社会に労働者という枠は、本質的には、不要である その0
労働(生産活動)は、生きる上で欠かせないが、それが自然な流れで”労働者”となると、なんとも誰も得しないと思う。生きるために働くのではなく、働くために生かされるという本末転倒に陥っている。もっと今の先があると思う。今回は労働や労働者について整理したい。
労働の段階的変化の整理 今はまだレベル3程度では?
人が暮らす上で、労働(生産活動)は必要だ。食べ物も水もなければ、のたれ死んでしまう。労働は効率効果という力学(皆でまとまってやったほうが割が良い)のおかげで、労働は集約化されていく。そして労働を社会村全体で回すとなると、作業を取り仕切り企画管理指示する人(上の立場)がでてくる。立場の差と貧富の差が生まれて、更に延長すると、資本を多く持つ人、果ては企業やら組織体が誕生し、対となって、労働者(働かされる”だけ”の人)が生まれることになる。
で、現代社会のように労働力を賃金に変えて、日々の生活を過ごす回す”だけ”という社会人(労働者)が多く誕生する。労働をより大きく強く効率的にしようとしてきた自然な流れで1つの到達点だろう。末端は細分化されて切り離されて、意義も価値もなにもなく、ただ労働力を提供するだけの存在になる。一方、そのおかげで便利で手軽のここまでの生産性の高い便利な(目的によりたやすく到達できる)社会になった。でも、その先があるんじゃないだろうかと思う。社会にとってこの社会人(労働者)という枠が本当に今後もずっと必要なのだろうか。
レベル0 生存のための必死の労働生活
食べ物も水もなければ、まずはその獲得に一日の大半を労働時間に費やさなければならない。よくあるサバイバルドキュメンタリーの動画のような飲み水を手に入れるのに3時間かかりましたな生活になってしまう。生きるためだけの日々だ。
レベル1 集団による労働の効率化、余暇の誕生
各自で火を起こさなくても、一人が起こした火を大きくすれば人数分賄えるように、皆で協力して仕事を分担すれば効率化(集約化)できる。集団で暮らすことで、労働を効果的効率化し、知識や技術の進歩も重なれば、生きるための活動をしなくてすむ時間、余暇がうまれる。休んでもいいし、好きなことをしていいし、道具の改良を試してみたりもいいだろう。氏族集団でまとまって暮らして狩猟中心文化の相互扶助みたいな、もちつもたれつな共同体維持労働がこのレベル1だ。
レベル2 信用や保証の代わりにお金
農耕文化という予測計画管理を獲得し、その生産性を向上させていき、蓄えまで手にいれた。労働をしなくてすむような人さえも生まれる。そしてその蓄えが周囲からもますます人を呼び寄せて、どんどん村が大きくなる。大きくなりますます生産力を向上させる反面、大きさゆえに一体感や相互扶助、共同体意識が減少していき、結果として、労働をさせる強制力と、労働の報酬(信用や保証)としてのお金や権力が幅を利かせていく。労働をさせる側と労働者のその時代の力関係や雰囲気で、余暇の量が決まることになる。
しかし少ないとはいえ、飢えて死ぬリスクを失くして、少ないながらも確実な”余暇”を手に入れた。その余暇を使って、時代を重ねて、人々は芸術や研究や娯楽やら様々な好奇心の元に、いたるところに世界は広がっていく。
レベル3 慢性的な搾取と地位の固定化(現代)
世界が広がり、技術水準の発展がある点(産業革命=人力からの解放)を超えると、労働はレベル3になる。大規模集約でのマンパワーによる効果効率労働の段階から、労働は、より資本や機械ありきのものに転ずる。つまり、労働(生産活動)には大きな資本を必要とするようになる。こうして、資本主義が拡大して、資本家と労働者の立場が分断され絶対的な覆らないものに変化していく。個で見れば、潰れた栄えた、一代で財を成したの波や特殊事例はあるかもしれない。しかし、基本的には、資本とは蓄積されなくならない性質がある以上、それはどんどん差を生み、地位を固定化していく。一度つけられた差を埋めるのは難しくなる。現代の慢性的な搾取と労働力を提供するだけの労働者が溢れる現代社会は、産業革命以後からそう変化していないと思う。後述するが、ここから労働者という悪や負が世界に溢れることになる。
