自分では分かりえないもの piece_vol.89
モノゴトというものは、本当に一寸違わず見事なまでの完璧さで起きているんだなぁと、そんな事を感じる日々が続いています。
その完璧さは、頭で考え得る範囲などではなく、花の中心が見事な模様であるのがどうしてなのか解らぬように、「自分」というものである限り解り得るものではないのだなーと感じます。
去年の終わり頃から、自分の根元となるオソレの1つとの向き合いが続いていて。
小さなものが出てくる度に向き合いサヨナラするを繰り返し、「自分」の変化を観て来ました。
根元のオソレのようなものに向き合うのは、たぶん人それぞれパターンが違うのだと感じますが、私の場合は一気にドカーンと来るのではなく、少しずつ少しずつ解していくタイプのようです。
去年の終わり頃その気配が感じられた時、「あ~来たかぁ」という感じになり。
さて、どうするか?とジブンに問い、結局は向き合うと決めたのですが、可笑しかったのは、もうその時点で「(これを決意することで)こうなるんだろうな」というようなある種それがクリアできた後の事が何となくどこかでわかってる感じがあり。
ちゃんとそうなるんだろう、と何処かでわかっていながらも、思い出したように時々訪れるそのオソレのようなものと向かい合う度「いや、もうわざわざこうやらんでも、あっちの方向でやればよくない?」と迂回路やもっと楽な安全航路を「自分」から提案され揺らぎゆらぎ。
でもジブンの真ん中からは「そっちじゃなーい!」とサインがガンガン届き(笑)、また我にかえり粛々と待つ、みたいな。
ひとっ飛びに跳んでしまいたい私ですが、どうやらこの「過程」というものを、しっかり体験し体感するようなってるようです。
多角的視野が特質の1つでもあるようで、日々日常のあれこれサインやメッセで、おおよその「これくらいにこうなるんだろうな」というのが見当つくもんで、でもそれには時間の経過というものが必要だから、時間の流れと共に「ほら、そうなったでしょ?」を確認していく作業のようにも感じています。
途中大きな凹みがあり「何でこんな事しなきゃならんのか」となったのですが、その時瞬時に本質から湧いてきたものが「その体験を、体験したいから。」と。(笑)
ああ、なんてメンドクサイ奴だろー。
なーんでわざわざそんなもん設定してくるかなあ。もう時代は変わってるんだから、その設定替えてもよくない?と問うも、どうもそこは替えられない所らしく「NO」。
それでストンと落ち、「体験したくて体験してるんじゃ、もうしょーがないかぁ」とお手上げとなりました(笑)。
根元的なオソレの解放をしてるとき、自我や思考はどのようにチャチャを入れてくるのか。
本質のジブンはその時どんな感じなのか。
時間の経過というもので、それがまたどのように変わっていくのか。
そんなものを観察しながら、"体験したい"を体感しています。
因みにこれは変わり者の私バージョンだからであって、おそらく多くの人はその根元的なオソレとちゃんと対峙すれば、その都度ヨキ方向へ導かれてるはずです。
私という個性は「その過程を体験体感したい」人のようです。
その過程のなかで、改めて感じるのです。
本当に、見事なまでの完璧さバランスでモノゴトは訪れ去って行く、と。
結構自我自分としての気持ちはギリギリなんで(笑)「本当にそうなる(訪れる)のかあ?」となるのですが、成るのです。ちゃんと。そこに自我のざわめき路線に乗りさえしなければ。
外側を変えてしまいたい誘惑に着いていかず、ジブンの内側に眼を向け、真ん中を整えることに戻りさえしてれば。
もちろん私の「そうなる」は思考も絡んでますしザックリなので、実際は、頭では考えつかない、思いも寄らないカタチで訪れます。魔法のように。
「そーきたか~っ!」てな感じです(笑)。
あらゆる所からメッセは飛んできてます。
「それでいいんだよ、大丈夫だよ。」
「外側意識になってるよ。戻ってね。」
「睡眠足らない。休みなさい。」
日常あらゆるものです。見るもの聞くもの感じるもの。ちゃんとアンテナ張っていれば、その時々いちばん分かりやすい形で様々な所から投げ掛けてきます。
アンテナ張るというのは、ジブンの真ん中、本質のジブンと繋がっているよう在るということです。思考のなかに居ないということです。
そうやってメッセージやサポートを受けながら、「自分が」望み考えるのとはもう別の世界で、その人に合ったタイミング、合った流れ、合った方法で、訪れるべきものが訪れるようです。
そしてそれが、最短でいちばん楽なルートだったりします。目の前の事しか分からない自我の「自分」には、分かり得ないものです。
その、大いなる流れのハカライに触れるたび、自我の「自分」は少しずつ納得し、少しずつおとなしくなっていくようです。
それすら
大いなる流れなのだと
そう 感じます。
「自分」というものは 知りたい! 解っていたい! がお仕事なので、ものすごい勢いで任務を果たそうとしてくれますが、「まぁ、まぁ、少し休みなさいな。」とヒョイと横に置いて。
解らないまま
知らないまま
にしておくと、そのうち然るべきベストタイミングで「お!」となったりします。
それは熟成させるような、それまでに自身の内面がより変化するのを待つような。
後になって「あの時のはそういう事だったのか!」となる事は多いと思いますが、よーくよく考えれば全てがそうみたいで。
ひっくり返して観れば
その時、既にそれで良かった って事であり。
たとえその時の「自分」が解らなくて不安だったとしても、全体の流れのなかでは、それが既に完璧でベストタイミングで、ただ「自分」だけが後になってそう感じられる、ってだけで。
だから
「自分が」から少し離れてみる。
「自分が今解ってなくちゃ」を、その時いったん捨ててみる。
こんなのを目の前の小さな出来事で繰り返していると、少しずつ 大いなる自然の流れ 自然の摂理 なようなものを信じられるようになってきて、やがて「ま、いっか」となり、そのうち「あー、よく解んないけど、これでいいんだろうなー」と自然に変わっていくようです。
解らなくていい
知らなくていい
というのは、ある意味恩恵ではないかと思うのです。
自分が頑張らなくてもいい。
自分で全てを背負いこまなくてもいい。
解らないまま 知らないまま でいるというのは、コワサが出てくるかもしれません。
でもそれは、今までの慣れ親しんだやり方だってことだけで、「それでも大丈夫かもしれない」という方向への意識の転換です。
グーをパーにする。
掴んでいる手を緩めてみる。
それはハートが緩むことに繋がり、自分の真ん中/本来のジブンが拡がることにも繋がります。
外側でどんな出来事があろうとも、今はもう、ジブンの本質と繋がるのが、本来のジブンで在るのが、何よりも、ではないかと思うのです。
そうすれば
「自分」の計り知れないところで
流れが流れてくれてます
このヨの完璧さ
ミラクルさに気が付くたび
不思議の国の扉がひらき
そのなかに 在る
この ジブン というものが
なんとも
愛おしく
感じられていくのかも
しれません