ハート感覚へ
いつもの神社は落ち着いていて穏やかだった。
その穏やかさの中に密かなヨロコビが漂っていて心地いい。
七五三参りのピークも終えたのか境内も普段の静けさを取り戻していて散策もゆったり。人声にかけ消されることもなく葉々が重なりあう歌声が響き、宙を彩っていた葉がくるくると舞い躍りながら、今度は大地を彩りに変えていく。
さっきまで「イチョウ」や「紅葉」と呼ばれていたのに、ほんの数秒で「落ち葉」と呼ばれてしまうんだねぇ。葉っぱ自体はなにも変わらないのにねぇ。
黄色い晴れ着をまとった路はとてもきれい。
出掛けは曇っていたのに、いつのまにかお陽さまが出ていて嬉しい。そして今日の雲も賑やか。
光キラキラ顕在で
鯉が通り 水面が揺らぎ
映る形が揺らぎ 姿をかえ
その境界が曖昧になり
歪んでるようで
その全体がひとつの美となる
下から順に整えられていたものはほぼ終わり、身体全身にどーんとした土台のようなものが貫き満ちている。
ハートだけがパワフルに振動し、全てを受け入れ全てを流し通していく。留まらない。
ここから暮れまではハートが鍛練され整えられ更に深まっていく。
ハート。心とはちょっと違ったニュアンス。
心をこの身体の自分ありきとするならば、ハートは内なる宇宙全体のトビラとなりアンテナとなる。
ハートにパワフルさが増してるいま、各々に合った様々な変化がハイスピードで駆け巡る。
その時その時の選択を求められる。
これは今のジブンに合っているのか? まだ持ち続けるか? 手放すか?
その時その時。瞬間瞬間の選択。
現実物事のさ迷う流れを注視しないで、その時その瞬間のジブンのハートの選択に意識を向ける。すべては選択の繰り返し。気持ちの選択。心の選択。意識の選択。
日常はそれで流れているようなものなのに、あまりにも無意識に機械的に習慣化された身体のハタラキだけで生きないで、そういった瞬間の選択を知らずにしているのだということに眼を向けようとする気持ち。意識の持ち方。
身体が慣れてくれば、ハート感覚の変化が少しずつでも感じられるようになる。
ハート感覚の変化が感じられるようになれば、自我思考の感覚とハート感覚の違いが感じられやすくなる。
そこからまた展開していく。
自我思考の感覚とハート感覚がごっちゃになり入り交じっていれば、分かるものも分かるはずがない。
ハートにパワフルさが増してるいま、そのごっちゃの中では混乱さが加速する。または右往左往する。
焦る必要はまったくないけれども、そういった無意識での日常生活への意識化。
すべてはその瞬間。
ひろがり ひろがれ
とけうるとき
いちなり
へだたりなし
わかつなし
どれほど みえなくても
ヒカリはみえないところで
いつも輝いているから
その虹色は
降りそそいでいるから
自由に 好きなように
翔べばいい
流れるまま