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幼児教育の本質に気づいた話 ~子供は学ぶのではなく真似る~
親として、子供には色々賢くなって欲しい。賢くなくても学んでほしい。自分なりの何かを見つけて、それで活躍してほしいと思います。と、そんな心構えで接している中で、子供がなにか掴んで学び、成長し”はねた”たように見える時があり、これは良い体験経験だったと思える瞬間があります。それらを分析した結果を一般化しつつ、題名の件について整理しようと思います。
そもそも学びとは
以前から書いていますが
・興味関心、やる気
・教科書お手本、マニュアル
・実体験経験
の3要素の2つ以上揃うことが学びです。やる気のないアルバイトでも、マニュアル叩き込まれて、実務を経験していれば、まぁそこでなにか得られます。できることや知識が増えるわけです。やる気しかない人が1万回シュートをとりあえず練習してみる!みたいな教科書がない状態でも、とにかくやればなにか得られます。後は、諸事情で実体験に乏しい場合でも、やる気と教科書お手本でシュミレーションを繰り返せば、それもまぁ上達します。漫画の主人公とかでいそうなパターンですね。
もう少しシンプルな指針は、生産的行動かどうかです。動画を見ているだけは消費的行動で、なにも残りません。見た感想をいう。主題歌を歌う。その絵を描くなんでもいいのですが、無から有を作り出すことが学びです。
子供の学びとは
上述が一般的な学びですが、子供の場合は、より未熟で無理解のために、すこし特殊になります。
子供の学びとは、学ぶではなく真似るです。
元来言葉の由来もそうらしいですね。真似るが学ぶに転じたと高校古典の先生がいってました。
詳しく説明すると、子供はまっさらすぎて型がそもそもないということです。例えば大人である我々が新しい言語を勉強するとしたら、文法から学ぼう。次に単語学習をして、最後は長文読解してその都度知識をいれようとか。あるいは、現地の人と話すのが一番だからSkypeやズームやらツールで現地の人にお金を払って日常会話を経験するとかも選べますね。別の例でいえば、知らない料理を作るとき、ネットで調べるとか。どこそこにいけばこの調味料は売ってるなとか見当をつけるのも同様です。
こうしよう。こうすればこうなるみたいな見通しをもてる。これまでの人生経験から、理解や定着の型があるということです。
一方で子供はそれがありません。例えば、ボールを蹴る練習をして理解や知識を得てほしい時、ボールに足タッチする動きを繰り返したり。ボールを両足で蹴ってみようとしたり。触ったり。とそういう具合に子供には型がなく、ただただ、様々な無数の点を体験として繰り返し打つような関わり方をします。
上の学びの三要素で言えば、教科書も、実体験経験(それが実るに繋がるもの)もなく、興味関心しかないとも言い換えられます。こうしたらどうなるのかな?の興味だけで子供は動くので、子供は本来学びはできません。
子供が学ぶには、学ぶときとは
しかし、子供はしっかり学んでいきます。それは真似るを繰り返し繰り返し、多数の点を無数に打つ作業をしていると、いつしかその点が線として繋がるからです。そこで学びになります。
アンパンマンを見て、バイキンマンという悪いやつがいる。アンパンチでみんな笑顔になるを知る。
その上で、いろんな所にみえないバイ菌がいて悪さをするから、手を洗ってやっつけようと言えば、バイ菌=バイキンマン=悪いやつ。アンパンチ=殺菌=石鹸が繋がるように。
他にも、なんで泣いているのかなとか。あ、痛そうとか。なんであんなことしたんだろうとか。競争しているねどっちが勝つかなとかどんな感想や反応でもいいのですが、親を子供が真似ます。
するといつかの時に、あれ!あの二人もかけっこで競争している。どっちが勝つかなと言い出したり。さらに進めば、競争ってアンパンマンとバイキンマンのライバルにも近いよねとか。でも、ライバルって良いけど、競争って良いことなのかなと質問してきたり。
その子が何処に関心をもって、どの言葉や反応に響くかはその子供次第です。ただ、その興味関心の時に、必死に親の言葉や反応や、保育士さんの反応や友達の反応等をそっくり真似することで点をうつことを繰り返します。そして自分の物としていく。いつしかそれが線になるというわけです。
親の背中を見て育つとは良くいったものです。親の背中(真似る手本)がなければ子供は本当に学びにくいと思います。
良い学びと悪い学び?子供との向き合い方
その子が何処に反応するかはわかりません。しかし、反応した時に、親が手本を見せる。それを真似してもらう。これが子供の学びの核心です。つまり、大人は子供と一緒になって遊ぶ。一緒に本やテレビや絵本をみて一緒に楽しみ反応する。そのなかで親の背中を真似てもらう。一緒が一番肝心なポイントだと考えます。
スマホやアニメを見せ続ける親がいますが、あれはこの意味で最悪ですね。スマホやアニメをみて、反応したとしてもそこにお手本がないので、目の前でチカチカしたもの、丸々がバツバツ位の低解像度の低さで眺めるだけになります、その興味関心が、右から左に流れていきなにも点に残りません。
旅行やアウトドアや外出が学びには良いという風潮もありますが、あれも幼児教育(小学生前)では説明が逆?な気がします。親がそういうことをするなかで、子供の何かの興味関心とそこでの親の手本が必ずついてくる性質の時間なので、子供の真似るが作りやすい環境なだけかなと思います。
なんとか教育といって早期教育が溢れています。フラッシュ暗記とか、迷路や塗り絵とかワークとか。そういうただ知識や技術を詰め込む類は、これまでの見解からみれば、あまりよくないものに思います。興味関心とお手本がなければ子供は真似れません。子供が本当に楽しそうに率先して工夫してやっているのならば良いとは思いますが、親が喜んでくれるからとか。終わればご褒美がでるからとかの感覚だと、ただの丸暗記なだけで、そこでしか使えない工具を1つ頭にいれた位の効果にとどまる気がします。ぷよぷよの連鎖のつみかたを覚えた位のもんです。応用性に乏しい。
自己肯定感教育をよくききますが、これも親が人間的に成長しているかどうかの方が、こうしてみると大事で先な気がします。何かの出来事があったときにする親の態度や反応を子供は真似ます。親がサボりがちなら、子供もサボりがちになりますし。失敗してもニコニコしていれば、自分も失敗は全然怖くない!と向き合えるように真似るでしょう。子供のためとか、小手先の技として自己肯定感教育を学ぶのも大事だとは思いますが、そもそも立派な人間として、自律して自制して、軸をもち、ぶれずに振る舞う必要があると思います。
おわりに
子供と親は別人格です。真似られたからといっても自分と同じになるわけもなく、たまたまのどれかに反応して好き勝手に虫食いで、親から受け継いでいく。そんなものだと思います。
また、思春期にもなれば、親の言っていたこと振る舞いと、その他との大勢との比較や、取り繕い、偽善、都合よく、に気づいてこれまでの親のありように反発すると思います。そして本当に自分が正しいと思うことを見つけていくことでしょう。真似られてもなにもおかしなことにはなりません。子供は子供で自分らしく巣立っていきます。
というわけで、幼児期の最大の教育は、子供とできるだけ一緒になって遊び、真似してもらうことだという話でした。
↓ あまり誰も教えてくれない?的を射た説明がみられない子供との本質記事をもうひとつあげときます。気になる人はご覧ください。
100冊ぐらいは幼児教育本を読み漁りましたが、一番しっくりきて子供たちが育児をするときには渡してやろうと思うぐらい中核核心を突くよかった本も紹介しておきます。妻に言ったら、そんな先のこと……と一笑にふされましたけどね。笑