい」で、今日の私の行動範囲で一番ジブンが喜ぶのは、そこの豚カツ屋さんで豚肉食べる事だったわけだ。もちろんこれは会社帰りの地元というシチュエーションじゃなければ、違う「一番ジブンが喜ぶ」があるわけで、何がなんでもそこの豚カツ屋で食べることを言ってる訳じゃーない。あと、お総菜がダメよと言ってるわけでもない。
今日は料理したくないなという自分の思いも水面下にあったのにも関わらず、お弁当やら色んなものが絡んで「作る」からしか観ようとしなかったってことやーね。はい。

何よりも強く「伝えたい」と感じたのは、その些細な出来事と思える一瞬の事を、もう少しちゃんとみてね、ということだったかな。
当たり前にやっている日常の「こんなこと」が、確かに今の私を形創っているし、それの集積が「記憶」として私の人生となっていて、そしてこの身体の習慣はその瞬間やってきた習慣で繰り返し動いてる。そしてそれは変えることが出来る。
もうちょっと大きな出来事だと意識的になったりするけど、ルーティンでやってるような日々はつい無意識にそのまんま動いてる。あとは帰るだけ!なんていう夕方なんてなおさら。

そしてそこをちょっと立ち止まる余裕を持ってジブンに一瞬でも向き合えば、違う景色が見えてくる。違う選択幅が出てくる。
"街中至る所におかかえシェフがいると考えれば、楽しいでしょう?視野が広がるでしょう?"とも飛んできて笑った。確かに。
で、これは別に贅沢しなさいとかそんなんではなくて、私の場合は基本的に今は家飯だから、せっかく食べたいものが湧いてきて、しかも料理したくないモードだったのならば、無理して自分で作るより街中のおかかえシェフに頼んだ方が楽しいし美味しいでしょう?って事でしたな。


画像4


瞬間、瞬間、ね。
忘れちゃうけどね。

でもやっぱりそうやってジブンの世界の観え方が少しずつでも変わっていくのは楽しいから、その「瞬間」を大切にしたいなと、
そう思う。


いいなと思ったら応援しよう!

kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。