感覚ありきの生活へ
いつも行かないルートで少し長めのお散歩へ。"なんとなくこっち方面"だけ決めて、あとは足の気の向くままテクテク。
ちょっと通らないだけで、街の様子が変わっていて驚く。特にお店の開閉店。閉店だけならまだしも更地になってたりすると、よほど印象的だったりしない限り以前何があったかとかもう全然覚えてない。記憶なんて頼りにならんなー。
どこもかしこもグラデーションが始まっていて。嬉しくてウキャキャとなりながらキョロキョロしてるもんだから、まったく歩みが進みやしない。数歩歩いて立ち止まるってのは散歩と呼べるんだろか?
銀杏の香りが漂っては「クサイ、クサイ~」と可笑しくなり、ドングリ見つけては「おお~っ」となり。
お空もピーカンで緑が映える。
なんて気持ちがいいんだろう~。
最近ご無沙汰のお店でランチしようかと覗いてみたけど、ちょうどお昼時で満席。あららと思い、併設のお店で元気なお野菜買って。帰り道沿いにあるこれまたあまり寄らないパン屋でホットドッグも。いい感じで身体も疲れてきたのでお家でお昼にしよう。
買ってきたブロッコリーとモンゴルインゲン蒸して、セロリとトマトは生で。コーヒー淹れてホットドッグ温めたら、お野菜てんこ盛りのランチになった。そう言えばこのところ野菜不足だったんだよなーとか思いつつパクつく。
せっかくなので「食べる」をやってみる。
「食べる」事だけに意識を向けて食事をする。
で、面白かったのがお野菜によってもハート辺りの開き具合が違ってた。
セロリだけ何故か閉じ気味だった。生だったかしらん? 一番ゆるんだのはトマトで、その次がインゲン。ブロッコリーは少しだけゆるんだ。トマトは買うとき手に持った時点でぶわーっとゆるんでたから、まあそうだよねと納得。
笑っちゃうのがホットドッグで、思いっきり閉じた。これはホットドッグがよろしくないと言う訳ではなく、今の私の体調には合っていないということ。普段ソーセージとかの加工物は殆ど食べないってのもあるかもしれないけど、まあ昨日暴食してて胃がお疲れさん状態だからってのが一番でしょう(笑)。
なら買うなってやつなんだけど、このホットドッグ、以前あの店で見かけて「食べたいなー」と思ってたけどトライしてなかったやつで。ずーっと心のどこかに残ってたから、じゃあ消去しましょということで。
ハート閉じ具合までガッツリ感じたから多分もう「食べたい」とは思わなくなると思うけど、またどこかのタイミングで食べたくなったら食べるかもしれない。
その時の自分の体調に合う合わないという食べ物は、結構ハート辺りで感じることで分かったりする。
これ、料理になってから分かってもねーとか思うけど、食材触れば身体は反応する。お店で食材持った時に、ハートからおへそ上辺りまでが、ゆるむかキュッと閉じる感じがするか。キュッと閉じる感じ、強ばる感じがすれば、その時の身体には合ってない食材寄り。私は同じ食材でメーカーや産地違いで種類があったりすると、これでどちらにするか決めたりする。自分の感覚。まーあまりペタペタ触るのもよろしくないから、失礼にならない範囲で出来る時に。人によっては、下っ腹に力が入るか入らないかとかもあるみたいだけど。この時は力が入る方が合ってるやつらしい。合ってないと力が入らず抜けるとか。私はこの感覚ないから実感したことないけど、人によって感じ方も様々だから、自分に合う方法で出来ると楽しいかも。
感覚を澄まして、日常生活に生かしていく。いま少しずつトライしてる事のひとつ。
色んな情報は有り難いし便利だけれど、必ずしもその時の自分に合ってるかは分からない。だから情報そのまんま鵜呑みにするのではなく、自分の身体や感覚に聴く。どれだけ「身体にいい食べ物ですよ」と言われても、その時の自分には合ってないかもしれない。自分の身体だって日々違うし、季節や環境でもかなり変わる。
感覚を澄ますというのは何も精神的な事だけの為にやるのではないし、どれだけ澄んでも生活に取り入れて日常の生き方在り方として使わなければ、それこそ単なるふわふわスピリチャルと呼ばれるような「わたし、あれこれ感じて繋がることが出来るんです~」みたいになっちゃう。それはそれで楽しいければよろしいのだけど、それだと何か根本的なところでちょっとチガウんじゃないのかしらんと感じる。まーチガウと思う時点で外向き視点だしジャッジしてると言われればそうなのでございますが。
ハートの感覚と言うのは、本来のジブン・ハイアーセルフ・直感・インスピレーション、呼び方何でもよいのだけど、この頭だけで考えてる自分とは違うところの感覚。この感覚を広げて深めることで、本来ジブンが持っている感覚が呼び起こされるし、頭だけでどうにかしようと頑張るよりもよっぽどスムーズに生きられるようになる。かなりザックリ言えばそっちがジブンの本心だから。うーん、本心だとズレちゃうか。より本来のジブン寄りだから。
「食べる」という事で感覚に耳を傾けるのも、誰かと楽しく談食してる時やTV・スマホ見ながらとかは出来ない。「食べる」という身体の動きだけに意識を向ける。思考は使わない。
これやってみると、いかに普段「食べる」をやってないかがよく分かる。例え一人で食べてたとしても、あれこれ考えながら食事してたら、気がついたらお皿が空っぽになってたりする。自分がいま「食事してる」事は分かっているけれど、その時その場所に身体はあってもジブンは居ない。普通は普段の食事ほとんどが多分この状態。食べ物を口に運ぶという身体の動きをしてるだけで、意識は思考に引っ張られてそっちに行っちゃってる。
なるべく一人の時は「食べる」食事をしようとしてるけど、ついいつの間にか「この後あれやらなきゃなー」とか思ってそこからストーリーが始まって、気が付いたら食べ終わってて「うぉっ!またやっちゃったー」とかしょっちゅうやってる。まーそれはそれでヨシとしてるけど。
今日もお陽さまがいっぱい。
色んなことして
色んなこと感じて
目の前の小さな事が
当たり前じゃなくなる楽しさ
たくさんたくさん
見逃してるけど
いっぱい感じてみたい
当たり前であることの
愉しさ
不思議さ