レベル4 搾取からの解放。労働者の地位向上や流動性の向上
レベル2やレベル3の頃からもずっと、この弱い労働者の立場を向上させようとずっーーーと、権利の保護や立場の保護を求めて資本家との闘争は続いている。奴隷制の撤廃。最低賃金、週休2日制だ、ベーシックインカムだ等、例をあげればきりがない。しかし、これらは本質的には、ただ無理矢理労働者の地位を底上げするものでしかない。本質的に労働者の地位を向上させるには、労働”市場”における市場取引の透明性活性化を図ることの方が、健全で効果的な気がする。
つまり、市場の失敗の回避である。
・市場への参加プレイヤー数の確保(これはクリアしている)。
・情報の非対称性(雇う側と雇られる側での能力や情報のギャップ)。
・一定以上の取引量(市場価格、参考価格の算出、相場観醸成のため)。
であり、これらが正しく揃えば市場が機能する。つまり、労働者の流動性が増して、嫌ならやめてもいい!が保証されやりやすくなり、結果的に労働者の能力に応じて、労働者の地位は向上する。頑張れば報われる社会になる。
レベル5 労働=知的活動=人生の意義と喜びそのものへ
工場のような大量生産が望ましいようなその方がはるかに効率がいい生活必需品関連の資本集約労働は、依然として残り続ける。それはその方が理に適っているからだ。しかし、そうではないような住民サービスとか、知的サービス、情報サービスなどのサービス業(大資本の投下が不要な業種業態)においては、ITシステムの最大限の利用により、その人の望む労働と、それを望む個人とのマッチングを直接図ることができるはずだ。
労働力としての労働ではなくて、本当の意味での自分だけの自分らしい働きかけで、社会に価値を産み出す労働をすることができるようになれるはずだ。それはつまり働かされるやらされるものであるという労働者を卒業して、労働=その人ならではの生産活動=人生の意義喜びと、全てが1つで不可分のないものとして機能し、評価継続できる社会体制の構築へと繋がると思う。
社会人(労働者)という枠の悪
1、全員が全員適職に就ける訳ではないこと
2、資本家や組織より立場が弱く、報われにくいこと
3、やることやってればいいというぬるま湯に陥ること
労働者は労働者であるというだけで、不幸で不遇である。それは上の3点の通りだ。自分のやりたいことや興味関心があるテーマを貫けるわけではない。能力云々のふるい分けでそもそも興味関心を仕事にできないということもあるが、それでもその人なりの興味関心に適した関わり方があってもいいと思う。マッチングが不十分であり不幸である。
次いで、総じて労働者の立場は弱く、その労働を真面目に真剣に貫いても相応の対価や報いが得られるかどうか定かではない。いや!報われる報われないは関係ない、全ては自分の成長のためと割り切り、それをモチベーションに頑張れ!という話や声もありそうだ。しかし、それはやりがい搾取だ。自分の成長になるから人からの対価や報い云々を期待するな、あてにするなではなくて、自分の成長にもなるし、成長してそれが会社や組織にプラスにもなるし、そのプラス分はいくらか明確に自分にも還ってくるのが自然だろう。現状は成果と報われることが釣り合わずに不幸である。
最後は、上のような労働者の不満や不遇はあるけれども、とりあえず日々を生活できている、生活を回せている……なら、仕方ない。我慢しよう、テキトーにやろう。楽してそこそこの力で仕事を回そうとなる。更にここで貯金が増えたり、将来の不安が軽減したり、なにかやった仮初の達成感みたいなものがあると、尚の事、まぁこのままでもいいやとぬるま湯につかることになる。本人の本当に人生を通して成し遂げたいものから遠ざかり、転職や新しい挑戦も始めにくい。十分労働して戦って、稼いでいるのだと慢心して堕落惰性になる。
