なぜだかわからんけれども
6月に入ったとたん空気がまた変わり、やわらかくなった。5月が何か押されるような空気感があったので、ひと息つける感じ。その空気感も毎日変わり、日を追うごとに純度が増していくように感じる。ゆっくりと。優しく。
相変わらず変化のUP-DOWNの連続だけれども、以前と違うのはあまり「思い」を持っていられなくなってきてるかなーという感じ。ヨキもワルキも嬉しいもそうでないも、ワッと感じてすぐ流れていくような。ネガティブと呼ばれる感情もずーっと持ち続けている方が難しい。
どうも周りもそうみたいで、前だったら数日悩んでいたような人も、あれ?って思うくらいドツボにはまってる時間が短くなっている。
何らかのキッカケでまた再沸してるみたいだけどそれも長続きせず、再沸する度に態度というか悩みへの感度が緩んで別角度から観れるよう変化していっている(本人気づいてないけど)のをみると、ああこうやって少しずつ自分が意識してなくても要らんものは手軽にサヨナラ出来るよう変わってきてるんだなーと有り難く感じる。
今日はお天気もヨロシクナイ予報だったし、どこにも出掛けずのんびりしようと決め込んでいた。
今朝起きたら、はて、2箇所行きたい場所が浮かんでくる。どちらもお散歩コースにあるご近所さん範囲なのだけど。
外はポトポト雨が降っている。
アタマは騒ぎ出す。「え?雨降りだよ?」「出掛けなくていいようにって昨日買い込んだ食材どーすんのさ?」「まったり身体休めるんでしょ?」
うーむ。確かにそうなのだ。昨日までは。
アタマの言うとおりなのだ。食材も何も揃えて買い出ししたから、敢えて出かける必要はないのだ。しかもそのうちの1ヶ所はテイクアウト目的だから、1食分の食材が余る可能性が大なのだ。
フツーに考えたら雨で足元悪いし、何がなんでも今日必要なものでもないのだから、わざわざ出掛けない。でも何か分からんけど、今日はそこへ行きたいし行ったほうがいいと感じる。
むーぅ。どうするか。ワタシはどうしたいか今一度感じてみる。
やっぱり「行く」に変わらない。
ほんじゃらばと、まだギャンギャン騒いでいるアタマに、その時ふと思い浮かんだ買い忘れてた物を買う事を伝えて納得させる。「あれ、買い忘れてた。来週まではもたないし。どうせ行くなら同じ方面だから、お散歩ついでに寄り道しよう!雨もそれほどひどくはないから、ゆっくり歩けば大丈夫!」
"出掛ける理由"ができたので、アタマの騒ぎも落ち着く。アタマのはたらきというのも本当に面白い。さっきまでは「買い込んだ食材が無駄になったら大変」と一生懸命アピールする。多分このところの天候で食材もたなくなっているのを最近気にしたことがあって、出来るだけ使いきれる分量だけ買おうと思ったばかりだからだと思う。だから、「食材また食べきれないかも」という"不安さん"を出してきてくれる。
でもこれってちょっと考えれば大した事じゃない。冷凍したっていいし幾らでも方法はある。
もっと自分にとって重大事の不安さんが発動した時は、この世の終わり的な感覚すら出てくるのかもしれない。
でもこれは食材だから簡単にほどけたって訳でなく、どんな「不安さん」でもホントは同じなんだろうと思う。少しだけ不安さんから距離ができれば、そのスキマに違う視点が現れてくれる。
ドップリ「不安さん」に浸かっていると、今回みたいなのでも「そうだよなー、わざわざ出る必要もないよなー」となる。
でもそうしたら、ワタシの「なぜだか分からんけど行きたい」というココロの声はムシすることになる。そのムシした感じは小さな小さな違和感として自分の中に残っていく。そうすると、だんだん「ココロの声」が聴き取りにくくなっていって、そのうち「その時ワタシが感じてること」が分からなくなってしまう。
