片寄りから真ん中へ
所用で出掛けた帰り道、裏道通っていたら「ご自由に」とバケツに入った紫陽花が!
ちょうどそのお宅の方がいて「いいんですか?」とお尋ねしたら「どーぞどーぞ、何本でも。」とな。うっひゃー!
2本ありがたく頂いて来ちゃいました。
まさか我が家に紫陽花が来るなんて!
お家に居ながら紫陽花眺められるなんて!
なんかものすごーいプレゼント貰ったみたいで嬉しくて。
そのお宅にとってはお庭に沢山咲いている植物の1つなのかもしれませんが、戸建てではない私にとって、お庭で大事に育てられたお花が我が家に来るのはある意味ミラクルです(笑)。
世の中何が起こるかなんて分かりません。
分からないことだらけです。
でも突然お花のプレゼント貰っても「何でこうなった?」と深くは考えないのに、ヨロシクない出来事が起こったと感じた時は「何で?何でこうなった?」と深く深く追い求めます。
"突然起きた"という意味では、どちらも同じなのに、何故だか片一方だけはそのまま思考の世界へ迷い込みます。
何が起きるかなんて誰にも分からない、という所から観れば、「起きる出来事」はどんなものも中立です。
その中立に起きた出来事に、それぞれがどんな意味付けをしたか?によって、その意味付け具合によって思考の世界へ引き込まれるようです。
ヨロシクないと感じるものは全て、その裏側に、自分なりの意味付けをした「オソレ」が隠れています。
自分なりの意味付け = 自分なりの思い込み です。
その
自分なりの意味付け = 自分なりの思い込み は、過去のどこかでの経験で身に付けたものです。
その時そう感じたから、今回もそうだろう、と有能な自我思考は瞬時にそう判断します。
目の前に起きた出来事は中立で、しかも、過去起きたものとは全く別のものなのに、です。
ヨロシクない出来事(だと感じて)に自分が反応したとき。
それは
あなたの中にまだこんなのに反応する思いクセがありますよー
というサインです。
オソレをまた見なさい、と言うのではありません。余分な持ち物検査みたいなもんです。
元々持っていなくてもいいものを、まだあなた持ってまっせーと。
目の前の出来事は中立です。
中立だからこそ、自分がそれに対してどんなものを持っているか、を観ることが出来ます。
そして片寄った意味付けを外していくうち、片寄りが薄れ、中立に近くなり、「どちらでもいいんだなー」とジワジワと感じてきます。
どちらでもいい。
なんでもいい。
この、今までは時にはなんか中途半端に感じられたこの言葉らは、これからは救いです。
どちらでもよく なんでもいい
自分の中の思い込みに気付くたび
自分の中の
どちらでもいいんだ
なんでもいいんだ
が緩んできます
自分の思い込みに気付いて
手放していくのは
見えてなかった自分の可能性を
思い出すことかもしれません
自分の可能性 とは
自我の可能性 ではなく
本来持っている
本来のジブンの
個性特質の可能性 です
そして
どこかのタイミングで
その中立である出来事の中には
「自分」というものも含まれてたんだ と
気付くのかもしれません
まったくもって
摩訶不思議な
楽しい世界です