テクテク歩く
今日がスポーツの日だと朝知って
じゃー歩こう! となって出掛けて
てくてくテクテク歩いた
ストック無くなった生胡麻買うために
いつもの乾物屋さん寄って
お天気の話から色々広がって
何やらいっぱいお話しした
あちらから話し掛けてきたのだけど
初めは何気ないお客相手の声掛けモードから
話が進むにつれ顔が変わり
お互い持っている情報のやりとりで
「店側と客」という立ち位置が緩んで
見せかけ でない会話が出来ると
あーココロ開いてくれたんだなぁーと
ちょっと嬉しくなる
肩書きとかお役目とかが取っ払われて
その人そのまんまと出会える瞬間が
たぶん私は好きなんだと思う
だから
悪意や意図されてる場じゃなければ
基本的には囲いはしないで
相手と対するようにしてる
これ
初めはすごーく怖かったりするのだけど
自分のリハビリには結構丁度よくて
マズっても被害は自分だけだから
なんとかなる
役割や肩書きが外せないのは
その場に求められてる事もあるけど
本当はそんなもん無くても
その場というのは過ごせるもので
ただ 染みついちゃってるから
それらがない素だと どーなるか
予想がつかないからコワイってだけで
出来ちゃうと 案外どーってことなくて
慣れるとそっちの方が楽だと気づく
お客だから 社員だから 家族だから
親だから 男だから 日本人だから
人間だから
そういった無意識に身に付けている役割は
思ってる以上に自分を縛り付けている
それがあるからこそ
成り立っている関係性もあるだろうし
そうなると それを失う事がオソレとなり
掴んでしまうものになる
表面上必要な事もあるかもだけど
内面でそれをやらないってことは出来るから
そーすると 自然と表面上も変わってくる
表面を変えたいからやるんじゃなくて
内面がそう在ることが心地よいから
そーするだけで
そこが違えるとそもそもが違うから
ベツモノとなっちゃう
自分のココロを
鎧を着けず囲いをつけず
オープンな状態で人と接する練習
誰かと接する時に
ぐっとハートを開くような感覚にして
その状態を保ちながら相手と接する
これをやり始めると
いかに自分が今まで誰かと接する時に
自分を無意識に防御してたか と
瞬時にその時々の役割で演じていたか が
ありありと分かるようになる
自分が切り替えてる瞬間が
分かるようになる
あーこうやって
素の自分からどんどん離れてたのか
って気付ける
その隙間が見つけられれば
あとはドンドン慣れて
自分の 見かけという皮 を
剥がしていける
今までは
自分を守らなければ生きていけない
と思い混んで生きていた時代だけど
もうそれ要らないから
守らなくても大丈夫なんだよー って
自分に教えてあげると
だんだん安心が広がって落ち着いてくる
じゃあ何かあったらどーするの?
って自我が騒ぎ出すけど
それ採用してる限り変わらないから
どこで見切りをつけるか
何かあったら と思ってる限り
「何かある」という世界に住んでるし
その思いには
「何かあって対処出来ないかもしれない自分」
という思いが隠れてるから
そこからオソレをベースとした行動が始まる
何かあったら と思うけど
実際 いま は
なーんにも起こってないのだから
いま オソレることなんか ない
そして
ハートオープンで相手と接する事で
オソレからではない行動が
どーいった流れが訪れるのか
身をもって知ることが出来る
自分を守らなければ生きていけない
という 思い は
もう要らないかもしれない って
そう
知れるかもしれない