私はこの「なぜだか分からんけどそう感じる」を最優先させたい。よほどの無理がない限り、どれだけアタマが騒ごうとも、そう感じたほうへ動きたい。その時なんでそうなのか分かってないし、そうしたらどうなるのかも全く見えてないとしても。
そこら辺はお気楽サンで、今までの経験から「自分にとってワルイ事は起こらないし起こり得ない」と信じてる。もしその時「ヨロシクナイと思える状態」になったとしても、その先から見れば「ヨロシイ状態」であったと必ずなる。必ず。ただいっとき、その時その時期だけそうは思えなかっただけ。
この全てが整っている理(ことわり)は、ニンゲンというものをより豊かに、より広やかに変化変容させる流れにしかなっていない。その時ニンゲンがどう思いどう感じようとも。
すべての流れの一部であるニンゲンなのだから、その全体の流れを「ジブン」がコントロール出来るわけがない。「コントロール出来ている」と思うことが出来る自由はあるけれども。
「コントロール出来ない」と聞くと窮屈に感じるかもしれないけど、それはアタマの中の話で、この身体という枠組みを越えて広がっている全体へと意識を広げれば、コントロール出来ない窮屈さどころか全てが広がっている。
「身体の中にいると思っている自分」はコントロールできると思いコントロールしようと頑張る。でもその自分は宇宙を思い描くことができ、海外にいる自分を想像することも、誰か好きな人が喜んでいる姿を思う事もできる。意識すれば、今のいまも身体の枠を飛び出してどこまでも広がることができる。
コントロールしようと頑張るのは「目の前の現実」に対してで。でも実際はご縁の繋がり変化でしかないから何もコントロールできていない。一方で自分が想い描く意識はどこまでも広がっていきコントロールしようということさえ起こらない。
結局お出掛けして行きたいと思った所も行けてもちろん「買わなきゃいけない」理由のものも買って。他のお店もちょろっと覗いてみたけれど、まったく興味が湧かなかったから目的だけ済ませてとっとと帰ってきた。
それでもお外の空気はやっぱり気持ちよく、雨に濡れて木々は瑞々しく輝いていたし、人出が少ないからそれぞれのお店で少しお話しできる時間もとれた。普段の日曜ではあり得ないこと。
未だに「なんで行きたかったのか」は分からない。そのうち後になってナニカが繋がり、「あー、そーだったのか」と思うのでしょ。それでいい。
美味しいランチはテイクアウト出来てお腹いっぱいだし、予定外にお散歩できて少しは身体動かすことができたし。
何よりワタシの「やりたい」をちゃんと身体使って行動できたから、それでココロも大満足してる。
ちっちゃなちっちゃな事だけど、この「ココロの大満足」を感じていたい。
ココロの声を感じたら、身体を使って現したい。アタマの中だけでは未完結だから。
そして、大満足を感じたら、いつまでもそれを持ってないで寄りかかってないで忘れてしまって、また別のココロの声で新たな変化をヨロコビを感じたい。
大満足であろうと嬉しい事であろうと、それを持ち歩いてしまうとワタシの中がいっぱいになってスキマがなくなってしまうから。流れにくくなってしまうから。
大丈夫。ちゃんと必要なときにはその大満足や嬉しいと感じたことはポン!と飛び出して来るから。
その仕組みはベクトル逆の「不安さん」と同じ。不安さんもちゃんと必要な時に飛び出してくる。でも不安さんは心地よくないし過去に対しての思い癖が出てくるから、今と合わない要らん思い癖はサヨナラし、そうするとそこにスペースが出来るから、またウレシキ想いなんぞが通り抜けることができる。
そうやって少しずつ心地よさのスペースが増えていき、いつの間にか不安さんが実は心地よさのへのキッカケになったりしてぐるりとまわり、その役割が変わってくる。
少しずつ、少しずつ。
この変化が愉しみでならない。