思考フィルターという幻
ねっ、大丈夫でしょう?
起こり来る出来事は、ホントはぜんぶ”安心”を見せてくれてるんじゃないのかしらん。
行き先決めずフラフラお散歩の時は、道が分かれる度に「うーん、こっちー」とその瞬間の「何となくー」で動いています。あとはたまたま信号が青だったから渡っちゃってその先の道を行くとか。
こっちに何があるからとかの思考を使わず、感覚全開でその時の「何となくー」に任せます。
そうやってフラフラしてると、気になってたけど以前closeで入れてなかったお店が開いてるのに出くわしたり。そこに来るまで店の存在さえ忘れてるのに。入ってみてちょっとチガウかなーとなる事多いのですが、大抵そういった場合は以前調べて来たときは閉まってたり混んでたりで入れない事が多くて、「あーやっぱりチガッタのか」と思います。
その時触れなくていいものには触れないようになっている。そんな感じです。
それでも興味持ったとき触れられなかったという「あそこに行きたかった、見たかった」という"思い"は残ってますから、私はその"思い"を削ぐために、分かっちゃいるけどで一回は触れて「そうだよね」と落ち着きます。
「いまのジブンとは合わない」を確認するために動くのもいいんじゃないのかなーと思います。
どうしても「自分にとってよいものごと」だけをインプットしようとしちゃいますが、そうすると「よくなかったら」「だめだったら」とかの"失敗をしたくない"という不安さがもれなくオプションで着いてきます。
感覚で「合わないんだろうなー」と思っていても実際それに触れてないと「合ったのかもしれない」が残ります。いつまでもどっちだか分からん事にエネルギー持ってかれるのも疲れるので、何回も「~かも」が同じことで出てきたら、自分の中からそれを外すために敢えてやったりします。
まー、パツンと「自分には合わなかったのね」と頭の中で切り替えられる人は大丈夫なんでしょうが、私は身体使った方が早いみたいなんで。
先日そのフラフラ散歩をしてた時。
会えるはずのない人が突然目の前に現れて驚いて。
離れた所にお住まいなので私の散歩範囲内におられるハズがなく、お聞きしたら急遽思い立って来たとかで。
私の方はその場で行く路決めてるフラフラさで、しかもその時は直前にテイクアウトするのにお店に入ってしばらく待ってたから、多分店寄ってなければ会えてないだろうし。
そのお店から出て歩き出した瞬間にどこかでお見かけしたような知ってるお顔に出逢い、その時の驚きようったら。
その散歩の日は、出掛ける前まで思考の破片渦みたいなのがグルグルしてまして。何がどうってやつではなくて、今までお掃除してきたやつの色んなものの小さな破片がワチャワチャ出てきた感じでありゃりゃとなり。大きなものではないからズドーンとはならんのですが、細かいのがワチャワチャしてるんで「あれもああだった、これもー」みたいにピンピンと小さく引っ張られるんですね。泡みたいに出てポンと消えてまた直ぐ次のが出てーと、それに乗っちゃうとポーンと思考渦に飛ばされるので離れて観てはいますが、ポンポン出てくるもんだからジブンの真ん中にも戻りきれず(笑)。
お散歩始めた瞬間からワチャワチャ思考はどこかへ飛んで行き、ジブンの真ん中でゆったり「何となくー」に任せてたら目の前に現れた奇跡のようなもの。
ねっ、大丈夫でしょう?
ジブンの中の安心さはステキでしょう?
それでいいんだよ
と言われているような
そんな感覚 脱力感。
ワチャワチャ思考は頭の中だけの幻想で実態はなく、その時湧いてきた思考で過去のものであり、その時その瞬間のリアルではありません。
フラフラ散歩してる時、路を決めるのはその時の直感で思考ではなく、直感に従って身体が動き場面が展開しその瞬間のリアルが現れます。
見えているものは過去 と表される事もあるようですが、見るもの全て見た瞬間に意味付けが始まるからで、そこから始まるジャッジは過去のものです。
でも、見た瞬間に湧いた感情や感覚は、意味付けする前のものはリアルです。その瞬間、その体感をした、というリアル。もちろん直ぐ後に意味付けが始まりストーリーが展開され出しますが。
これも非二元から観れば「何も起きていない~」となりますが、まあそれは置いといて。
思考という幻想を脇に置いて、ジブンの真ん中の安らぎがコアとなって目の前のリアルが展開されている時。
そこから現れ見えるものは
大丈夫だよー
安心だよー
っていう囁きのように感じます
囁きというよりも
もっと元気に派手に
「大丈夫さっ!」「安心さっ!」と
大きな旗をバタバタ
振られてるのかもしれません
気がつけ~ って。
目の前に現れ起こり来る出来事は
ホントは「安心さ」しか
ないのかもしれません
その「安心さ」を確認するために
日々の生活というものを通して
生きる をやっているのかもしれません
自分がやっている
という幻想を見抜くために。
ちらほら咲き始めた
目の前の桜は
ただただ
綺麗です