個でみても、社会でみても、こうした点から労働者という存在や構造は、欠陥を抱えている。その個の真の意味での労働(生産活動)を最大にすることはできないし。50,60の生産活動を良しとして、それをそのまま維持横ばいにさせる惰性を持ち合わせているからだ。
今のこんな社会で報われるのは、労働の外から労働の上前をはねようとする資本家や投資家で、それに成功した人。労働力をかき集めてその上前をいかにうまくはねようとうする輩(一部経営者)。相対絶対的に、その社会の中でいい労働と対価のポジションにいるもの。(高給取り職、現代でいえば公務員?とか)リスクとか貯金とか無視して、起業できるメンタルや素質をもっていて、自分のやりたいやり方が社会に偶然受け入れられた起業家。とそんな風に思う。ごく一部の人達の為だけにある社会だとも言える。
現状の社会を、能力と気質と情熱で、報われるべき対価で成功を収めた人はすばらしいと思う。でもそうじゃなくて、お金に小賢しい人、運が良かった人、社会や人生ってそんな人たちのためだけのものか???誰もが誰もの光を求めて、その人なりの道を歩めるような、柔軟で自由で誰もが輝けるのが本当の社会なのではないかと思う。
労働者の不遇を減らす改善案
労働者の不遇や不満を解決するとしたら下のような3つの方向性になると思う。各案の詳細は別記事でまたあげるとする。
1、労働者の地位向上、流動性の確保。
2、強制惰性労働からの解放、ポストシステム、全労働者の個人事業家
3、社会での受け皿、安全弁の用意。生命の危機からの解放、何度でも挑戦可能
1、労働者の地位向上 流動性の確保
地位向上というと言葉は少し違うかもしれない。正しくは労働者の適正な評価指針の導入と、適正な対価のバランスをとることだ。結果的に、搾取される分は減り、今より地位が向上する。すると、成果が認められ報われるのだから、更なる成果獲得のために労働者のモチベーションは上がり、またその達成やらに満足感をえることがてぎる。
今現在の労働者の評価は、人事の評価や資格、転職時の履歴書や職務経歴書のようなものと面接(口語)の曖昧な情報群しかない。だからこそ、立場の強い企業やらに労働者は買い叩かれてしまう。それは、搾取もそうでありながらリスクと不安から慎重にならざるを得ずに、安く見積もる心理もある自然なことだ。
だから、野球のセイバーマトリクスのように、労働者を評価し指標化し、分析比較が用意な、新しい全会社に利用できる人材評価システムを作れないだろうか。個人の能力適性を丸裸にして、そのまま適職診断まで持っていけるようなものを作れないだろうか。さながらセンター試験?共通一次試験のようなもので、各自がその試験を受けて認定された結果を、企業に提出すれば良い。こうすれば、企業も人材採用のミスマッチはへり、労働者側の転職活動もやり易くなるだろう。今でいう○○の資格がありますをもっと延長拡大した労働ライセンス的なものだ。
これは但し、あくまで地位向上案であり。抜本的解決案ではない。詳細は別記事で。
2、個人事業主やポストシステム?の採用
誰かの意図や意思や、立場の強い弱いで自分の思うようにできない自分の思うような対価にならない。労働者は裁量や意思決定力が弱いというならば、労働者を個人事業主として見立てるような働き方はどうだろうか。
企業や組織が企業組織足るゆえんは、専門と集中による効率化である。一人で営業から仕入れから経理までやるよりも、10人分の仕入れやら営業やら経理をまとめて一人で行う方が効率がいい。みんなで山に水を汲みに行かなくても、誰か一人が10人分をくんで他の人は違うことをしたほうが効率的になるわけだ。
しかし、例えばウーバーイーツ(あの負担とリスクを押しつけるだけの個人事業主化は最悪だけれども)にあるように、需要と供給をマッチさせるシステムがあり(営業の不要)、その支払いやらを捕捉して経理や税務の負担をかなり軽減するシステムも作れる。そして、配達員の信用をある程度は保証するシステムもある。(保証や信用については、もっと精度を高める必要があるが)
