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現れという移ろいのなかで piece_vol.53

ここ数日見えないものへの確信と言うか、意思意図意識のエネルギーの在り方への信頼と言うかそんなものをこれでもかと投げつけられ体験させられる事が続いている。くだけて言えば
「おんどりゃーっ!まだ疑っておるのか。いーかげんにせいっ!」みたいな感じ?

偶然とかシンクロとかそんなものは日常茶飯事になりつつあるいま、何の脈略もなく意味分からずともやった方がいいという変な確信で「まあ何かあるんだろうなー」と何かやり、後になって「あーそうだったのか」となるのが多かったのだけど、そう言えば自分の意識意図を使って改めて何かやるということは数えるほどしかなかった。

ジブンのなかで「こう在る」という確固たるものはあるのでそこは揺るがず、あとは成るように順番に現れてくると思っているから、出てきたものをその瞬間100%で向き合えるようにしてる。
してる。のだが・・飛ばされちゃうのよね、どーしても。現実さん楽しすぎてついつい。まだまだ昔の癖も抜けないし。「あ!」と気づいて廻りキョロキョロ見渡してびゅーんとジブンの真ん中に戻ってーみたいに。
とは言っても現実世界で身体を使って生きているのだから、全部が全部見えないものの世界だけで生きるのも片寄っていると思うし。ただ、両方知っていないと中庸もとれず、いまは現実への現れかたを体感してる感じなので、見えないものありきで生活している。


心や魂、精神的なもの、内面と呼ばれるものが自分の外側世界現実を創り出しているのは私にとって明らかなことで。以前は知識として蓄えてたそれらを、いまは身をもって体験体感しひとつずつ腑に落とし確信に変えているような作業。土台を固めつつ、今までの無意識習慣を新しい習慣へ意識的に書き換えていく。
「そうだろうなー」と何となくいるのと「そうである」と確信をもって在るのとでは現れかたが違う。
「そうなんだ」と信じてるのと、体感を伴って実感しているのとは違う。
信じてるという内面精神的なことを、身体を使って体感経験したり現したりすることで1つのまとまりというかセットのように感じてる。身体を使って生きているから。片方だけではちょっとゆるく、もっと言えばそれを日常的に生活として在ることでバランスとれたり益々この地球上で「生きる」という楽しさを味わえるんじゃないのかな。これは好みだけど。


格段に現れかたが速くなっているいま、この遊びは結構面白い。以前だったらタイムラグが数週間~数ヶ月とかだったから、どの内面的な事が現れているのか忘れちゃってる。今はポンポーンと現れてくるからそれが分かりやすいし感じやすい。自分がイラッと何かに反応してそのままでいれば、またイラッとするような出来事が続いて「これ、今のあなたのイラッとポイントですねん」と教えてくれる。それで内面に眼を向けて思い癖やら外せば、すぐさま現実のおもむきが変わるのが実感できる。思い癖やら外すというのは、いまのジブンに合ってるかどうか心地よいかどうか感じてみて、もう合わないから要らんとなれば「こういう古いやり方感情思考はもう必要ない。こういう在り方は私はしない」と自分に宣言するような感じ?ちゃんと意図する。意識する。そこに○○が嫌だからとか都合が悪いからとか現実レベルでの思惑が絡まってなければ、ちゃんと目の前の現れかたは変わっていく。

現実世界を良くするためだけにやろうとすると、結局反対側の「○○がよくない」という思いがへばりついたままだから、そこら辺がトラップにもなってるし単にちょっと引き寄せもどきのようなのを体験して「こうやればこうなる!」みたいにはまっていっちゃうんだろうなぁ。それも全然アリだけど結局何も変わらない。いや、一時的に目の前の現実は良くなったようには感じられるかもだけど。


話戻ればその現れた現実の方にびゅーんと持ってかれちゃうもんだから「いい加減にせい」と内面に落ち着くことをお知らせされる。内面→現実の現れは変わらないのだから、外側の現実に右往左往して振り回されてないでその出来事に反応してるジブンのほうを観んしゃいと。もういい加減外側に反応するなと。くぅ。

こんなこといちいちややこしく考えなくても、無意識に自分の直感とかなんとなくそう感じるとかで自然に取り入れ生きておられる方は沢山いる。それでいいんだと思う。たぶんワタシはこういったのを知って実感体感しながら変わっていくのが好きなだけだから。


身体に身に付いている今までの習慣は、意識もって地道に変えていけばちゃんと変わっていく。地道過ぎて途中でうぎゃーっ!となるけど。常にジブンの真ん中で在ろうとすること、飛び出してはヒョコヒョコ戻ること。そのうち真ん中で在ることが安定してきて軸も広がる。
ジブンの中の静かなところ安心感で包まれるところに留まりそこからの視点で日常を過ごす。
思考も感情も身体とセットになっているようなもんだから、これした時にこういった思いが湧くというような身体に身に付いてる習慣は地道にリセットしていく。行動だけでなく思いや感情という見えないものも身体の習慣なんだということに先ずめをむけて。


書物で読む「嫌な出来事の相手はその役割をやってくれているだけ」というのを体感として感じ実感する。読んで知識としてあったものが腑に落ち「ああ本当にそうなんだな」と染み込み、そこからうわべだけの「そうなのか、ならありがたいことだな」から心底ありがたさを感じるへ変わっていく。
ジブンという宇宙の中でたまたま縁がなくそれを自分がやらなかっただけで、でもジブンという宇宙の中の出来事であることは変わらないから、結局はジブンの一部でもありそれがまるで細胞のひとつ、自分のどこか一面の現れのようにも感じる。
そこに焦点を当てて好みかどうか合わせて生きたいのかどうかはまた別で、そうやってジブンの宇宙のなかの自分というピースの彩りがどんどん変わっていきジブンという宇宙も変わっていく。
ミクロの視点とマクロの視点。


これからもどんどん軽くなるし変わっていくしなのだけど、軽くなる分見えないもののパワーというかそういったものも強く感じられるようになっていって。いまこうやってあれやこれや急かされてるかのように感じるのも、これからの変化でマイナスと感じられる方へ振れた時のパワーも強くなるから、今からジブンに合わなくなったと感じるものはとっととお掃除しちゃいなさいというありがたいお知らせでもあるわけで。


色んなものの反転。
意識、考え方、捉え方、今までのすべてのこと。反転するための今までの世界。
それは、自分という存在の中での反転あり、外側の世界の反転あり、それがジブンの宇宙というセカイの中の様々な反転であり、無限に流れている一部のことでもあり。


意識でどこまでも限りなくひろがり
身体で制限された体験をし
それらがめぐり色んなものが現れる

ジブンの宇宙であり
すべてであり

いやはや
なんとも


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kitoma
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