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ぴゅるると風が吹いている

風がぴゅうぴゅう吹いている

隙間に届く陽のひかりに
全身をゆだねて
ほぅ~っと息が抜ける

風は冷たいけれど
空気は凛として清々しく
この時季特有の澄んだ感じが
寒いながらになんとも心地いい



最近読み返している本に
そうだよなあーと改めて感じる文面があって
ちょっと長いけど引用

自分自身に「ついて」知ることと、自分自身を知ることを混同しなければ、精神分析も自分の過去について知りたいという思いも、別に悪くはない。
五千ページの報告書はあなたに「ついて」書かれている。過去によって条件づけられたあなたの心の中身、コンテンツである。精神分析や自己省察を通じて知るのはすべて、あなたに「ついて」であって、「あなた」ではない。あなたの心の中身で、あなたの本質ではない。エゴを乗り越えるとは、中身から脱することである。自分自身を知るとは、自分自身であることで、自分自身であるとは心の中身と自分の同一化をやめることだ。
ほとんどの人は自分の人生の中身を通じて自分が何者であるかを決めている。自分が感じ取ること、経験すること、行動や思考や感情、それが中身だ。ほとんどの人は中身にばかり関心を向け、そこに自分を同一化する。「私の人生(my life)と考えたり言ったりするとき、あなたは自分の本質である生命(life)ではなく、自分がもっている、あるいはもっているように見える人生(life)を想定している。中身を、つまり年齢や健康状態や人間関係、経済状態、仕事や生活の状況、それに精神的、感情的な状態などを思い浮かべているあなたの人生の内部的、外部的状況や過去と未来、それらはすべて(いろいろな出来事と同じく)中身の領域にあり、したがってどんなことでも起こり得る。
それでは中身以外に何があるのか? その中身の存在を可能にしているもの、意識という内なるスペースである。

エックハルト・トール「ニュー・アース」より引用


前文があるから分かり難い所もあるかもだけど
自分自身に「ついて」知ることと
自分自身を知ること は
まったくのベツモノなのだけど
引用文にあるように殆どの場合
私と思っているそれは
「ついて」についてであって
わたし自身の事ではなく
そして その
「ついて」についての内容(中身)と
自分を同一化してがっちり固めていて疑わない



今あちらこちらで緩み始めているひとつが
この部分であって 言葉を変えれば
肩書や役割などで送っている毎日と
それに付随する思考や感情それら全部から
「自分」というものを思い描いて来たけれど
もしかしてそれは違うんじゃないのか と
どこかで疑問が湧いて来たり

がっちり同一化して来たものに
少しずつヒビが入って隙間が出来て
風が通るようになり
違う視点から眺められるようになったり

そういった流れが
ぴゅうぴゅうと吹いている



ただこれも
ガッツリ現実世界にはまっていると
その日常が当たり前すぎて
疑問にも思わないだろうし

エゴがとーっても活発だと引用文読んでも
そのエゴの作用で
「じゃあ今までの人生何なの」とか
思えて来たりもするだろうから
やっぱりその人それぞれのタイミング



自分自身に「ついて」知ることと
自分自身を知ること は
まったくのベツモノ

今までは自己紹介するときに
自分に「ついて」述べるのが普通だったけれど
これからはそんなガワ(まわり)じゃなくて
自分の本質である生命のことを前提に
その個性特質である部分を
語るようになるのかもしれない

生まれも性別も年齢も肩書も関係なく
その「人となり」のみで成り立つ関係

偉いとか優秀とかそんなもん関係なく
お互いがお互いの唯一無二の部分を尊重して
それぞれが「生命である」ことである
それだけでOKな関係



それには先ず
自らを知らないと

自分自身に「ついて」知ることと
自分自身を知ることの違いを知らないと

普段どれだけ
「ついて」の中に没頭しているか
気付かないと

せめてそれらを
知ろう となったとき

ナニカが
動き始めるのでしょう

そしてもう
始まっているのでしょう


強風は冷たいけれど
その突風は
色んな 重き を
吹き飛ばしてくれます


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kitoma
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