思い出しの種
東京は梅雨の合間の晴れ間で、晴れ間と言うより夏日で気持ちよく晴れています。
あーそうだった、こういう暑さがやってくるんだったと思い出しながら、この陽射しと風ならあっと言う間に乾くだろうと大物洗いをした洗濯物をご機嫌さんで干してみたり。
それもこれもここ数日の梅雨空で部屋干ししていた洗濯物が気になっていたからで、きっと雨続きじゃなければこの夏日もありがたさを感じなかったかもなーとか思うと、本当にどっちもあってありがたや~なんだなーとフフフとなります。
とか言いながら、明日の予報が31度と出ているのをみて早速「うぎゃー今日より暑いのかぁ」とどこかで騒いでいますし、相変わらず自我マインド思考くんたちの働きは正常のようです。
雨も晴れもどっちもあってありがたや~だけれど、その采配は自分の及ぶところではないから、ありがたや~なのかもしれません。
先日久しぶりに ”怒り” が噴出しました。
ちょこちょこ怒ってはいるのですが、噴出まで行く前に消えてしまうことが多く、一瞬「ん?」と怒りらしき感情が上がって「ああそうか」と何故そうなっているのかというその場の状況が把握できて怒りらしきものはその時には消え去っていました。一瞬ムッとする、という方が近いのかもしれません。
でも今回はそれらが起きる間もなく噴出まで一気に行くもので。
今までも何回かこういった類の”怒り”が沸いてくることがあって、まあ一種の暴走みたいなものなのでその根っこは何なのかしらんと思ってました。
それがとても久しぶりに訪れて。しかも全く知らない赤の他人様に対して。
今までとちょっと違っていたのは、ボンッ!とその怒りが現れてから、現実的にそれに対応している自分とは別に、ちょいと離れて眺めている自分も居てまるで実況中継みたいにやってることでした。
「あ、前と同じような怒りが現れてるよ、今」
「そうやって相手を威嚇する(してきた)のね」
「言葉をねじまげて(力技で)使おうとしてるよ」
「今発した言葉は怒りのエネルギー乗ってたね」
とまあこんな感じで体の動きと発してる言葉とは裏腹に、離れて観ている自分は、いま何が自分に起きているかを分析しながら自分に教えているようでした。
ここしばらく、自分の中の奥深くにあるものの掘り起こしに意識を向けていました。実際掘り起こすというよりも、それを浮上させて、閉じ込めていたものを受け止める、という許可を自分にしたという感じでしょうか。
上がって来てくれたのであれば、私は逃げないで対峙するよーという宣言のようなものかもしれません。
どうやら様々な要因から自分で気が付いてる範囲ではない”怒り”が自分の中に眠っているらしく、そもそも”怒り”というのは最終地点ではないから、それに絡まっているその下の層が何なのかを見なければなーと感じており。
だからまわりのヒントから怒りというキーワードは貰ったけれど、やりたい事はその怒りという取っ掛かりを元にその先の事でした。
そんなこんなを感じている時に起きた今回の一件。
噴出した怒りの感覚が収まるまで待って、さて何でこの怒りは湧いて来たんだ?何に私は反応したんだ?と問いかけます。せっかく出てきてくれた怒りの噴出、逃す手はありません。
そこから出てきたのは、
「自分なりの正しさ」であり「人に迷惑をかけちゃいけない」という思いでした。
これは何度も何度もお掃除してきた所であり、今回はそのさらに深い部分に絡まっているものが浮いてきてくれたようでした。
以前だったらここで「なぜそう思うのか」と深堀して行くのですが、今はもう軽い時代になってきているので、それは必要ありません。
「そうか、迷惑かけるのは良くないことだとまだ自分の奥底で思っていたんだな」としっかり認識して受け止め、そうだったかーとなってそこはオシマイです。
そうなった時点でその現象を起こした相手に対して、「私がこれに気付くために起こしてくれた現象」となり、怒りが感謝へ変わっています。
この感覚になると、現実というリアリティは薄れていて、自分の気づきのためにそういった物事が”現実”という場で展開されていた、みたいな感じになるので、発してしまった言葉や態度に対しての自己否定のようなものは訪れないようです。
ああ負のエネルギー浴びさせて申し訳なかったな、とちょっと思いますが、出してしまった負のエネルギーは自分に返ってきますから、自分でやったんだからしゃーないとその受け止め覚悟だけしてしまえば、あとは相手方に「その役目やってくれてありがとうございました」と自然と感謝が湧いてきます。
だって自分ひとりではこれは起きなかった事だから。
今回は結構離れて実況中継している時に色々感じ取れたみたいで、言葉に怒りというエネルギーを乗せるというのはどういう感じなのか、とか、実況中継しているとは別に、勝手に肉体が動いている時のそのモヤモヤのエネルギーの感覚とか、ああ今まで完全に巻き込まれていた時はこういったものに同化していたんだな、と感じたようです。
これでどうなるか、と言うと。
また”怒り”は湧いてくるのですけれども、今回よりも更に巻き込まれにくくなり、たぶんですが(何回もお掃除してる部分でもあるから)、噴出させる前に気が付くことが出来て、その怒りの裏に付いている見つけたいものをまた見つけることが出来る、というようになるかと思います。
怒りたい のではなくて
それしちゃ駄目じゃん!
て自分がどこかで強く思っていて
それしちゃ駄目!て自分が思う
それ を
そうか かつてどこかで
それは良くない事 と思うことで
自分を守って来たんだね と
そうやって生きてこれた自分を
よしよし してあげて
そして
もう
そう思わなくても大丈夫
思っても 思わなくても
どちらでもいい と
ぎゅぅーっと握りしてめていた拳を
ゆるめてあげる
それをするための
怒りやらの出来事であり
気づきであるから
いま
多くの人に起きているであろう
さまざまな出来事は
自分を責めるためでも
過去を掘り起こすことでもなく
そういうエネルギーまだ持ってるよ
もうそれ無くても大丈夫でしょ?
だから手放そうね
というものであって
それが起きたからといって
何ら 自分を責める必要も
まだあったとなげく必要もなくて
身軽になるための
ひとつのステップ
地球が 全体が
軽くなるために
起きていることだから
自分ごと でもあり
地球ごと でもあり
ぜんたいごと でもあり
ぜんたいごと であるならば
自分の手の届く範囲ではないから
自分 として出来る
目の前に現れた出来事を
淡々と でも 心から
こなして
あとは
ぜんたい にお任せ
そうすると
色んな風が 吹いてきて
いろんなものを
届けてくれる
思い出しの種 が
みんな うずうず
し始めている