営業や経理や税務やら色々とシステムが代行することで、企業でいること、企業であることの効率化メリットは減り、個人でのはたらき方がしやすくなっているわけだ。ほぼ現状技術的には、自分自身の裁量を拡大して、自分のやり方や値づけやらで働くことができる労働者の個人事業化は可能だろうと思う。
そうして個人間のやりとりが進めば、大規模生産と供給による効率化(工業製品や食品工場、各種ライフライン)を除く分野は、ポスティング。もんすたハンターやゲームの冒険者ギルド的な、○○をいくらでしてほしいというクエスト的に様々な需要が張り出されて、供給側がそれに応える、それに申し込むような需給関係になっていくのではないか。個々の互いの求める水準で落ち着くことになり、自分が考えるものよりも高い水準を強要される今よりかは労働者の地位が上がると思う。
詳細は長くなりそうなので、別記事で考察。
3、安全弁、生活保障、最低保証
全員が全員、物凄く高い意識?で労働を捉えられないといけないというわけでもない。手を抜いて遊びに興じる人生も、その人の立派な人生だ。肝心なのは、やりたいことがあるが不安やリスクで二の足を踏み、停滞することにある。やりたい人がやれる環境もしっかり準備しようという話だ。
ではなぜ、二の足を踏むのかと言えば、それは不安とリスクと欠乏感にある。起業や何かにお金を使ったりして損をすると、人生失敗だ!終わりだ!とか。やって損するかもなら最初からてを出さないということになっているわけだ。つまり、失敗しても絶対死ぬことはないよ。そこでまた何かを貯めたりアイディアが生まれれば、再挑戦できるという環境の整備である。
労働していれば、衣食住は最低限保証される。そこでの生産活動があるラインを超えるならば、絶対に死ぬことはないというシェルターのようなものを整備するということだ。それは資本機械ではなく人的集約産業(農業やらの一次産業)が適しており、その辺りをシェルターとして調整することで、安心安全と挑戦を両立できたらいいと思う。詳細は別記事で!
おわりに
労働とは生産活動であり、その人が消費する以上に何かを生み出しているならば、本来はそれで問題ないだけの話だと思います。年金2000万円問題も、死ぬ直前まで働いて毎月の稼ぎがあり収支がマイナスでないのなら貯金はいりません。働かない期間を作る前提でいるから、そんな数字がでてくるわけです。
生産-消費の超過分(プラス部分)を休暇としてだらだら過ごしてもいいし。余暇として、別の意義ある目的に費やしてもいいと思います。なのに搾取や貯金やら意図せぬ無理な力学でゆがめられて、働かされすぎている気がします。
いつまで働けるかわからないから貯金貯蓄で乗り切ろうとか。今のはたらき方で釣り合っているならば、惰性で続けてもいいか的な、なんとも主体的に自分の人生と労働が結びついていない気がします。産業革命以後の労働者はおしなべて不遇で不幸だともいえます。
話は変わりますが、人間の寿命は本来55歳~60歳程度だという話があります。本来、動物は老衰や癌や認知症で苦しむことはありません。そのまえに誰かに狩られて死ぬからです。人間だけが特別に医療の恩恵を受けているから、長生きしているのであり、長生きしているから、長生き病の数々に苦しんでいるのです。仮に極限まで長生きしたとしても、現人類の最高年齢は120歳ぐらいです。そしてその人の死因は、心臓の筋肉の崩壊(不随意筋の限界)であり、心臓の崩壊であり、そこまで生き残れるように内臓が本来設計されていないからです。医療の進化で”死なないような”期間がのびただけです。
何がいいたいかと言うと、ありきたりですが、人生の意義は長生きすることでもないし、そもそも55か60で終わるはずのものの、おまけをもらえるようになっただけなのだから、おまけではない、今、寿命を迎えるそれまでの時間を、もっと皆が自分の生産的活動(労働)のために、有意義に使えたらなぁと思います。そしてそれが個の幸せと社会の幸福に寄与して、双方が満たされればいいのにと思います。