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同じところをぐるぐる廻る人間人生からの解放 ~知的生命体の繰り返し仮説~

人間は自由意思で自分の好き勝手で自分の努力成果を誇って、現代社会の文明の豊かさを享受している。

しかし、私は構造主義的にとらえるせいで、人間は全く大したものではないと思っている。それは、もし仮に人間が絶滅したとしても、また人間のような知的生命体はいつしか誕生すると思うからだ。そして今と同じになる。もし今と同じになるなら、人間だからここまで成功したといえるのだろうか。人間に価値があったと言えるのだろうか。

もし新しい次の知的生命体が生まれても、知的生命体であることの因果ゆえに、結局は現在の資本主義競争社会に至る。そして今の地球同様に、いつかは地球環境や負けた国の悲鳴で、資本主義が弱まり環境配慮価値観が多少は拡大する。しかし環境価値観すらも市場原理に内部化されて、そのまま資本主義が進み競争脱落者が衰退していき、三つ巴の国家連合の争いの世界になり、最後は1つの国が勝ち残り全てが吸収されて、残りは非文明村落が世界のあちこちに存在する社会になる。と考えている。嫌な未来だ。

今のバトンを持つ人間だからこそ、他の知的生命体にはできなかったできないこの流れを変えることこそが、人間の生きる価値であり、成し遂げる目標であり、知的生命体や人間人生の業からの解放でおり。初めて本当の人間になれるように思う。順を追って整理してみる。





知的生命体の繰り返し仮説

生物の基本原理は、自分だけの特権を獲得厳守して、その優位で生き残ろうとすることだ。自然環境のなかで、必死になって縦横無尽に枝分かれしていき、その自分だけのポジション争いをしている。もしかぶったら相手と潰しあう戦争になり片方が絶滅するか、隣や隅に避けて、新しい新天地を見つけるかである。企業でもスポーツチームのなかでも、なんでもそうだ。みんな生き残りのために自分だけの場所を争っている。

さて、生命が誕生し自然環境と遭遇する。環境から生き残るには、上記のようにその環境に最大限順応して自分だけの場所を探す必要がある。まずは、ローコストで高効率の植物が増える。しかし、環境に順応するとは、環境に100%身を預ける(チーム環境の色に合わせる)だけではない、自分から環境を改変し克服する選択肢(チーム環境を自分にいいように変えてしまう等)も当然ある。こうして動物(動くもの)も生まれる。フィールドにプレイヤーが増えてくると、自然相手ではなくてそのプレイヤーのおこぼれやゴミを利用するものが出てくる。分解者であり腐ったものを食べて分解する微生物群も繁栄する。こうして植物、動物、微生物分解者の三者三様の戦略で環境と向き合い、熾烈な場所取り合戦の結果、生態系も食物連鎖も生じるのは自明で当然な流れである。

それがいつになるのかは分からないが、ポジション争いの競争がある飽和点を超えれば、更に強い競争力を求めて、腕力よりも将来的に強い知性による生き残りが誕生し増加するのだろう。いつしか、知性は道具や火を獲得し、脳の巨大化や道具の扱いのために二足歩行になり、手が発達する。左右対称の必然性や、ものの奥行き知覚の必然性、音の判別のためやら全ての必然性で、多少の差はあれど、いまの人間のような形をした知的生命体に収束していくことだろう。

そして知的生命体の業がついてまわるようになる。知性が発展繁栄するには社会化を必要とする。それが自己家畜化を生じさせ、階級や序列が生じる。


いつしかその社会化がある点を超えると、知的生命体の活動を円滑に回す貨幣と市場の概念ができるのも時間の問題だ。それらは一番わかりやすく一番効率がよく、一見公平だからあっという間に浸透していく。生物の基本原理の競争、知性による社会化や序列化との相関性や親和性が高いともいえる。

今回は本筋ではないので避けるが、地政学的な視点を加えれば、地球の気候や成分分布によく似た星ならば、これら一連の競争がどういう順位でどういう決着がついていくのかの具体的な歴史も、かなりの精度でシュミレーションできることだろう。揺り返しや、やり直しや、時間がかかるかはしらないが、結局は、こうして今のここ、現在地に至るわけだ。





おわりに

仏陀は、人間のツラサからの解放として輪廻転生からの解脱を説いた。無我の境地を説いた。自我はいらないよ。外の環境の変化をありのままに受け入れよう。人生の一切合切を、それはそういうもんだよ気にすんな受け入れようぜと他人事のように言えるようになれば、その個人の心は確かに救われるかもしれない。でもそれは究極の無責任と同列であり、自分という存在の否定であり、私は違うと常々思っている。いやだって、その理屈で言えば、好きな人に自分の意志で手を伸ばして、手をつなげた時の心の感動を認めないことになる。自分の意思や思いを軽視している。

これまで述べた通り、人間であることは、生物の基本原理である優位の奪い合いや、知性の原理である社会化とその弊害がついてまわる。それは生き残るために必要なことかもしれない。しかし、その原理原則らは、生き残るのに多大なメリットを与えてくれているが、同時に辛さを与えているのだ。

わかりやすく例えるならば、RPGゲームで、たまたま手に入れたすごく便利で強い武器。それを使えば、上手くなんやかんやを回せる。でも、それを使うと少しずつ実は寿命が減っているとか、使い続けて7,8世代と世代を重ねると呪いが積み重なってその次に行けなくなるというのを知らないまま、使っているようなものだ。

というわけで、生物の基本原理の豪、知性による社会化の業、それらによって生じる毎回同じ未来結末に陥って繰り返されてしまう永遠のループの業。これら業から人間や人類が解放されることが、本当の意味での解脱?だと思う。(格好いい言葉募集しときます……。)

それが達成できれば、人間であることの意義の獲得や、人間だからできた人間という知的生命体の物語を真に始めることになるのかなと思う。私は人間を人間足らしめる根幹は、知的好奇心であり興味関心だと思う。しかし、それらは生き残りとか序列階級やら業のせいで、没頭したり集中することを妨げられている。解放されて、ただそこだけに注目しそこだけを称えあえるようになれば、それこそが本来の人間なのではないだろうか。



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