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コアでチガイで piece_vol.70
どんなに素晴らしい言葉や教えを聞いても、どんなに目映い光の映像を見ても、結局は「自分が知った」という所からは一歩も変わらない。それで「自分」は満足したりはするけれども。
どんなに頑張っても抵抗しても「思考」は瞬発で飛んでくるし書き換えてくるし、その時その瞬間起きた出来事を「言語化」して「意味付け」してそれぞれに「感情」と身体の何かしらの感覚をくっ付けて「自分はそう感じた、経験した」が出来上がる。知らないうちに。
そしてそれを「今日起きたこと」として時間の流れに当てはめて、いつか「過去の記憶」として「その時」ポンと現れる。いい経験・いい気持ち、よくない経験・よくない気持ちとタグ付けして。
そんなもので日常と呼ばれるものはクルクルと廻っている。「過去の記憶」に支配されてない日なんて、たぶん一日たりともないんじゃないのかしら。
そういうもんだと分かっていても、「思考」と呼ばれる過去の記憶や経験にグルグルに取り込まれる時は取り込まれるし、少し距離を置いてスーっと流せる時は流せる。それすらホントはコントロールなんて出来ないのに(だって思考は勝手に湧いてくるから!)、どーにかせにゃきゃとなるからクルシクなったりする。自分がダメなんだと、これまた過去の記憶にぶら下げて思考がチャチャを入れてくる。
なーんも、ダメなんかじゃない。
同じこと何回繰り返そうと、頭で分かっていても身体が動かないとしても。
「このまんまじゃダメだ」と思っているのが自分で、誰一人としてそれを責めてる人はなく、もし誰かに責められてると感じたとしても、それすら「自分の頭の中」で起きていることで、自分を責めているのは自分でしかないと言うことに気が付いちゃえさえすれば。
それが出来ないからクルシイのよ、と。
そりゃそーだ。みんな同じ。
この前まで「全体」として土台の横繋がりは完了してもう少し上の部分の横繋がり調整がされているみたいなのを感じてたけど、その土台部分に各々コアとなる芯がでーんと入ったみたい。その上の横繋がりはまだ調整中だけど、コアが建ったことでこれからそれが育っていく。まだほんとに小さな基礎部分。どう伸ばしていくかは本人次第だし如何様にも変えられる。
土台にコアが入ったということは、言い方変えると地球との新たな結び付きがしっかりしてくるということ。もちろん人の数だけ現れ方は様々だけれども、ニンゲンも森羅万象の一部として地球との繋がりはあるしその循環の中で生かされている。エネルギー的な身体の調整。少しずつ少しずつ、色んな変化に慣れていくよう緩やかに調整されていく。
もちろんこれもストーリーとしてのお話。
コアが安定してくるに従って、人々の何か本質的な部分で"覚悟"のようなものが導かれたり、今までとの"違い"に目を向けられるようになり、それらを自然に受け入れられ易くなるんじゃないのかな。
「違い」。違いがあって当たり前で、それだからこそ色んなものや考え方見え方があって面白いのだけど、何故だかどーしても「違い」に人は反応しちゃう。今までがそういう世界だったし、学校などでは統一されることでヨシとされるような事を教えられてきたから。そして家庭でも。それは親もそのまた親もそうやって育ってきたから。誰のせいでもない。そうだった、ということ。親だって自分が知ってることしか子供に与えられない。
「違い」があって当たり前なのだけどそうではない風潮・世界だったから、そこからの「判断」が身体に染み込んじゃってる。
人は誰しも"自分が中心"だから、自分の考えや感情と「違う」ものに反応して良い悪いを引っ張り出す。そういった思いが湧いてくる。更には良い思いやポジティブはヨキで、悪い思いやネガティブはワルキだと、輪をかけて「判断」に追い討ちを知らずにかけてる。何重にも。
周りの人や環境やそういった外側に対して「判断」をして、自分の安定を図ろうとしてる。「だから自分は大丈夫」「だから自分はダメなんだ」と。どちらも自分の安定。外側基準で自分を決めている価値観。
結局のところ周りを判断ジャッジしてるようで、一番判断ジャッジしてるのは「自分の事」なんじゃないのかなと思う。無意識レベルで。それがもう染み付いちゃってる。だから感じないしそうだとは思わない。
でも、常に毎瞬何かを判断しながら自分をもジャッジしてる。心の裏側で。
そしてそのジャッジをしてるのは「自分」で、本来のジブン、中心のジブンではない。
少しずつ、ここら辺が緩んでくるんじゃないのかなと感じてる。自然な形で。もしくはジャッジすることで自分の中に違和感みたいなものを感じ始めるとか。今まで染み込んでいる「当たり前」が緩んでくる。まーそこでまた「自分がおかしいのかしら」とかジャッジしちゃうんだろうけど。
常に自分で自分をジャッジし続けてるということにちょっと気が付くと、ラクになるんじゃないのかなーと思う。
そのジャッジ基準は「こうでなければならない自分」。勝手に「自分はこういう人」と決めてる思い。そんなもの。それだけじゃないけど。
それらはすべて外側に向けた意識で。
外側ありきで「こうありたい、こうでなければならない」自分で。
そうではない"本来のジブン"はどう感じてるのか、どう在りたいのか。ジブンの中心に戻ったとき、中心の安心感に戻ったとき感じてるものは何なのか。そこから感じるアンテナはどう反応してるのか。
判断をしないでいるって、ほんとーにムズカシイ。気が付いたら良し悪しを勝手に決めて持ち運んでる。どれだけ普段無意識にジャッジしまくってるか、ちょっと試しにやってみるだけですぐ分かる。5分ともたない。
これを、好みに変えてみる。
判断ではなくて、好み。自分が心地よいかそうでないか。
好きだから、やる。心地よいから、やってみる。
好みは判断ではないから、どんな好みでもOKになる。単なるグラデーションの立ち位置でしかなくなる。
外側に答えを求めようとするからクルシクなっちゃう。外側のジャッジで自分をもジャッジしてるから。
そしてそれらを知らないうちにやっちゃってるから。無意識の習慣。
どんどんそれぞれの個性が色鮮やかになっていく。自由に、伸びやかに。
四季によって咲く花が違うように、寒暖差で咲く時期も違うように、咲くのに合う土地があるように、花が咲かない種類の植物もあるように、千差万別。単なる個性の違い。
空は、雲は、自由ね
好き勝手ね
瞬間100%の美しさね
そんな
空や雲を感じられる
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