ぴゅるると風が吹いている
風がぴゅうぴゅう吹いている
隙間に届く陽のひかりに
全身をゆだねて
ほぅ~っと息が抜ける
風は冷たいけれど
空気は凛として清々しく
この時季特有の澄んだ感じが
寒いながらになんとも心地いい
最近読み返している本に
そうだよなあーと改めて感じる文面があって
ちょっと長いけど引用
前文があるから分かり難い所もあるかもだけど
自分自身に「ついて」知ることと
自分自身を知ること は
まったくのベツモノなのだけど
引用文にあるように殆どの場合
私と思っているそれは
「ついて」についてであって
わたし自身の事ではなく
そして その
「ついて」についての内容(中身)と
自分を同一化してがっちり固めていて疑わない
今あちらこちらで緩み始めているひとつが
この部分であって 言葉を変えれば
肩書や役割などで送っている毎日と
それに付随する思考や感情それら全部から
「自分」というものを思い描いて来たけれど
もしかしてそれは違うんじゃないのか と
どこかで疑問が湧いて来たり
がっちり同一化して来たものに
少しずつヒビが入って隙間が出来て
風が通るようになり
違う視点から眺められるようになったり
そういった流れが
ぴゅうぴゅうと吹いている
ただこれも
ガッツリ現実世界にはまっていると
その日常が当たり前すぎて
疑問にも思わないだろうし
エゴがとーっても活発だと引用文読んでも
そのエゴの作用で
「じゃあ今までの人生何なの」とか
思えて来たりもするだろうから
やっぱりその人それぞれのタイミング
自分自身に「ついて」知ることと
自分自身を知ること は
まったくのベツモノ
今までは自己紹介するときに
自分に「ついて」述べるのが普通だったけれど
これからはそんなガワ(まわり)じゃなくて
自分の本質である生命のことを前提に
その個性特質である部分を
語るようになるのかもしれない
生まれも性別も年齢も肩書も関係なく
その「人となり」のみで成り立つ関係
偉いとか優秀とかそんなもん関係なく
お互いがお互いの唯一無二の部分を尊重して
それぞれが「生命である」ことである
それだけでOKな関係
それには先ず
自らを知らないと
自分自身に「ついて」知ることと
自分自身を知ることの違いを知らないと
普段どれだけ
「ついて」の中に没頭しているか
気付かないと
せめてそれらを
知ろう となったとき
ナニカが
動き始めるのでしょう
そしてもう
始まっているのでしょう
強風は冷たいけれど
その突風は
色んな 重き を
吹き飛ばしてくれます