ひと粒は無限
今朝の散歩では実をたくさん見かけました
そして雨上がりの雨粒たちがキレイです
30℃を下回るとこんなに涼しいものなのかと、吹き抜ける風の心地よさを感じながら、たまった熱を一気に冷ました雨というのは凄いなぁーと思い。
大地が乾けば雨が降り、潤いがたまれば陽がさし、ほんとーに自然というものはちゃーんと上手く巡っているのだなあ。
どちらか片方だけでも、森羅万象何か1つ欠けてもダメで。
完璧なバランス。完璧なハーモニー。
1日一回でも、こういった自然の不思議さステキさ凄さを感じられるのは、ありがたいなぁーと感じます。
「自分」も含めたミラクルな世界
早朝散歩のステキなところの1つは、 "周りが眠っている" 事かもしれません。
どこを通っても未だ 動き の気配が感じられません。
まわりが「止まってる」なか、自分だけが「動いてる」のです。
まー正確に言えば「止まってる」訳ではありませぬがね、その場の雰囲気として、です。
普段すべてが「動いてる」中で生きているので、ちょっと不思議な感覚を味わえます。
この「周りが止まってる」中に、「自分」も入れてみます。歩きながら。足は動いてます。
意識を自分の真ん中に向けます。外側の景色に目を移さず、ボンヤリと全体を見るでも見ないでもないようにします。
風景の中に"自分の身体"も入れてしまうような感じです。
「目」で見えてる風景が、前から後ろへ通りすぎていきます。
自分は同じ場所で足だけを動かし、風景のほうが向かってきて通り過ぎるような感覚です。
これは慣れてくると、日常の動いてるなかでも出来るようになります。
そうすると、自分は一歩も動いてないのに、あちらから「やって来る」のです(笑)。現れては消えていきます。
電車に乗っていても、「東京駅に行く」「東京駅に着いた」ではなくて、「東京駅がやって来た」という感覚になります。
日常のなかでは、どうしても「自分が、やっている」という意識になりやすいですが、こんな遊びをしてみると「ん? あれ?」となるかもしれません。
知識はいっぱいいっぱい仕入れてきたと思います。
「そのままでいい」と聞けば安心し、「いまここが大切」と言われればそうなのかと思い、「本当の自分に戻れ」と聞けば本当の自分を探し。
どの教えもありがたい言葉も、結局は「自分」が見聞きし取り入れているので「自分」というエゴがまた理解しようとし、更にその知識を持ち運びます。
この地球は身体が必須アイテムなので、身体も使わないと完了となりません。
身体をつかって行動で現し、身体の自動反射的についてる「当たり前」という感覚クセもほぐし、知識で得たものが「ああそうか」と理屈抜きでなります。
もう頭優先の世界はオワッテいるので、取りあえずやってみる。取りあえず感じてみる。そうなのかーと本心が感じたら、それを行動にうつしてみる。
そうやってるうちに「あれ?思ってたのと違う」とか沢山出てきて、それまで握りしめてたものがスルリと簡単にほどけたりします。
頭で頑張って「自我がー!」とかやってるより、よっぽど早いです。
"教え"だけ聞いて納得しても「自分」が強化されるだけです。
足らないから得る
から
あるから循環させる
へ移り変わっています
既に充分あったということを
思い出すと言ってもいいかもしれません
まだここが出来てないから
私はダメなんだ
ではなく
こんなのが私の中にあるから
それを楽しんで循環させよう
です
この世の中に
ダメなものなんて何ひとつなく
足りてない人なんてのもなく
個という現れの特性の違いがあるだけで
そのチガイがなければ
成り立たない世界です
雨粒ひとつぶひとつぶが
美しいです
そのひと粒は
花に潤いを与えもするし
石に穴も開けられるし
他のひと粒と混じり合い
大河にもなります
巡り巡っている世界であり
生まれ続けてる世界でもあり
消え続けている世界でもあり
いかようにも
豊かな不可思議な
セカイです