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意識し 慣れて 決意して

不思議なシンクロのようなものが遠くても近くてもあったりして、何だか楽しげになっている。



つくづく「意識」だなーと感じることは多くて。
とってもくだらない事で言えば、先日も調味料類が一気に切れて買わなきゃなーとなっていて。こういったいつも決まって買うものは、出来ればお安く手に入るとそりゃー嬉しい。

あれとこれと・・と買う調味料類思い浮かべて、さてどこ行くか?と自分に聞いてみる。
すると、いつもは行かない店が思い浮かんだりする。
そこ?とか思いながらもちょっと遠目のその店へ行くと、欲しかった調味料類が"タイムセール"や"その日限り"でドーンとお安くなってたりする。

ほんとくだらないかもしれないけれど、こんな小さな日常の出来事で「頭使わず自分の内側へ聞く」をもうお遊び感覚でやってると、段々そうなるのが当たり前になってくる。

そうすると、頭使わずにやる感覚や、問いに対しての答えに反応する自我(エゴ)の動きも何となく見えてきたりして。

そんなのをいきなり大きな決断でやれったってそりゃー無理だから、日々の小さな出来事でジャカジャカやる。
例え「失敗」と思えるような事になったとしても、どーせたいして響かないから大丈夫。




じっさい、物事に大きいも小さいもないのだから。"起きてる"という視点では、みーんな同じ。良くも悪くも、早いも遅いも、合ってるも間違ってるも、大きいも小さいも、ない。

だから、私は将来のあれこれについてこう決断するんだーみたいに大きく捉えて、それについてあーだこーだと悩んだりするのと、この後コーヒーにするか紅茶にするか迷うのと、本当は変わらない。

とか言うと、キーっ!ってなる人もいるからあまり大声では言わんけど。
その人は、その事に自分のなかでちょっとだけ重きを置いてるだけだから、それはそれで、いい。



そう、ようは「意識を真剣に向けた」方向へ、サポート的な後押しが動く。
私は調味料お安く買うの真剣だから(笑)。

この小さなくだらない(とも思えるかも)出来事で慣らしておくと、もう少し大きな出来事が訪れても、その感覚で出来るようになる。

そしてそのうち、それが当たり前に。

頭を使わず、感覚で行動するのが当たり前になってくる。
その事に対してのコワサも減ってくる。

直感やインスピレーションで日常が成り立つんたよ、と言うことが体感としてわかってくる。

何となく~ や
良くわからないけどそう感じる~ とか
そーゆうのが、ホントだいじ。



たぶん、思っている以上に展開は早いんじゃないのかな。

あんなに心配してたのに、いったい何だったんだろーって思うくらいかもしれない。

そして、多分だけれども、いま起きている出来事は、何か1つの方向みたいなものを観せようと促されていないかな?

これとかあれとか、1つのモノではなくて、その方向性みたいなもの。

流れに共通性は見つけられないかな?
そんなとこから観てみてね。

いまの流れからいくと、何か固定されたものを示されると言うよりかは、それらの方向性みたいなもの、流れ的なもの、そんなものを観るようになってるんじゃないかなーと感じるから。

それがいい、というのではなくて、今までの見方からとょっと外してみると、こういった方向性や流れもあるんだよー、みたいな。



大丈夫だから
響かせてごらん

思ったよりも
大丈夫だから


そしてそろそろ

信頼してくれないかな
そうである ということを

信頼して 確信して

覚悟が決めれば

動き出すよー



もう
いいでしょ?


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kitoma
ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。